第7話『十二本の戦い』
五段目まで戻ったところで、上から声が降ってきた。
石段を上ってくる声ではない。下りてくる声だ。
アシは、壁の窪みに入った。
昨日までなら、隠れる必要はなかった。担ぎが石段にいるのは当たり前で、荷を背負っていれば誰も何も言わない。
いまは、荷がない。壺もない。列にも入っていない。
この時間、この場所にいる理由が、彼にはなかった。
「――五段は閉めておけ」
「はい」
「上がってきたら面倒だ」
鎖の音がした。落とし戸が、頭上で下りはじめる。溝を滑る音は、内側から聞くと違って聞こえた。
板が落ちきって、静かになった。
足音が近づいてくる。
白い装束が四人。そのうしろに、担ぎが三人。
「重い」
二番目を歩いていた男が、足を止めた。
背が高い。痩せている。歩きながら指を折っていた。何かを数えている。
「なんです、槙さん」
「いや」
男は、あたりを見回した。
アシは息を止めた。二歩。二歩まで来なければ分からない。窪みからその男までは、五歩ある。
槙は、しばらく壁を見ていた。
それから、指を折るのを再開して、歩き出した。
六段目の踊り場に、四人が並んだ。
アシは、五段と六段のあいだの張り出しに腹這いになった。壁が一周する途中で内側へ出っ張った岩で、そこからなら踊り場が見下ろせる。二年、休憩に使ってきた場所だ。
担ぎ三人が壺を並べている。
「今日は十一」槙が言った。「昨日は九だ。二日で四つ増えた」
「多いですねぇ」
答えたのは、女だった。
背が低い。装束の袖を紐で括っている。担ぎから槍を受け取るとき、「ありがとぉ」と言った。
担ぎが、驚いた顔をした。
「灯理さん、増えてるってことは、入るってことでしょ」
「入るな」
「じゃあいいじゃないですかぁ」
「よくはない」四人目が言った。「増えるということは、深くなるということである」
最年長らしかった。白いものの混じった髪を後ろで括り、腰に刀を差している。壁際から動かない。
「渋佐さぁん、また?」
「またではない。毎度である」
「毎度言うから、また、なんですよぉ」
「言わなくなったら終いだ。若いのが言わぬゆえ、わしが言う」
「はぁい」
三人目が、槍を肩に担いだ。
若い。第4話の庭で、しゃがんで目を合わせてきた男だ。一生それだと言った男だった。
「渋佐さん、寝ててくれよ。二人で足りる」
「釘町」
「なんです」
「二人で足ると申した者から死ぬ」
「じゃあ三人で足りる」
染みが、膨らんだ。
――以下は、鉢盛の底で毎日行われている作業である。
誰も見ていない。大半の担ぎは終わってから来る。街の者は上がってきた壺しか見ない。
石の粉が落ちた。黒い面が盛り上がり、内側から骨が押し出される。
腰の高さ。腕は六本。
「一体目」槙が言った。
「はぁい」
灯理が、指を鳴らした。
「――《縫い》」
湧いたばかりのものの足元で、青い光が糸になって走った。糸は骨の脚に絡み、絡んだところで石に食い込んだ。
脚が、止まった。
骨が前へ出ようとして、出られない。
「はい止まりましたぁ」
釘町が踏み込んだ。
音が、遅れて届いた。
白い装束が壁際から消えて、次に見えたときには中央にいた。あいだが抜けている。二年、この男が荷の横を歩くのを見てきた。壁際から中央まで、担ぎの足なら七歩ある。
一足だった。
「《石折》」
槍が入った。
突いた場所は、前端の裂け目の、いちばん骨の薄いところ。刺して、抜かない。柄を捻る。
刃の入ったところから、白い罅が走った。骨の一本ではなく、体じゅうの骨に。
罅が走りきったところで、全部が崩れた。
灰になっていく。
「ぬるい」
釘町は槍を抜いた。「渋佐さん、今日は寝ててくれよ」
「口を慎め」
「本当のことだろ」
――これを、彼らは日に六度から八度、繰り返す。
鉢盛の街の一日は、この繰り返しで回っている。
担ぎが走ってきて、まだ光っている部分に壺の口を当てた。
青白い糸が、壺へ流れ込む。
「三つです」
「もっと入るだろうが」
「入りません。壺が」
担ぎが壺を傾けて見せた。筋が、口の近くまで来ている。
「割ってから言え」
「釘町」槙が言った。「割れれば、手が飛ぶ」
「飛ばねえよ」
「二度見た」
釘町は、それ以上言わなかった。
担ぎが頭を下げて下がる。灯理が「おつかれさまでーす」と言い、担ぎは何も答えられずに壺を抱えて走った。
二体目。三体目。四体目。
湧く。灯理が縫う。釘町が刺す。汲む。
三体目だけ、槙が出た。
染みから二体が同時に出たときだ。
「《数取》」
槙が、指を折った。
折るたびに、二体の動きが噛み合わなくなった。片方が腕を上げれば、もう片方が止まる。同時には動けない。
「あと三つ」
「三つで足りるか」
「足りる」
釘町が二体とも刺した。三つ数えるあいだに終わった。
アシは、張り出しの上で見ていた。
――速い。
速いというより、無駄がない。誰も走らない。誰も叫ばない。手順が決まっていて、その手順を四人が全員知っている。
二年、彼らを見てきたつもりだった。荷を運び、死骸を片付け、石段ですれ違ってきた。
だが、働くところを見たことがなかった。
担ぎは、神子が仕事をしている場所には入らない。入るのは、終わったあとだ。
終わったあとしか、見ていなかった。
だから彼らを、態度の悪い客だと思っていた。
違った。
これは、仕事をしている人間の動きだ。
五体目が、大きかった。
染みから出てきたものが、胸まである。腕は八本。
「えっ、でかっ」灯理の語尾が、初めて伸びなかった。「槙さん、これ縫えないですって」
「縫え」
「縫ってますって!」
糸は絡んだ。絡んだが、切れた。
骨の脚が石を踏み割って、前へ出た。
「釘町、退け」
退かなかった。
踏み込んだ。
「いけるっつってんだろ!」
腕が来た。
槍の柄で受けた。
――届いた音が、重かった。
白い装束が飛んだ。壁まで飛んで、背中から当たって、石が欠けた。装束の肩から胸が裂けている。赤いものが散った。
落ちる前に、跳ねた。
壁を蹴った音がして、次に見えたときには、また中央にいた。人が跳ぶ距離ではない。担ぎが三歩かけて歩く距離だ。
槍は、手放していなかった。
「――このッ」
「馬鹿者が」
渋佐が出た。
この日、初めて動いた。
最年長の、壁際から動かなかった男が、いちばん速かった。三歩で中央に入る。
腰の刀を抜いた。
抜いたのを、アシは見ていない。鞘に手がかかったところと、振り終わったところしか見えなかった。
「《一断》」
八本の腕が、付け根から落ちた。
落ちた腕が石に当たる音が、八つ。
最後の一つが鳴りきる前に、渋佐は刀を鞘に戻していた。
「刺せ」
釘町が槍を差し込んだ。
灰になった。
しばらく、誰も動かなかった。
「……釘町」
「……はい」
「二人で足ると申したな」
「言いました」
「肩を出せ」
「掠っただけです」
「出せと申しておる」
灯理が、笑った。
「渋佐さぁん、めちゃくちゃ心配してるじゃないですかぁ」
「心配などしておらぬ。担ぎに運ばせるのが面倒なだけである」
「はいはーい」
アシは、張り出しの上で、動けずにいた。
強い。
二年、荷を運んできた相手が、こんなふうに戦うとは知らなかった。
あの四人でも、大きいのが一体出ただけで、あれだけかかった。
下にいるものは、牛ほどの胴があった。脚の関節が逆を向いていて、背中の突起が三本ずつ交代で伸びた。灰の上を走り、壁を叩いて石を欠いた。
――勝てない。
彼らでも、たぶん勝てない。自分なら、なおさらだ。
だから縄が張ってある。
「ここまでにしておけ」というのは、禁止ではない。
越えられなかった者が、後から来る者に残した記録だった。
彼らが上がる前に、槙が壺の数を読み上げた。
「三つ、三つ、二つ、三つ、二つ。五体で十三」
「昨日は?」
「六体で十六だ」
「湧きは増えて、入りは減ってる」
「そうだ」
少し、間があった。
「……上には、十四と書いておけ」
誰も、何も言わなかった。
灯理が「はぁい」と答えた。いつもと同じ調子だった。
足音が遠ざかっていく。落とし戸が上がる音がして、それから、また下りる音がした。
アシは、張り出しの上で手帳を開いた。
――五体で十三。上には十四。
その一行を、しばらく見ていた。
一つ、多い。
一日で一つなら、月に三十だ。年に三百六十。
誰が持っていくのかは、書かなかった。書けることではなかった。
ただ、数字だけを書いた。二年、そうしてきたように。
「なあ」
ナムジが、張り出しの端に腰かけていた。足をぶらぶらさせている。
「はい」
「あれ、強かったか」
「強かったです」
「ふうん」
「あなたは、そう思いませんでしたか」
「思わんな」
「……」
「いや、強いんだ。強いんだが」ナムジは膝の上で頬杖をついた。「あの婆さんの縫うやつ、あれ、下のには通らんぞ」
「婆さん」
「若いのか。すまん」
「たぶん、俺と十も違いません」
「そうか」ナムジは咳払いをした。「まあ、いい。とにかく通らん。あれは脚を止める技だろう。下のは脚が四本だ。二本止めても走る」
アシは、手帳を開いた。
書いてから、手が止まった。
「なぜ、それを」
「見りゃ分かる」
「俺には分かりませんでした」
「そりゃそうだ。俺は骨の付き方を、お前より長く――」
そこで、言葉が切れた。
ナムジは口を閉じて、しばらく前を向いていた。それから、そこらの石を拾って、意味もなく下へ落とした。落ちていく音がした。
「……いや。なんでもない」
「長く、なんですか」
「なんでもないと言っただろ」
「言いました」
「なら、そういうことだ」
アシは、それ以上訊かなかった。
訊かなかったが、手帳には書いた。脚の数のことを書いて、その横に小さく、こう書いた。
――この人は、骨を見慣れている。
石段を上りきると、日が暮れていた。
「口」には誰もいない。番小屋に灯りが点いて、轆轤の鎖が風で鳴っていた。
アシは、縁に立って擂鉢を見上げた。
下層の長屋。中層の白い壁。上層の甍。その上に縁があり、縁の向こうに稜線が二つ。
「明日、出ます」
「明日か」
「はい」
「早いな」
「遅いほど、困ります」
「まあな」ナムジは伸びをした。「で、どっちへ行くんだ」
アシは、稜線を指した。
指してから、その手を下ろした。
「……あっちに、何があるかを知りません」
「訊けばいいだろ」
「誰にですか」
ナムジは、答えなかった。
答えないのが答えだった。
アシは、腰の札に触れた。丸の中に、線が一本。
この札を提げて、どこの誰に何を訊けばいいのか。
訊ける相手は、この街に一人しかいなかった。




