第1話『底』
── 後の世に、この日は「墓が口を開いた日」として数えられている。
もっとも当人はその朝、自分が食うはずの椀が一つ足りないことに気づいて、黙って水を飲んだだけである。
鉢盛の朝は、上から来る。
街は擂鉢状の縁に沿って建っている。
縁の内側は、ただ大きな穴だ。向かい側の家並みが霞んで見えるほどの差し渡しがあって、覗き込んでも底は見えない。日はまず縁のいちばん高いところ、上層の館の甍に触れる。
それが中層の商家の屋根まで下りてくるのに、湯が沸くほどの時間がかかる。下層の長屋に朝が届く頃には、上の連中はとうに膳を下げている。
アシは、まだ暗い板間で目を開けた。
両隣の寝床は空だった。誰も起こしていかない。起こせば、起こした者が同じ目に遭う。
息を吸うと右の肋が鳴った。昨日、荷を落とした罰だ。
落としたのではなく、落とされたのだが、その区別は誰も聞かない。
起き上がって、壁板の隙間から手帳を抜く。紐で綴じた、油の染みた紙束だ。頁の左端に日付、真ん中に潜った深さ、右端に数字。数字の下には、下手な絵が並んでいる。腕の生えた壺のようなもの。目が四つある犬のようなもの。
指の腹で繰って、昨夜の続きに墨を落とす。
二百六十四。
潜った回数である。その下に、四段目の東の壁の崩れ方と、湧いたものの数を書き足した。書き終えてから、薄明かりに紙を透かす。線がずれていない。それだけを確かめて、懐に戻した。
「口」には、日の出前から人が集まる。
穴の縁だ。手すりはない。縁から石段が始まって、穴の内壁をぐるりと巻きながら下りていく。壁を一周するごとに踊り場があり、そこを一段と数える。四周も下りれば、上の光は青く濁って、人の顔がもう見えない。
「担ぎ」《かつぎ》たちは縁に荷を並べて、上から下りてくる者を待つ。
荷は重い。鎧櫃があり、替えの穂があり、水袋があり、それから壺がある。壺は往きは空で、帰りは満ちている。だから帰りのほうが重い。
アシの背に積まれる分は、いつも他の担ぎより一段高い。理由を尋ねたことはない。尋ねた者がどうなるかを見たことがある。
「今日は五段まで下ろす」
担ぎ頭のガマが、列の前を歩きながら言った。蝦蟇のように顎が張っている。指が太く、爪が割れている。
「壺は八つだ。空で下ろして、満たして上げる。落としたら、指だぞ」
誰も返事をしない。返事をすると長くなる。
石段の上から、笑い声が下りてきた。
白い装束の一団だった。腰に印を提げている。担ぎたちが一斉に膝をつき、荷を抱えて道を空けた。神子が通るとき、地面より高い位置に頭があってはいけない。
「八十衆だ」と、隣の担ぎが口の中で言った。「四人も出やがる」
先頭を歩く男は、担ぎの列に目を向けなかった。向けないことが自然であるという顔で、まっすぐ穴へ歩いていく。すれ違いざま、供の一人がアシの背の櫃に手をかけて、位置を直すようにぐいと押した。
石段の上から、笑い声が下りてきた。
白い装束の一団だった。腰に印を提げている。担ぎたちが一斉に膝をつき、荷を抱えて道を空けた。神子が通るとき、地面より高い位置に頭があってはいけない。
先頭を歩く男は、担ぎの列に目を向けなかった。向けないことが自然であるという顔で、まっすぐ穴へ歩いていく。すれ違いざま、供の一人がアシの背の櫃に手をかけて、位置を直すようにぐいと押した。
膝が石を打った。
「おい、担ぎ」
名を呼ばれたのではない。荷を呼ばれたのだ。
ガマが唾を吐いた。「立て」
アシは立った。
下りるほど、音が変わる。
三段目までは、自分の足音が壁に当たって返ってくる。四段目を過ぎると、返ってこない。壁が音を吸うのではなく、空気が重くて音が進まないのだ、というのがアシの見立てだった。手帳には「五段、声が届く距離=三歩」と書いてある。
壁は、下るほど白く光る。苔ではない。石そのものが薄く光っていて、その光は下へ行くほど濃くなる。汗が冷える。喉の奥が甘い。
八十衆が先へ進んだあと、担ぎたちは後を片付ける。
落ちているのは、神崩れの残骸だ。斬られて、力の抜けた塊。犬でも鹿でもない。獣の骨と割れた壺を無理に継いだような形をしている。触れると生温い。抱えて運ぶうちに、端のほうから灰になって崩れていく。
アシは、運ぶ前に必ず一度、手帳を開く。
残骸の輪郭を、線でなぞる。腕がいくつあったか。目がどこについていたか。
三十を過ぎた頃から、同じ形が二度出ることに気づいた。壁の染みの位置も、そのたびに書いてある。染みと形は、いつも同じ組み合わせで並んでいた。
なぞり終えて、それから運ぶ。
誰も見ていない。見ていても、絵を描く担ぎがいるとしか思わないだろう。
「精が出るな」
片腕の老担ぎだった。左の袖が空で、右手だけで壺を抱えている。抱えているというより、腰に載せて支えている。
アシは水筒を差し出した。老担ぎは一口飲んで、返してよこす。
「見ろ」
老担ぎは壺を壁に寄せた。
壁のひときわ白く光っているところ、石の目が細かく詰まったあたりだ。壺の口をそこへ当てて、栓を抜く。
しばらく、何も起きない。
やがて壁の光が壺の口へ引かれるように動きはじめた。糸のような青白いものが、光の面から剝がれて、壺へ流れ込んでいく。水が吸われる音に似た、それより細い音がした。
流れが細くなり、途切れた。
老担ぎは壺を傾けて、中を覗かせた。青白いものが底のほうで揺れている。指を三本立てて、内側の高さに当てた。
「目盛り三つ分だ、昨日は」
老担ぎは舌打ちをした。
「その前も三つ。ここはもう、そんなもんだ」
壺の内側には、うっすらと横の筋が並んでいる。使い込んで、青が焼きついた跡だった。いちばん上の筋は、口の際にある。
「昔はな」老担ぎはその筋を指で押さえた。「この壁で、ここまで入った」
「いまは」
「二つ下まで行かんと、同じだけ入らん」
二つ下、とアシは頭の中で置き換えた。石段を二周。往きで半刻、帰りは壺が重いから、その倍。
「爺さんの脚だと、日が暮れる」
老担ぎは笑った。歯が少なかった。「だから若いのが下へ行く。降りられん年寄りは、上で三つだ」
アシは黙って、その位置を憶えた。
「爺さん」
「なんだ」
「下は、どこまである」
老担ぎは笑った。歯が少なかった。
「知るか。行った者は帰らん」それから、下へ向けて顎をしゃくった。
「神さんが寝てるらしいぞ。いちばん下でな。──だから濃いんだと、上の連中は言うがね」
寝ている、という言葉に、アシは少しのあいだ何も言わなかった。
老担ぎは懐から干し飯の欠片を出して、アシの手のひらに落とした。何も言わずに、先に石段を上っていく。
アシは手帳に、短く書いた。
──四段、薄い。老人の記憶と照合。
上がってきたときには、日が傾いていた。
長屋の炊き場で、椀が配られる。湯気と、汗と、濡れた縄の匂い。列は長い。アシの前で、その列が止まった。
ガマが鍋の縁を杓で叩いた。
「今日はもう無い」
後ろで舌打ちが起きた。列が詰まるからだ。誰も、なぜ無いのかは訊かない。
「明日は」とアシは訊いた。
「明日のことは、明日の俺が決める」
アシは列を出た。
懐の干し飯は、握ったまま出さなかった。ここで出せば、次に会うとき老担ぎの分が減る。そういうことは、この街ではすぐに起きる。
石段を下りていく途中で、上から人が来た。
道を空ける。頭を下げる。それが下層の作法で、体が勝手に動いた。
絹の裾が、視界の下を通り過ぎた。
通り過ぎて、止まった。
「アシ」
石段の空気が、変わった。
担ぎたちが顔を上げた。中層から下りてきた商家の使いが足を止めた。前を行く人足が荷を降ろして膝をついた。誰もが、いま何が起きたのかを確かめるために、同じ場所を見ている。
「御影様だ」と、誰かが囁いた。
その最強の神子は、名を呼んだだけだった。
「四段目の東。崩れているそうね」
「……はい」
「壁ごと? それとも縁だけ」
アシは顔を上げないまま答えた。「縁が落ちて、下の段に溜まっています。積もった上に、また湧きます」
しばらく間があった。
「誰が言っていたと聞かれたら、担ぎの誰かと答えておく」
それだけ言って、御影は下りていった。上層に館を持つ者が、駕籠も供も連れず、自分の足で石段を踏んでいる。裾が石を撫でる音が、遠ざかっていく。
アシは頭を下げたままでいた。
背後で、誰かが息を吸う音がした。
*
翌朝、荷は一段高く積まれていなかった。
代わりに、油壺の火を渡されなかった。昨日までは、列の端で一つずつ配られていたものだ。
「先に下りとけ」とガマが言った。目を合わせない。「六段だ」
「灯りが」
「先に、下りとけ」
壺も渡されなかった。
六段まで下ろすなら、壺は要る。汲まずに戻れば何をしていたと言われる。言われる場面を、アシは頭の中で二つ三つ思い浮かべて、それから考えるのをやめた。
アシは下りた。
三段目で、後ろの足音が消えた。四段目で、上を見た。踊り場の縁に人影が並んでいて、こちらを見下ろしていた。白い装束が、青い光の中で浮いて見えた。
五段目に着いたとき、頭上で落とし戸の落ちる音がした。
闇の奥で、何かが湧く音がした。




