序章『誰も来なかった日』
かつて、ラグナロクがあった。
その日、空の色が変わったと伝わっている。海が退き、山が裂け、それきり神々の声は途絶えた。神は死んだ。世界はそう理解し、そう理解したまま千年が過ぎた。
だが、遺体は一つも出なかった。
代わりに出たのは、穴だった。
地の裂けたところ。山の沈んだところ。湖の底。世界のいたるところに、降りていける場所ができた。降りていくと、下ほど空気が重い。息が甘い。壁が薄く光る。そういう場所を、人は神墓と呼んだ。
そこに神が眠っている、と誰かが言い出した。誰が最初に言ったのかは分からない。ただ、そう言われてみると、辻褄が合った。深いほど濃い。濃いほど、何かに近い。
人は掘った。祈らなかった。祈って何かが返ってきた例が、ひとつもなかったからである。
そして、その頃からだ。世界の辻褄が、少しずつ合わなくなっていった。
古い地図と今の海岸線が合わない。冬の来る日が毎年ずれる。井戸が、理由もなく涸れる。人はそれを不作と呼び、時化と呼び、運が悪いと呼んだ。
誰も、世界がまだ出来上がっていないからだとは考えなかった。
*
その、いちばん下。
どの神話でもない。地図にも、墓守の記録にも載っていない裂け目の底である。
石の床に、瓶が転がっている。数えると途中で嫌になる数だ。転がって、止まって、また転がって、ぶつかって鳴る。ぶつかる音だけが、この場所で唯一の音らしい音だった。
男が一人、胡座をかいて飲んでいる。
着物は裾がほつれ、帯は結び目が固まって、もう解いた形跡がない。髪は伸びるにまかせ、顎は無精髭に埋もれている。光は上から来ていない。壁が薄く光っていて、男の輪郭だけを青く縁取っていた。
そばに、小さいものが座っている。
猫より一回り小さい。骨と、割れた壺の破片でできている。鳥の頭に似た骨が胴の真ん中に埋まっていて、目にあたる穴が三つあった。三つのうち一つは、塞がりかけている。脚は四本。うち二本は同じ長さで、残りの二本は長さが違う。背には割れた陶の欠片が、屋根を葺くように重なっていた。
前脚が片方、肘のあたりまで生えて、そこで止まっている。
継ぎ目から、薄い青が滲んでいた。神力が、まだ形になりきれずに漏れているのだった。
男は指を酒に浸して、差し出した。
「ほら」
小さいものは、しばらく迷ってから、指先に触れた。
「うまいだろ。……高いんだぞ、それ。ツケだけどな」
男は瓶を傾けた。何も落ちてこない。振る。もう一度振る。逆さにして、底を叩く。
それから、床を見た。
「なあ。そこの、三つ向こうのやつ」
指をさす。転がった瓶のひとつだ。倒れた向きが浅く、まだ中身が残っている。
「転がしてくれ。こっちへ」
小さいものは、立った。
一歩。二歩。
三歩目で、生えかけの前脚が肩から灰になって落ちた。落ちた灰は床に触れる前に消えた。小さいものはその場に潰れて、しばらく動かず、それからまた同じ形に戻った。前脚は、また肘のあたりまで生えて止まっていた。
男は見ていた。手は出さなかった。
やがて自分で腕を伸ばして、瓶を引き寄せた。
「……悪かったな。頼むことじゃなかった」
栓を抜いて、一口飲む。
「お前みたいな、なりそこないのほうが」
もう一口。
「幸せなのかもな」
俺も、大差ないがな。
小さいものは返事をしなかった。三つある穴のうち二つを、男のほうに向けているだけだった。




