第8話 汚された守護者
濁った巨体の上部が、大きく膨れ上がった。
白濁した水が寄り集まり、太い触手のような形となって、高く振り上げられる。
「来るわ!」
エステルが鞭を振るい、正面へ風圧を放った。
風は触手の軌道をわずかに逸らした。
だが、山のような質量までは、止められない。
巨大な白濁の塊が、三人のすぐ脇の石床へ叩きつけられた。
回廊全体が跳ね上がるように揺れる。
石床が砕け、支柱の一本がへし折れた。
亀裂が蜘蛛の巣のように、三人の足元まで走る。
「床が崩れる!」
エステルの叫びと同時に、回廊が傾いた。
足場が崩れ落ちる。
エステルが鞭を旋回させ、風を巻き起こして三人の落下を弱めた。
それでも、三人を完全に支え切れるほどではない。
三人は崩れた石材とともに、主聖水槽を取り囲む下層の外周通路へと落ちた。
ボレスが先に着地し、魔石灯を手放して、落ちてくるエレナリアを片腕で受け止めた。
石床を転がった魔石灯は、何度か明滅したものの、消えずに周囲を照らしていた。
エステルは自らの風で体勢を立て直したが、着地の勢いまでは殺し切れず、石床へ片膝をついた。
痛みに眉を寄せながらも、すぐに顔を上げる。
「……っ、二人とも、無事?」
「ああ」
「はい、なんとか……」
ボレスが腕の中のエレナリアを見下ろした。
「軽いな、嬢ちゃん。もっと肉を食った方がいいぞ」
「あ、ありがとうございます……?」
礼を言うところなのか分からず、エレナリアの返事は疑問形になった。
「感想は後。早く下ろしてあげて」
エステルが膝を押さえながら立ち上がった。
エレナリアはボレスの腕から下りて、杖を握り直す。
だが、息を整える暇はなかった。
外周通路の先から、重い金属が擦れる音が響いた。
◇
魔石灯の光の先に、それは倒れていた。
古びた銀色の鎧をまとった、騎士の骸だ。
鎧は赤黒く錆び、左腕には大きな盾が残されている。
盾には太陽をかたどった聖印が刻まれていたが、その中央は無残にひび割れていた。
傍らには、錆びた幅広の長剣が転がっている。
かつて、この聖堂を守っていた騎士なのだろう。
その骸へ向かって、主聖水槽から白濁した粘液が、通路を這って伸びていった。
粘液は鎧の継ぎ目へ入り込み、首元へ、手首へ、膝の関節へと絡みついていく。
やがて、錆びついた指が長剣の柄をつかんだ。
ぎしり。
軋む音を立てながら、騎士が立ち上がった。
兜の奥は、暗いままだった。
それでも首がぎこちなく巡り、長剣を握った腕が持ち上がる。
鎧の継ぎ目では、白濁した粘液が筋肉の代わりのように脈打っていた。
死者が蘇ったのではない。
腐敗した粘液が、残された骸と鎧を動かしているのだ。
「おいおい、死人まで使うのかよ。そんなの反則だぜ」
ボレスが二人の前へ出て、片手斧を構えた。
「魔物に文句を言っても始まらないわよ」
エステルが鞭を構えたまま返す。
「言いたくもなるだろ。あれはここを守ってた騎士様だぞ」
ボレスは、軋みながら近づいてくる銀鎧を睨んだ。
「死んでまで、こき使われる筋合いはねえよなあ?」
腐敗した騎士が踏み込んだ。
錆びた長剣が振り下ろされる。
ボレスは片手斧の斧頭で受け止めた。
金属同士が激突し、鈍い火花が散る。
受け止めたボレスの靴底が、石床をわずかに滑った。
「ボレスさん!」
「こいつは俺が引き受ける。嬢ちゃんは、あのでかいのから目を離すな!」
ボレスは長剣を力任せに押し返し、腐敗騎士の前へ立ちはだかった。
◇
戦場は、二つに分かれた。
ボレスは腐敗騎士を引き受け、外周通路の先で刃を交える。
硬い銀色の鎧。
太陽の聖印を刻んだ大きな盾。
錆びていてなお重い長剣。
斧を鎧へ叩きつけても、継ぎ目から滲んだ粘液が鎧の表面を覆い、刃をぬるりと滑らせる。
手応えが、鎧の奥まで届かない。
かといって、関節の粘液を斬り裂けば、あの小型スライムのように、分裂しかねない。
足元に広がる粘液も、彼の踏み込みを少しずつ奪っていた。
「ええい、面倒なやつだ!」
ボレスは刃を使わず、斧の腹で盾を殴りつけ、斧頭で長剣を弾き、時に肩からぶつかって騎士を押し戻した。
一方、主聖水槽からは、巨大なスライムが白濁した触手を何本も伸ばしてくる。
エステルは鞭を振るい続けた。
革紐を触手には触れさせず、その軌道から放たれる風圧だけで、迫る触手を次々と弾き返していく。
エレナリアへ迫る一本を弾く。
ボレスの死角へ回り込む一本を風で逸らす。
崩れてくる石材を避け、足場を確かめ、また鞭を振るう。
踏み込むたび、落下の際に打った膝へ鈍い痛みが走った。
それでも足を止めるわけにはいかない。
だが、触手の数は増え続けていた。
「キリがないわね!」
エステルの呼吸が次第に荒くなる。
鞭を握る手の甲に汗が浮いていた。
動きを止めたら、その瞬間に押し潰される。
「エステルさん、私も援護します!」
「私の心配より、自分の仕事をしなさい、エレナ」
エステルは迫る触手を風圧で弾き返す。
振り返る余裕すらないまま、声だけを張り上げた。
「私たちが持ちこたえている間に、勝ち筋を見つけなさい。これはあなたの仕事よ」
◇
エレナリアは杖を構えたまま、巨大スライムを見つめていた。
エステルはなお触手を防ぎ、ボレスは腐敗騎士を押しとどめていた。
何かしなければ。
早く答えを見つけなければ。
けれど、焦ってはいけない。
自分に言い聞かせ、エレナリアは目を細めて敵の構造を観察した。
エステルの風圧で削られた触手。
崩れた身体の一部。
その欠けた場所へ、主聖水槽の黒く濁った水が、引き寄せられるように流れ込んでいく。
そのたび、体内の太陽のプーラが脈打つように光った。
「身体を……水槽の水で、補っている……?」
崩れても、崩れても、水槽に水がある限り、すぐに埋まってしまう。
これでは、敵を削り切るより、こちらの体力が尽きる方が先だ。
◇
エレナリアへ迫った触手を、エステルが風圧で叩き落とす。
ほぼ同時に、別の触手がボレスの横合いから伸びた。
ボレスは腐敗騎士から目を離さず、迫る触手を視界の端に捉えた。
身をかわそうと足を引く。
だが、靴底が白濁した粘液に取られ、体勢がわずかに崩れた。
腐敗騎士は、その一瞬を逃さなかった。
盾を叩きつけて斧を押しのけ、間髪を入れず、錆びた長剣を横薙ぎに振るう。
ボレスは身を引いた。
だが、避け切れない。
長剣の切っ先が鎧の継ぎ目を抜け、左脇腹を裂いた。
「ぐっ……!」
血が飛んだ。
ボレスの巨体が傾き、片膝をつきかける。
「ボレス!」
エステルの悲鳴に近い声が響く。
ボレスは倒れなかった。
歯を食いしばって踏みとどまり、迫る騎士の盾へ斧を叩きつけて押し返した。
ボレスの脇腹から落ちた血が、石床を覆う白濁した膜の上に、鮮やかな赤い筋を引いた。
「ボレスさん!」
エレナリアが反射的に駆け寄ろうとする。
「こっちは見るな、嬢ちゃん!」
ボレスは傷を押さえようともせず、騎士の前へ立ちはだかった。
「俺がこいつを止めてる間に、あの泥をどうにかする方法を考えろ!」
「泥では――」
言い返しかけて、エレナリアは言葉を止めた。
石床へ落ちていく赤い血。
軽口を返している場合ではなかった。
ボレスは斧を構えて戦い続けている。
だが、踏み込むたびに顔が歪み、呼吸は浅くなっていた。
このままでは、長くは持たない。
◇
心臓が嫌な速さで鳴っている。
エレナリアの視界の端で、巨大スライムの触手がまた持ち上がった。
――早く。
早く、あれを倒さないと。
気づけば、エレナリアは杖の先へ大きな火の術式を組みかけていた。
あの巨体ごと、一気に焼き払ってしまえばいい。
その瞬間、脳裏に灰色の煙がよぎった。
小さな欠片一つを焼いた時に出た、あの強烈な毒気。
さらに、かつて兄から教えられた言葉が蘇った。
『エレナ。退魔師は、どんな時でも冷静でいなくちゃいけない』
穏やかだが、妥協を許さない兄の声。
『皆が目の前の敵に気を取られている時ほど、一人は戦場全体を見ていろ。そうしなければ、勝てる戦いまで落とすことになる』
エレナリアは、組みかけた火の術式を自らの手で崩した。
焦ってはいけない。
敵を倒すことだけを考えてはいけない。
深く息を吸い、先ほど見た光景を頭の中で組み直す。
太陽のプーラが光るたび、周囲の濁った水が引き寄せられ、傷ついた身体を補っていた。
――太陽のプーラが、あれを生み出したわけではない。
けれど、あの光が、腐った聖水を一つの身体としてつなぎ止めている。
そして、もう一つ。
――水槽に水が残っている限り、あれは何度でも身体を補える。
逆に言えば、斬る必要はない。
焼き尽くす必要もない。
あの身体を支えている水をなくせばいいのだ。
エレナリアの脳裏に管理室で見つけた銅板の施設図が浮かんだ。
主聖水槽のちょうど反対側。
緊急排水路の操作室。
◇
巨大スライムの触手が、外周通路を薙ぎ払った。
エステルが風圧で軌道を逸らす。
それでも余波で石床が砕け、破片が飛び散った。
「エレナ! 何か分かったの!」
エステルが荒い息の合間に叫ぶ。
エレナリアは杖を高く掲げ、声を張った。
「あれを全部倒す必要はありません!」
「なら、どうするのよ!」
「主聖水槽の水を抜きます!」
エレナリアは、巨大スライムの向こう側を指した。
「あれは水槽の水を吸い上げて、身体を補っています。水をなくせば、今の大きさを保てません!」
「中のプーラはどうする!」
腐敗騎士の長剣を斧で受けながら、ボレスが叫んだ。
苦痛に顔を歪めながらも、こちらを振り返ろうとはしない。
「水が減れば、太陽のプーラも露出するはずです。そのときに回収します!」
◇
エレナリアが指した先。
緊急排水路の操作室は、主聖水槽の縁を大きく回り込んだ先にあった。
その途中には、施設図に描かれていた橋がある。
だが、橋の中央部分は、すでに崩れ落ちていた。
残された橋桁は見るからに脆い。
その周囲では、巨大スライムの触手が何本も蠢き、通路そのものを塞いでいる。
操作室までの道は、ほとんど残されていない。
その背後で、腐敗騎士の長剣とボレスの片手斧が激突した。
血を流しながらも、ボレスは一歩も退かない。
巨大スライムの触手が、再び外周通路へ向かって持ち上がる。
「どうやって、あそこまで行くつもり?」
エステルが荒い息の合間に尋ねた。
エレナリアは、崩れた橋を見つめた。
エステルの風。
自分の土術。
足元に散らばる石材。
かろうじて残っている橋桁。
触手が薙ぎ、再び持ち上がるまでの、わずかな間。
一つ一つを目で確かめていく。
エレナリアは崩れた橋の向こうを見据え、杖を強く握り直した。
「道は、私たちで作ります」




