第2話『最も安い契約』
落とし戸が落ちたのは、頭のすぐ上だった。
風が先に来て、それから音が来た。
アシがいるのは五段目の踊り場だった。畳を三枚ほど並べた広さで、片側は壁、片側は穴に落ちている。壁ぎわを石段が上下に伸びていて、上りの口を、いま板が塞いでいた。
樫の厚板に、鉄の帯を三本打ちつけたものだ。石段の幅いっぱいある。両脇の壁には縦に溝が切ってあって、板はその溝を滑って落ちてくる。落ちきると、床との間に隙間は残らない。
板の上端から、鎖が二本伸びていた。鎖は天井の穴に吸い込まれて、その先は見えない。先がどこにあるかは知っている。「口」の脇の番小屋に、人の背丈ほどの轆轤があって、鎖はそこに巻かれている。二人がかりで回す。
溝に油を差すのは、担ぎの仕事だ。月に一度、上の段から順に差していく。差した数だけ、板はよく落ちるようになる。
アシは板に両手をかけて押した。
動かない。指をかけられるところがない。かけようとして削れた跡が、板の下端に残っている。
その下端に、引っかき傷が並んでいた。
浅いものから、木を割って鉄まで届いているものまで。どれも、下から上へ向かって走っている。
叫んだ。
一度だけ、腹から声を出した。
声は板に当たって、戻ってきた。五段で、声の届く距離は三歩。手帳にそう書いてある。書いたのは自分だ。
――知っていて、叫んだ。
アシは膝に手をついて、息を整えた。
朝になれば、鎖が巻かれて板は上がる。それまで、ここにいればいい。
それだけのことだ。
石段の下から、音が上ってきた。
石を爪でこする音だ。ひとつではなかった。
踊り場の縁から下を覗く。石段は壁を巻きながら落ちていって、二巻きぶん下で闇に消える。その消えるあたりで、青い光が一度ふさがれて、また戻った。
朝まで、ここにはいられない。
アシは石段を下りはじめた。すれ違うためではない。壁を横に移って、やり過ごすためだ。
五段目の東の壁には、染みが三つある。
染みは黒く、手のひらほどの大きさで、いつも湿っている。まわりの石は白く粉を吹く。二つは古いもので、ひとつは昨日ついたばかりだった。
染みのあるところから、湧く。
百二十回ぶん書いた末に出てきた話で、間違えたことは四度しかない。
壁に手のひらを当て、撫でながら横へ動く。染みは冷たい。石は温い。指先だけで見分けがつくようになったのは、去年の冬からだ。
冷たいところを二つ、避けた。
三つ目に、指が触れた。
その染みが、膨らんだ。
石の粉が、ぱらぱらと足元に落ちた。黒い面がゆっくり盛り上がって、内側から押し出されるように、指が出てきた。指ではなかった。獣の脛の骨だった。骨は壁から抜け出ると、床を叩いて体を引きずり出した。
骨と、割れた壺の破片が継ぎ合わさっている。腕は四本。目にあたるものは、どこにもない。
――神崩れだ。
毎日、片付けている。斬られたあとのそれなら、両手で抱えられる。抱えているうちに端から灰になって、軽くなっていく。腕が何本あったかを、絵に描いて数えたこともある。
湧いてすぐのものは、灰にならない。
立って、歩く。
アシは、後ろへ下がった。
三歩先の壁に、窪みがある。担ぎが荷を降ろすために掘られたもので、深さは肩まで。背中から入って、息を止めた。
それは、上を向いた。
二本の腕で壁を掴み、体を引き上げて、石段の上りへ向かっていく。窪みには気づかない。目がないのだから、当たり前だった。
通り過ぎるとき、三本目の腕が窪みの内側をこすった。
その腕の先には、壺の底が付いていた。割れた縁が外を向いている。
布の裂ける音がして、背中に線が引かれた。
熱くなるまでに、少しかかった。
声は出さなかった。出さない訓練を、この街で二年やっている。
それは止まらずに上っていった。しばらくして、上のほうで鉄を叩く音がした。何度も、何度も叩いていた。
板を叩いているのだ、と分かった。
あの傷が、下から上へ走っている理由も、それで分かった。
あれは、落ちてくるものを止める戸ではない。上がってくるものを、止める戸だ。
朝が来ても、番小屋の二人は、あの音を聞きながら鎖を巻く。
巻くのは、板の向こう側が静かになってからだ。
熱が痺れに変わるまで、二十まで数えた。痺れが鈍くなるまで、さらに四十。
鈍くなるまでの長さを、アシは知っていた。荷を落としたと言われた日の翌朝、何度も数えたことがあるからだ。
鈍くなった。
まだ動ける。
――上へは、行かない。
湧いた神崩れは、石段を上る。さっきのがそうだった。死骸はいつも上の段で見つかるし、担ぎが死ぬときも、上を向いて倒れている。逃げる方向と、追う方向が重なるからだ。
だから、下りる。
六段目の手前で、アシは石段を捨てた。
内壁には、石を切り出したときの棚が横に走っている。幅は足の半分ほど。踵は乗らない。爪先だけ乗せて、指で壁を掴み、体を横へ送っていく。
背中の線が、動くたびに開いた。
棚が広くなったところで、一度休んだ。
懐から干し飯の欠片を出す。昨日、老担ぎが手のひらに落としていったものだ。半分に割って、片方だけ口に入れた。残りは懐に戻す。
噛むと、顎が鳴った。水はない。唾で溶かして飲み込むのに、思ったより時間がかかった。
――返さないといけない。
そう思ったことを、アシは少しおかしく感じた。ここで死ねば、返さずに済む。済むのに、返さないといけない、と思った。
棚は、途中でなくなった。
先を手探りしていて、指が空を掻いた。壁が切れている。切れ目の縁を掴んで、体を寄せた。
懐が、軽くなった。
手帳が、落ちていった。
紐で綴じた紙束が、光の届かないところへ、音も立てずに消えた。
アシは、片手で縁を掴んだまま、そちらへ手を伸ばした。
届く距離ではない。分かっていて、伸ばした。
縁が、崩れた。
落ちた。
二人ぶんほど落ちて、斜面に叩きつけられた。そこから先は坂だった。砂利の坂で、掴めるものがない。背中で滑って、途中から横向きに転がった。膝が石にぶつかり、肩が石にぶつかった。浅い水を跳ね上げて、坂が切れて、また落ちた。
落ちている時間のほうが、ぶつかっている時間より長かった。
止まった。
しばらく、息が入ってこなかった。
入ってくると、鼻の奥が甘かった。手の甲で拭うと、黒いものがついた。血だ。血の色が分からないほど暗いということはなく、そこは薄く青く光っていた。
起き上がる。膝は動いた。
まず、懐を探った。
空だった。
両手で、まわりの水を掻いた。石。石。石。二百六十四回ぶんの、四段目の東の壁の崩れ方も、五段で声の届く距離も、三十七番が上から来るものにしか反応しないことも、全部そこに書いてあった。
掻いた。
水の底には、石しかなかった。
アシは、しばらく動かなかった。
――ここは、何段目だ。
数えられなかった。
壁が巻いていない。石段がない。踊り場がない。
天井は高く、首を反らしても上のほうは黒い。落ちてきた穴を探したが、どこから来たのかも分からなかった。
床いっぱいに、水が薄く張っている。深さは足首もない。踏むと波が立って、青い光が揺れた。光っているのは水ではなく、床のほうだった。
しゃがんで、水をかき分けた。
石が敷いてある。継ぎ目が細く、爪も入らない。担ぎの荷を降ろす石畳とは、造りがまるで違った。手のひらで撫でていくと、彫ってあるものに触れた。
水を払う。
線が彫られていた。深く、太く、まっすぐに。それが折れて、また伸びて、隣の石へ渡っていく。膝で追っていくと、線は途中で消えた。彫りかけて、やめたように見えた。
立ち上がって、周りを見る。
柱があった。太いものが二本と、途中で切れたものが一本。切れた柱の上は何もなく、ただ暗い。三本とも、根元まで水に浸かっている。
柱の間に、石が積んであった。腰の高さで、上が平らになっている。上には何も載っていない。載っていた跡だけが、埃の付き方の違いで四角く残っていた。
――誰かが、何かを置いた。
置いて、取りにきた者がいる。あるいは、置いたまま忘れられた。どちらにしても、鉢盛の人間ではない。この街の連中は、底へ物を持っていったりしない。持って帰るために潜るのだ。
空気が重い。息を吸うのに、胸の力がいる。老担ぎが言っていた「二つ下」より、ずっと下だ。分かるのは、それだけだった。
柱の向こうの壁に、線があった。
彫ったものではない。爪で引いたような細い線が、壁の端から端まで並んでいる。指でなぞると、深さがまちまちだった。古いものは丸くすり減っていて、新しいものは角が立っている。
数えようとして、やめた。
線は下へ続き、その下へも続いていた。
それから、瓶を踏んだ。
瓶は水を跳ねて転がって、何かにぶつかって鳴った。ぶつかった先にも瓶があり、その先にも瓶があった。
「――誰だ」
声がした。
柱の陰の、そこだけ床が一段高くなったところ。乾いた板が敷かれ、藁が寝床の形に潰れている。
男が一人、胡座をかいて座っていた。
男の座っているあたりが、いちばん明るかった。壁も床も、そこを中心にして光が濃い。灯りは、どこにもない。
アシは、膝をついた。頭を下げる。下層の作法で、体が勝手に動いた。
顔を上げて、見た。
裾のほつれた着物。結び目の固まった帯。伸びるにまかせた髪。無精髭。膝の上に瓶を抱えて、そこから注がずに、直に飲んでいる。
「……なんだ、お前」
声が、少し回っていた。
「担ぎです」
「担ぎ」男は瓶を振った。中で音がしない。「担ぎってのは、何を担ぐんだ」
「壺と、荷と、死骸を」
「大変だなあ」
男の隣に、小さいものが座っていた。
掌に乗るほどの大きさで、獣の骨と割れた壺を継いだような形をしている。腕が片方、途中まで生えて止まっていた。神崩れだ。
アシは、そちらを見た。
斬られた神崩れは、抱えているうちに灰になる。四段目の底なら、運び終える前に半分は崩れる。深いところで斬ったものほど、崩れるのが遅い。老担ぎはそれを「神力が濃いからだ」と言った。
このあたりの空気は、息を吸うのに胸の力がいるほど重い。
小さいものの縁を見た。灰になりかけているところがない。角が、割れたときのまま立っている。
男から、二歩と離れていなかった。
――この人のそばだから、崩れないのか。
小さいものは、震えていた。寒いからではなく、その形のままでいるために、何かを使い続けているように見えた。
男が、指を瓶の口に浸して、差し出した。
「ほら」
小さいものは、しばらく迷ってから、指先に触れた。
アシは、それを見ていた。
「……あの」
「なんだ」
「あなたは、神ですか」
男の手が、止まった。
しばらく黙っていた。長い沈黙だった。アシは、答えを間違えたのかと思った。
「……まあ」男は瓶を置いた。
「そういうことになってる」
アシは、膝を進めた。
背中が裂けている。手帳がない。上がる道もない。ここまで来て残っているものは、老担ぎの言った一行だけだった。神さんが寝てるらしいぞ、いちばん下でな。
「では」
声が掠れた。
「試練を」
「試練?」
「眠っている神と契約した者は、神子になると聞きました」
男は天井を見た。それから床を見た。それから瓶を見た。
「……あー」
「はい」
「じゃあ、そこの酒瓶取って」
アシは、動かなかった。
「……いま、なんと」
「酒瓶。そこ。三歩ぐらい先の」
「試練は...」
「それだ」
男は、真顔だった。真顔が、いちばん困った。
アシは立ち上がって、三歩歩いて、瓶を拾った。軽い。振ると音がしない。戻って、両手で差し出した。
「空です」
「知ってる」
男は受け取って、口をつけた。当然、何も出てこない。それでも喉が動いた。
「終わりですか」
「終わりだ」
「……それだけですか」
「文句あるか」
アシは、口を開いて、閉じた。
文句を言ったことがなかった。飯を抜かれたときも、荷を余分に積まれたときも、言ったことがない。言えば長くなると知っている。
「……いえ」
「そうか」
男は瓶を置いて、藁を引き寄せ、横になろうとした。
「待ってください」
「まだあるのか」
「あなたは」アシは言った。「ここに、どのくらい」
男が、動きを止めた。
「壁の線が、あなたのですか」
答えはなかった。
男は起き上がって、壁のほうを見た。アシからは横顔しか見えない。髭と髪で、表情はほとんど分からなかった。
「……お前」と、男は言った。「あれを数えようとしたか」
「途中で、やめました」
「そうか」
「多かったので」
「そうか」
男は笑った。笑い方が、うまくなかった。しばらく使っていない道具を出してきたような笑い方だった。
「じゃあ、いい」
それから、こちらを向いた。
「お前、名前は」
アシは、少し間を置いた。
名を聞かれたのは、二度目だった。一度目は昨日で、石段の上からだった。
「アシです」
「……そりゃ、名前か?」
「はい」
男は、それ以上聞かなかった。悪しと当てられていることも、それで嗤われていることも、聞かれなかった。聞かれるのを待って身構えていたアシのほうが、行き場を失った。
男は、別の瓶を拾い上げた。底にひとしずくだけ残っている。そこへ指を浸した。
さっき、小さいものにしたのと同じ手つきだった。
「ナムジだ」
差し出された指先に、アシは自分の指先で触れた。
濡れた。それだけのはずだった。
舌に、酒の味が広がった。触れたのは指なのに、味は舌に来た。喉が焼けて、胸のまん中が一度だけ熱くなって、すぐ冷えた。
柱の間の水が、一度だけ、波を立てた。
――これが後に、史上最も安い契約として語り継がれる。
もっとも、この場で交わされた誓いの言葉は一つもなく、神のほうは、そのまま横になった。
「あの」
「なんだ」
「力は」
「ん?」
「力は、いつ」
ナムジは瓶を枕にしたまま、片目だけ開けた。
「……あー。まあ、そのうち」
アシは自分の手を見た。暗くてよく見えなかったが、見えたところで何も変わっていないことは分かった。背中は裂けたままだし、右の肋は息を吸うたびに鳴る。
足元の石を持ち上げてみた。重かった。
置いた。水が跳ねた。
「なあ」
「はい」
「怒っていいぞ」
「……何をですか」
「俺に」ナムジは天井を見ていた。「怒られるのは、慣れてる」
アシは、答えなかった。
答え方を知らなかった。この街で二年、誰にも何も言い返さずに来た人間が、初めて「言っていい」と言われて、何も出てこなかった。
水の上に膝をついたまま、背中の痛みが引くのを待った。
しばらくして、隣で寝息が聞こえはじめた。
小さいものが、まだ震えながら、こちらを見ていた。目はないのに、見られているのが分かった。
どのくらい経ったか、上のほうで音がした。
遠い。ずいぶん遠い。それでも、聞き間違えるはずのない音だった。
鎖が、巻かれている。
落とし戸が、上がっている。
朝が来たのだ。
アシは立ち上がって、水の中を数歩、音のするほうへ歩いた。天井は高く、上は黒く、どこにも出口はない。
叫ばなかった。
五段で三歩。ここは、五段よりずっと下だ。
鎖の音は、しばらく続いて、止まった。
それから、何も聞こえなかった。
誰も、下りてこない。
――探されていない。
昨日、六段だと言われた。六段目まで下りたことになっている担ぎが、戻らなかった。それだけのことだ。荷を落とせば指だと言われるが、担ぎが落ちても、誰の指も飛ばない。
アシは、藁の端に腰を下ろした。
背中がしみた。
隣で、神が寝返りを打って、空の瓶を蹴倒した。




