第3話『口』
肩を叩かれた。
アシは目を開けた。板の上で、いつのまにか眠っていた。背中が張りついて、剥がすのに息が要った。
目の前に、小さいものがいた。
掌に乗るほどの大きさで、獣の骨と割れた壺を継いだような形。腕が片方、途中まで生えて止まっている。その腕の先に、紐で綴じた紙束が載っていた。
油の染みた表紙に、見覚えがあった。
アシは、動けなかった。
小さいものは、腕を少し前へ出した。それ以上は伸びない長さだった。
受け取ると、濡れていた。頁が波打っている。開くと、墨が滲んで、字がいくつか流れていた。四段目の東の壁の記述は無事で、五段の声の距離は半分消えていた。
「……どこで」
小さいものは、答えなかった。答える口がない。
水を渡ってきた跡が、床に細く残っていた。
「そいつ、拾いもんが好きなんだ」
ナムジが藁の上で寝返りを打った。目は開けていない。
「昔は瓶ばっかり拾ってきた。飲み終わったやつを、わざわざ」
アシは手帳を胸に当てて、そのまましばらく座っていた。
それから、乾いた板の端で頁を広げ、一枚ずつ剥がして並べた。乾かしてから閉じないと、貼りつく。
「行くのか」
「はい」
「そうか」
ナムジは起き上がって、瓶を三本ばかり拾い集めた。それから水の中を歩き出した。
灯りは持っていない。足元も見ていない。柱の間を抜けて、まっすぐ壁へ向かっていく。
アシは追った。追いながら、二歩先の水面が見えない。ナムジの足音だけが、迷わずに先へ行く。
壁の前で、その姿が横にずれて消えた。
近づくと、壁が二枚に分かれていた。手前と奥がずらして重ねてあり、正面からは一枚に見える。横から入れば、人ひとりぶんの隙間があった。
「早く来い」
――この人は、道を探していない。
アシは、隙間に体を入れた。
道は狭く、何度も曲がった。途中から上りになった。ナムジは一度も迷わず、一度も振り返らなかった。
「あの」
「なんだ」
「なぜ、分かるんですか」
「なにが」
「道が」
少し間があった。
「……昔、通ったからだろ」
「いつ頃です」
「忘れた」
それきり、何も言わなかった。
小さいものは、アシの肩に乗っていた。乗ると決めたわけではなく、歩き出したら勝手に乗ってきた。軽い。重さがほとんどない。
道は、石段に出た。
出てみるまで、何段目かは分からなかった。壁の崩れ方を見て、東側の欠けの形で確かめる。
四段目だった。
見慣れた場所に立ったとたん、膝が笑った。ここから上は、二百六十四回ぶん知っている道だ。
上りは、往きの倍かかった。
五段目の踊り場を通ったとき、頭の上で溝が鳴った。
樫の板が、鎖に引かれて上がっていく。差し込んだ光の中に、板の下端が見えた。引っかき傷が、昨日より増えている。
石段を上りきる。
番小屋の脇で、二人が轆轤の柄に取りついていた。人の背丈ほどの轆轤で、鎖がそこに巻かれている。回す手が、途中で止まった。
腰から鍵束が下がっていた。落とし戸の数だけあるのだろう、房になって、動くたびに鳴った。
「……上がってきたぞ」
「誰だ」
「担ぎだ」
二人は顔を見合わせた。片方が小屋の壁の板を見た。板には墨で数字が並んでいて、朝に下ろした数と、上がった数が書いてある。
「昨日の勘定に、入ってないな」
「じゃあ、いないやつだ」
いないやつが目の前を通り過ぎたが、二人は柄を回し直した。数が合わないことより、鎖を巻き終えるほうが先だった。
*
「口」は、いつも通りだった。
夜が明けきって、荷が並び、担ぎが縄を掛けている。誰も顔を上げない。
壺を提げた列があった。
昨日の帰りに汲んだ分の検分だ。番小屋の前に台が置かれ、担ぎが順に壺を差し出していく。受け取った男が、壺を斜めに傾ける。
内側に、横の筋が並んでいた。焼きついた跡が、口のほうへ向かって等間隔に走っている。傾けると、底のほうで青いものが揺れて、下から三本目の筋に触れて止まった。
男は指を三本立てて、内側の高さに当てた。
「三つ」
板に書きつける。
次の壺。傾ける。揺れる。二本目で止まる。
「二つ。……おい、二つだぞ」
差し出した担ぎが何か言った。よく聞こえない。
「六段まで下りたんだろうが。六段で二つか」
「湧きが多くて、途中で」
「言い訳は帳面に書けん」
男は板に二と書いて、次の壺を取った。
列の後ろで、誰かが低く言った。
「去年は、四段で三つ入ったろうが」
「言うな」
アシは、列に並ばなかった。
昨日、壺を担いでいない。担いだのは荷だけで、その荷は五段目に置いてきた。
炊き場は、下層の長屋の裏にある。
湯気と、汗と、濡れた縄の匂い。列は短くなっていた。朝の飯はもう終わりかけで、鍋の底が見えている。
アシは、列の最後についた。
ガマが杓を持っていた。顔を上げて、こちらを見た。
止まった。
手が止まり、顔が止まった。目だけが開いて、それから、開いたまま何も言わなかった。
昨日、この男は灯りを渡さなかった。六段だと言った。落とし戸の下りる音を、上で聞いていたはずだった。
「……お前」
声が掠れていた。
「お前、どこから戻った」
アシは、答えを持っていなかった。
どこから、と言われても、名前のある場所ではない。
「下からです」
「下の、どこだ」
「分かりません」
ガマは、アシの後ろを見た。石段のほうを。そこには誰もいない。
それから、杓を鍋に突っ込んだ。
「……一人分だけ、残ってる」
椀に落とされた飯は、鍋の底のところで、少し焦げていた。
一人分だけ残っていた、という言い方をした。アシは椀を受け取りながら、その数え方について考えた。今朝、この列に並ぶ人数から、自分は引かれていたことになる。
「明日は」
「……明日のことは、明日の俺が決める」
いつもの台詞だったが、声が違った。
アシは頭を下げて、列を離れた。
「おい、その飯うまいのか」
ナムジが、ガマの真横から言った。
鍋を覗き込んでいる。顔が近い。
「焦げてるぞ。底のほう、焦げてる」
ガマは、動かなかった。
次の担ぎに杓を向けて、「もう無い」と言った。ナムジの腕が鍋の縁に触れそうな距離にあったが、目は一度もそちらへ向かなかった。
アシは、椀を持ったまま歩いていた。
足は止めなかった。振り返らなかった。
石垣の陰に入って、腰を下ろす。
膝の上に椀を置いた。
ナムジが追ってきて、隣に座った。
「なあ、聞いてるか」
アシは、飯を食べた。
焦げていた。それでも、二日ぶりだった。
「無視するなよ」
「おい」
アシは、口の中のものを飲み込んでから、椀の底を見ていた。
目は上げなかった。
「精が出るな」
その声には、顔を上げた。
片腕の老担ぎが、杖をついて立っていた。左の袖が空で、右手に椀を持っている。
「爺さん」
「戻ったか」
それだけだった。どこから、とは訊かなかった。
老担ぎは、隣の石に腰を下ろすのに時間をかけた。杖を置き、腰を落とし、息をつく。
「昨日、六段だと言われとったな」
「はい」
「六段まで行った担ぎを、わしは三人知っとる」
「……はい」
「三人とも、爺になっとらん」
老担ぎは、自分の椀から飯を少しつまんで、アシの椀に落とした。
アシは、懐から干し飯の欠片を出した。昨日の半分。乾いて、少し崩れている。
差し出した。
老担ぎは、それを見た。
「取っとけ」
「返します」
「取っとけと言うとる」
老担ぎは椀を置いて、擂鉢の斜面を見上げた。
朝の日は、もう中ほどまで下りてきている。商家の白い壁のあたりが光っていて、その上の館の甍は、とうに乾いていた。ここまで届くには、まだ湯が沸くほどかかる。
「上は、もう二度目の飯だな」
「そうですね」
「わしらが一度目を食う頃に、あそこは二度目だ」老担ぎは杖の先で、自分の足元の石を叩いた。「同じ日を、違う速さで生きとる」
アシは、椀の底の焦げを箸で剥がした。
「……スゲさん」
言ってしまってから、耳が熱くなった。
名は、二年前から知っている。誰かが呼ぶのを聞いて憶えた。憶えていたが、口にしたことはなかった。
この街で名を呼ぶのは、呼んでいい間柄の者だけがすることだ。アシは、自分がそちら側だと決めていいのか分からなかった。決めていいと思った日が、なかった。
老担ぎが、こちらを向いた。少し笑った。歯が少なかった。
「なんだ」
アシは、続きを用意していなかった。
「なんでもありません」
「そうか」
スゲは、また椀を持った。断りもしなかったが、咎めもしなかった。
二人とも、しばらく黙って食った。
ナムジは石垣に寄りかかって、空の瓶を眺めていた。スゲの目は、一度もそちらを向かなかった。
人の流れが変わったのは、そのすぐあとだった。
石段のほうがざわついた。
上から、誰かが下りてくる。
担ぎたちが荷を置いて立ち上がった。膝をつく者がいる。
白い装束ではなかった。見慣れない色の帯を締めている。
中層から下は、用があっても人を寄越さない。用があるのは、いつも下から上へ行く側だ。
使いは「口」で足を止めて、あたりを見回した。
それから番小屋の男に何か尋ねた。男が板を指した。昨日の勘定の合わない板だ。
使いが、こちらへ歩いてきた。
担ぎたちの視線が、順に動いた。
「担ぎのアシは」
スゲの箸が止まった。
この街で、担ぎが上層に呼ばれた例を、アシは聞いたことがなかった。




