表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神墓 ―ゴミ神拾いの最弱神子、百柱の神々と世界を再創する―  作者: ふゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/8

第4話『一生それだ』

 石段は、下から数えて三度、幅が変わる。

 下層のそれは、担ぎが荷を背負ってすれ違えるだけの幅しかない。踏面は擦り減って中央が窪み、雨の日は水が流れる溝になる。アシは毎日ここを上り下りしているが、今日ほどゆっくり上ったことはなかった。

 使いは、振り返らない。


 「あの」

 「歩け」


 それだけだった。


 中層に入ると、石段が広くなった。

 踏面に窪みがない。掃いてある。両脇に石の縁が立って、その内側に土が入れられ、木が植わっていた。細い木だ。葉が数えられるほどしかない。それでも、街の中に木があるということが、アシには珍しかった。


 白い壁が並んでいる。商家の蔵だ。

 工房の前を過ぎた。

 石の台に、壺が並んでいる。担ぎが背負うものと同じ大きさだ。両腕で抱えて、ちょうど胸が隠れるほど。

 職人が、その一つを膝に抱えて、内側を覗いていた。指を入れて、筋をなぞっている。

 汲んだものを入れられる焼き物は、限られている。並の焼き物では持たない。持つのはこの壺だけで、それを焼ける職人が中層にいる。

 だが、その壺も永久には持たない。汲むたびに内側が焼けて、筋が増える。筋が上まで届いた壺は、割れる。

 職人が首を振って、壺を台の下へ下ろした。もう使わないほうの山だった。

 下層に回ってくるのは、上がその山へ下ろす手前のものだ。筋が口の近くまで来ている壺を、割れるまで使わされる。割れば弁償で、弁償できなければ飯が止まる。


 アシの壺は、上から二本目まで来ていた。

 通り過ぎながら、足の運びは変えなかった。

 女が二人、蔵の前で立ち話をしていた。片方が笑って、袖で口を覆った。担ぎが通っても、顔を上げなかった。


 「早くしろ」


 使いが振り返らずに言った。

 アシは、少し歩を速めた。

 肩の上で、小さいものが揺れていた。落ちないように、途中まで生えた腕が襟を掴んでいる。ナムジは後ろから、道端の木の葉を一枚もいでいた。


 *


 上層に入ると、風が違った。

 石段の幅が、また広くなる。ここまで来ると、擂鉢の内側がひと目で見渡せた。

 下が、遠い。

 自分の長屋がどのあたりか、屋根の並びから探した。探しているうちに、どれも同じに見えた。

 振り返るのをやめて、上を見た。


 館があった。

 白い壁と、灰色の甍。門の前に、白い装束の男が二人立っている。門柱に、大きな丸い印が彫られていた。丸の中に、細い線が八本。八本の線は、外へ向かってそれぞれ長さが違っていた。


 「連れてきました」


 使いが言うと、門の男が中へ声を投げた。

門の前に、白い装束の男が二人立っている。

 門柱に、大きな丸い印が彫られていた。丸の中に、細い線が十二本。彫りが深く、線の一本一本に墨が入れてあった。


 庭を通された。

 白い装束が、いた。

 庭石に腰かけている者、柱に寄りかかっている者、板の間に上がって茶を飲んでいる者。

 八人。

 全員が白を着ている。全員が、腰に印を提げている。

 全員が、こちらを見た。


 アシは膝をついた。頭を下げる。体が勝手に動いた。

 誰も、立てとは言わなかった。


 「これか」

 「これですね」

 「昨日の勘定が合わないのは、こいつだと」


 声が幾つも重なった。若い声が多い。笑いを含んだ声も混じっていた。

 板の間の奥で、誰かが茶碗を置いた。

 その音で、全部が静かになった。


 「顔を上げなさい」


 アシは、顔を上げた。

 板の間の中央に、男が座っていた。歳は分からなかった。三十を越えているようにも、二十そこそこにも見えた。白い装束の襟を几帳面に合わせ、膝の上で指を組んでいる。

 落ち着いた顔だった。怒っても笑ってもいない。


 「鷹倉だ」男は言った。


「この庭にいる者は、みな八十衆の者だ。ここの神墓の神子は、いま全員が八十神と縁を結んでいる。だからそう呼ばれている」


 アシは、その言葉を頭の中に置いた。

 白い装束の一団。石段ですれ違うと膝をつく相手。荷を押しのけて通る者たち。名前があることを、初めて知った。


 「昨日、六段へ下りたと聞いた」

 「……はい」

 「六段まで下りて、戻ってきたと」

 「はい」

 「そういう報告が上がっていない。番小屋の板にも、お前の名がない」


 鷹倉は、傍らの者に何か言った。若い神子が立ち上がって、庭に降りてきた。

 庭石を三つ越えたあたりで、その足が緩んだ。

 もう二歩、近づく。

 止まった。


 「……おい」

 「なんだ」

 「重い」


 庭がざわついた。


 「ここ、重いぞ」若い神子は一歩下がった。それから、また一歩戻った。下がると消え、戻ると現れるものを確かめる歩き方だった。「……ここからだ。ここから先が、底みたいになってる」


 彼が足で示したのは、アシから二歩ほどの場所だった。

 板の間から二人ばかりが降りてきて、同じところで止まった。


 「重いな」

 「四段目ぐらいか」

 「四段は言いすぎだ。三段の途中ぐらいだろ」


 アシには、何も分からなかった。

 自分の周りの空気が、他所より重いと言われている。息をしても、いつも通りだった。

 ただ、三人が同じ場所で足を止めたことだけを、憶えておこうと思った。


 「おい」と一人が言った。「後ろの、誰だ」


 アシは、振り返った。

 ナムジが、庭の松の枝を引き寄せて、葉の匂いを嗅いでいた。


 「……ん?」

 「そいつだよ、そいつ」

 「俺?」


 白い装束の男たちが、ナムジを見ていた。全員が、まっすぐに見ていた。

 炊き場では、誰も見なかった。ガマは、腕が触れる距離にいても見なかった。

 アシは、そこで初めて理解した。

 ――見える人と、見えない人がいる。

 そして、見える側の顔が、順に変わっていった。


 「……なんだ、これ」


 最初に言ったのは、若い神子だった。


 「なんだ、これ。おい」

 「格が高い」

 「高いだろ。上のほうだろ、これ」

 「なのに、なんでこんなに薄いんだ」


 誰かが笑った。一人が笑うと、次が笑った。

 鷹倉は、笑わなかった。


 「名は」


 ナムジは、松の枝を離した。答えなかった。


 「答えないか」

 「答える義理がない」

 「そうか」


 鷹倉は、それ以上聞かなかった。代わりに、庭の隅に控えていた者を呼んだ。

 腰に鍵束を提げた男が入ってきた。房になった鍵が、歩くたびに鳴る。番小屋にいた二人ではないが、同じものを提げていた。


 「墓守衆に測らせろ」


 鍵束の男は庭に降りて、懐から布の包みを出した。

 開くと、手のひらに収まるほどの板が入っていた。壺と同じ色をしている。同じ焼き物だ、とアシは思った。触れなくても分かった。担ぎの目は、壺の色を憶えている。

 板の表には、筋を刻むための細い溝が、下から上へ並んでいた。


 「手を出しなさい」


 アシは、両手を出した。

 男は板を掌に伏せて置いた。


 「そのまま」


 しばらく、何も起きなかった。

 やがて、掌が温かくなった。湯呑みを持ったときの温かさに似ていたが、温かさは手の内側から出ていた。

 男が板を持ち上げる。

 アシは、持ち上げられる前に見た。

 いちばん下の溝に、焼き跡が一本。

 それだけだった。

 壺の筋と同じ焼け方をしていた。二年、毎日見てきた色だった。読み方を知らないほうが、まだよかった。


 「一本です」


 庭が、笑った。


 「一本?」

 「見せろよ。見せろって」


 若い神子が板を取り上げて、掲げた。何人かが覗き込んで、そのたびに笑い声が上がった。


 「本当に一本しかねえ」

 「途中で止まったんじゃねえのか」

 「止まってない。もう出てない」

 「じゃあ何本からが神子だ?」誰かが言った。「うちの連中、これで何本入る?」

 「みなさま、十二本です」と、鍵束の男が答えた。「板の溝は十二までしかありません。それ以上は測れないので、上は全員が十二本と記されます」


 庭が沸いた。


 「聞いたか。十二だとよ」

 「こいつは一だ」

 「十二と一だ」


 板が回されていく。誰かが振って、光に透かした。


 「もう一回やらせろよ。二回目なら二本になるかもしれん」

 「ならねえよ。器だぞ」

 「一本しか入らねえ器だ」

 「壺なら、とっくに下ろされてるな」


 誰かが言い、それが一番受けた。

 鍵束の男は、笑わなかった。板を回収し、布で拭って、包み直した。

 それから、別の包みを開いた。


 木の札が並んでいた。指の長さほどの薄い板で、上端に穴が開き、紐が通してある。

 「これが印です」男は一枚を手に取った。「神子であることの証しで、墓守衆が出します。持たない者は神子とは認められず、持つ者は神子として扱われる。それだけのものです」


 男は焼き印の台に札を当て、押した。

 焦げる匂いがした。

 押されたのは、丸の中に線が一本。


 「丸は、この神墓のことです。線は、測った本数」


 アシは、庭の白い装束たちの腰を見た。

 どれも札を提げている。丸の中が線で埋まって、遠目には黒く塗り潰されたように見えた。十二本。

 自分の札は、丸の中がほとんど白かった。


 「今日から、腰に提げなさい」

 「……はい」

 「外して歩けば咎めを受けます。無くしても同じです」


 男は札の紐を、アシの帯に通した。

 立ち上がって、鷹倉に向き直る。


 「神子です。間違いありません」


 庭の笑い声が、そこで一度、止まった。

 それから、さっきより大きくなった。


 「よかったな」


 誰かが言った。心の底から言っているように聞こえた。


 「おめでとう。神子だ。担ぎから神子だ。この街始まって以来だぞ」

 「拍手してやれよ」


 本当に、何人かが手を叩いた。


 「なあ、そこの担ぎ」若い神子が板の間の縁に腰かけて、足を組んだ。「お前、名前は」

 「アシです」

 「アシ」男は繰り返して、それから吹き出した。「アシ? 悪しのアシか?」


 庭が沸いた。


 「そりゃそうだ。そりゃそういう神を引く」

 「名前どおりじゃねえか」

 「親が正しかったんだよ」


 アシは、膝をついたままだった。

 二年、毎日聞いてきた種類の笑いだった。下層で聞くのと、ここで聞くのとで、何も違わなかった。違うのは、聞いている人数だけだった。


 「なあ、聞いていいか」


 若い神子が庭に降りて、しゃがんで目線を合わせてきた。親切そうな顔をしていた。


 「お前、どこで契約した」

 「……底で」

 「六段より下か」

 「はい」

 「ふうん」男は頷いた。「じゃあ、うちの穴だな。うちの穴、まだ生きてるよな」


 アシは、意味が分からなかった。

 男は、庭の外を指した。指の先には、擂鉢の内側と、その底の穴があった。


 「見ろよ。まだ光ってる。まだ汲める。」

 「……はい」

 「じゃあ、お前が契約したの、主神じゃないな」


 周りが、また笑った。


 「主神と契約したら、穴が枯れるんだよ」男は丁寧に言った。教えるように言った。「ただの穴になる。汲むものがなくなって、石と土だけになる。街は掘るものがなくなって、終わる。俺たちが下を押さえてるのは、そのためだ。……で、お前、なんにも起こしてないだろ」


 「……はい」

 「起こしてない。何も変わってない。昨日と同じだ」

 「ハズレ神ってやつだ」と、別の声が言った。「いても、いなくても同じ」

 「格は高いんだろ、あれ」

 「格が高いハズレなんて、初めて聞いたぞ」

 「いちばん質が悪いじゃねえか。飾りだけ立派で、中身が空」

 「そいつと、そいつの神と、お似合いだな」


 笑い声の中で、目の前の男は笑っていなかった。まだしゃがんだままだった。


 「……お前、分かってるか」

 「何をですか」

 「契約は、一度きりだ」


 庭の音が、少し引いた。


 「やり直せない。破棄できない。死ぬまで、それだ」


 男は、アシの腰の札を指で弾いた。乾いた音がした。


 「一本だ。お前、一生それだ」

 風が吹いた。上層の風は乾いていて、下と匂いが違った。


 「昨日までは、まだ引けたんだぞ」


 男は立ち上がりながら、言った。


 「街の連中は、みんなまだ契約できる。飯屋の婆さんも。ガキも契約できる。他の担ぎだって引ける。誰かがいつか主神を見つける。それがこの街の終わりで、そのために俺たちは下を押さえてる。……お前だけが、もう何もできない」

 「担ぎのままなら、まだ何かあったかもしれんのになあ」


 誰かが、しみじみと言った。


 「いや、無理だろ」別の声が笑った。「こいつが六段より下まで行けたのは、置いていかれたからだぞ。自分の足で行ったんじゃない」

 「じゃあ、拾ったんだな」

 「拾いもんだ」

 「拾いもんの神子」


 その言葉が、しばらく庭を回った。誰かが気に入って、二度言った。


 「なあ」若い神子が、思いついたように振り返った。「お前、明日から担ぎはどうすんだ」


 アシは、答えられなかった。


 「神子は荷を担がねえよなあ」

 「担ぐ神子なんて聞いたことねえ」

 「じゃあ、飯はどうする。神子の飯を食うのか? 上に上がってくるのか?」

 「上げるわけないだろ」

 「じゃあ、下でも上でもねえな」

 「どこで食うんだ、こいつ」


 庭が、それでいちばん笑った。

 アシは、膝の下の石を見ていた。

 朝、ガマは一人分だけ残っていると言った。あれは、今朝の話だ。

 明日の分を、誰が数えるのかは、まだ誰も決めていない。



 そこに透き通るような凛とした綺声が一滴。


 「あら」


 声は、門のほうから来た。

 庭にいた全員が、そちらを向いた。

 白い装束ではなかった。濃い色の羽織を無造作に肩に掛けて、供も連れずに、女が一人立っていた。片手に帳面のようなものを提げている。

 膝をつく者はいなかった。全員が、動けなくなっただけだった。


 「御影様」

 「通りかかったのだけれど」


 女は庭に入ってきた。歩き方に迷いがない。

 そして、アシの前で足を止めた。


 「アシ」

 「……はい」

 「立ちなさい。膝が石で痛むでしょう」


 アシは、立った。立ってから、立ってよかったのか分からなくなった。

 御影は、庭を見回した。

 白い装束が、十を超えて並んでいる。誰も何も言わない。


 「神子ともあろう方々が」


 静かな声だった。


 「揃いも揃って、一人を囲んで、笑っていらしたのね」

 「……いや、御影殿。これは、うちの穴のことです」若い神子が言った。声が固い。「担ぎが神子になった。前例がない。主神がどうなるかの話を」

 「それは、この子を囲んで笑う理由になりまして?」

 「……」


 「...宿す神の格が知れますこと」


 誰かが、息を呑んだ。

 庭の空気が、そこで変わった。何人かが目を伏せ、何人かが動かなくなった。反論しなかったのではない。反論の仕方がなかった。


 「ご自分の神が、いま隣で見ていると思ったことは?」御影は首を傾げた。「ないのでしょうね。あるなら、こうはなさらない」


 鷹倉が、板の間から立ち上がった。

 袴の膝を払い、こちらを見る。見ているというより、視界に入れた、という顔だった。


 「番小屋の勘定を直しておけ」

 「はい」と鍵束の男が答えた。


 「名は」

 「アシ、と」

 「アシ」


 鷹倉は繰り返した。


 「……担ぎに名があると、知らなかった」


 悪意はなかった。彼は本当に、知らなかっただけだった。

 背を向けて、奥へ入っていく。

 誰かが「鷹倉様」と呼び、二人ばかりが後を追った。

 庭に残った白い装束たちは、動かなかった。笑いも止んでいた。御影が立っているあいだ、誰も座り直そうとしなかった。


 「帰りましょう」


 御影が言った。アシに向かって言った。

 アシは頭を下げて、庭を横切った。

 誰も、何も言わなかった。門を出るまで、背中に視線があった。


 *


 門の外は、風が正面から来た。

 上層の道は、擂鉢の縁に沿って横に伸びている。ここまで上ってきた石段の口が、少し先で下へ折れていた。

 御影は、そちらへ歩き出した。アシは、二歩下がって従った。

 石段の口に差しかかったところで、御影が足を止めた。


 「四段目の東は、まだ崩れている?」


 昨日も、同じことを訊かれた。

 石段の途中で、荷を背負ったまま答えた。あのときは、突然だったので、聞かれたことにだけ答えた。

 今日は、二度目だった。

 二度訊く人がいる、ということを、アシは考えたことがなかった。担ぎは、見たことを言わない。言う先がない。番小屋の板に書かれるのは壺の数だけで、道がどうなっていたかを書く欄はない。ガマに言えば口答えと取られ、神子に言えば話しかけたことを咎められる。


 二年、彼は見ていた。数えていた。書いていた。

 書いた先が、どこにも繋がっていなかった。

 その二年に、昨日、初めて訊く者が現れて、今日また来た。


 「……崩れています」


 声が、うまく出なかった。


 「縁が落ちて、下の段に溜まっています。溜まった上に、また湧きます。溜まりが厚いところほど、湧きが早い。東の隅は、去年の秋には膝の高さでしたが、いまは腰まであります」

 「増えている?」

 「増えています。三日前より、四つ多い。四つのうち二つは、これまで湧いたことのない場所です。北寄りの、天井から水が落ちているあたりで――」


 そこで、止めた。

 訊かれたのは、増えているかどうかだけだった。


 「……すみません」

 「いいえ」


 御影は帳面を開いて、書きつけていた。

 書く場所を探すのに、時間がかからなかった。指が迷わず頁を繰った。以前から、その頁に書いているらしかった。

 書き終えて、顔を上げる。


 「北寄りは、いつから」


 アシは、顔を上げた。


 「……六日前です」

 「ありがとう。助かるわ」


 アシは、返す言葉を持っていなかった。

 この街で、そう言われたことがなかった。


 石段を下りながら、御影は何も訊かなかった。

 どこで契約したのかも、どの神なのかも、昨日どうやって生きて戻ったのかも。

 中層の木のあたりまで来て、彼女はようやく口を開いた。


 「あの方たちの言ったことは、半分は正しいの」


 御影は前を向いたまま言った。


 「契約は一度きり。それは本当。この穴の主神を、あなたはもう契約できない」

 「はい」

 「でも半分は、この街の中だけの話」


 アシは、顔を上げた。


 「……街の中だけ、ですか」


 御影は、足を止めた。

 石段の途中だった。ここからは、擂鉢の縁の向こうが少しだけ見える。稜線が二つ、重なって遠くへ続いていた。


 「あなた、この穴のほかに、いくつ知っている?」

 「……いくつ、とは」

 「神墓よ」


 アシは、答えなかった。

 考えたことがなかったからだ。

 この街にひとつある。それがすべてだった。ほかの土地にもあるのだろうと、言われれば思う。だがそれは空の高さのようなもので、自分の生活とは関係のない事実だった。


 「山向こうに、湖の底に沈んでいるものがある」御影は稜線を指した。「その先の国には、川に橋が架かっていて、橋そのものが神墓になっているそうよ。街が丸ごと墓の上に建っているところもある。形が違えば、湧くものも違う。汲み方も違う。壺を使わない土地もある」

 「……壺を、使わない」

 「桶と呼ばれるもので掬うと聞いたわ。舟の上から」


 アシは、それを頭の中に置こうとした。

 置けなかった。

 舟。網。水。湧き。それらがどう繋がるのか、絵にならない。絵にならないということは、自分が何も知らないということだった。


 「神墓の数だけ、神がいるの」御影は言った。「一つの墓に何柱いるのかも、分かっていない。一柱かもしれないし、十柱かもしれない。誰も数えていないから」

 「……誰も」

 「誰も」


 風が、擂鉢を渡っていった。

 アシは、腰の札に触れた。丸の中に、線が一本。

 この街では、これが底だ。

 だがこの街の外に、いくつあるのか分からない穴があって、その中に何柱いるのかも分からない神がいる。誰も、数えていない。


 胸のあたりが、変な具合に熱くなった。昨日、契約したときの熱さとは違った。あれは外から来た熱で、これは内から出ている。


 「あなたは、ここにいるべきではないと思うわ」


 御影は、静かに言った。


 「昨日、六段へ行けと言われた人間が今後も歓迎されるとは思わないでしょう?」

 「……はい」

 「行きなさい、とは言わない。今日は言わない」彼女は歩き出した。「けれど、いつかそうなる」


 下層まで下りると、日が傾いていた。

 炊き場の湯気が上がりはじめている。

 御影は、下層へは入らなかった。石段の終わりで足を止めて、帳面を持ち直した。


 「明日も、四段目を見ておいてくれる?」

 「……はい」

 「無理はしないで」


 彼女は上へ戻っていった。羽織の裾が石段の角を曲がって、見えなくなった。

 アシは、しばらくそこに立っていた。

 腰の札が、風に揺れて腿に当たる。丸の中に、線が一本。

 外して歩けば咎めを受ける。

 これを提げたまま、明日、どの列に並ぶのかは、まだ誰も決めていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ