第7話 腐った聖水
石段を下りるごとに、冷気が濃くなっていく。
ボレスを先頭に、エレナリア、エステルの順で、三人は魔石灯の明かりを頼りに地下へと進んでいた。
壁には白く濁った膜がこびりつき、石段の脇を通る細い水路には、粘ついた水がわずかに残っている。
淀んだ水の臭いは、地上で嗅いだものより、はるかに重い。
先ほどの巨大な水音は、今は止んでいた。
「静かになったな」
ボレスが魔石灯の届かない先を見据える。
「いなくなったとは限らないわ」
エステルは後方へも目を配ったまま答えた。
階段を下り切ると、いくつもの石造りの水槽が並ぶ広い地下区画へ出た。
多くは干上がっているが、いくつかの槽には白濁した水が溜まっている。
地上の聖水盤へ続いていたものと同じ細い水路が、水槽の間を縫って、さらに奥の闇へと延びていた。
「ここで泥や不純物を沈めてから、奥の施設へ送っていたようです」
「その奥に、太陽のプーラがあるかもしれないってことね」
「はい。記録が残っていれば、安置場所も分かると思います」
ボレスは魔石灯を掲げ直し、やれやれと息を吐いた。
「ここまで骨折って、着いてみたら何も残ってませんでした、なんてのは勘弁だぜ」
「……あんたがそういうこと言うと、本当にそうなりそうで嫌なのよ」
エステルがため息をつく。
三人は水路を辿り、奥へと進んだ。
◇
水路の先には、石の扉があった。
だが、取っ手も鍵穴もない。
扉の中央には、太陽をかたどった円形の紋章。
その周囲に、三枚の回転式の石盤が埋め込まれている。
石盤には、それぞれ図柄が彫られていた。
山の端から昇る太陽。
天頂に輝く太陽。
水平線へ沈む太陽。
そして扉の上には、古い祭祀文字が刻まれている。
『日輪は東より生まれ、天の頂に満ち、西の水へと還る。
その歩みを辿る水にのみ、守り手の扉は開かれる』
「三枚の石盤を、夜明けから天頂、夕暮れへ、水が流れるように回すのだと思います」
エレナリアが碑文を読み上げた。
「絵を合わせりゃいいのか?」
ボレスが一枚目の石盤へ手を掛ける。
「待って。下にも溝があるわ」
エステルが石盤の縁を指でなぞった。
「向きを揃えるだけじゃなく、水路もつなげる仕掛けね」
見れば、三枚の石盤には細い溝が走っている。
今は向きがばらばらで、扉の脇にある水受けへつながっていない。
ボレスが石盤に力を込め、回した。
ごり、と重い音がして、隣の石盤まで一緒に動いた。
「一つ動かすと、二つずれるぞ」
「内部の歯車がつながっているんですね……」
エレナリアは碑文と溝ばかりを見ていた。
石盤同士が連動しているとまでは、予想できていなかった。
エステルが石盤の表面へ顔を近づけ、指先で縁を確かめていく。
やがて、中央の石盤の縁の一部だけが、他より深く摩耗していることに気づいた。
押し込むと、内部で小さな金属音がした。
「ここを押さえている間なら、一枚ずつ動かせそうよ」
「では、エステルさんはそこをお願いします。ボレスさんは、私が示した向きへ石盤を回してください」
エレナリアが配置を指示し、エステルが連動を止め、ボレスが重い石盤を回す。
夜明け。
天頂。
夕暮れ。
三枚の溝が、一続きの細い水路になった。
「最後に、水を流します」
エレナリアは杖の先から、ごく細い水流を生み出した。
細い水が、扉脇の水受けへ静かに注がれる。
水は夜明けの太陽から天頂へ、天頂から夕暮れへと溝を巡り、中央の太陽紋章へ流れ込んだ。
内部で水受けが沈み、古い錠が動く。
ごとん。
重い音とともに封印が外れた。
ボレスが石扉へ両手を掛けると、扉は石を擦る音を立てながら、ゆっくりと開いていった。
◇
管理室の内部には、腐り落ちた机や棚が残されていた。
奥の壁の上部には、格子の外れた古い通気口が残っている。
紙の記録はほとんど原形を留めていない。
だが、奥の石棚から、薄い銅板に刻まれた施設図と管理記録が見つかった。
エレナリアが魔石灯の明かりの下、古い祭祀文字を読み解いていく。
「太陽のプーラは、最奥の主聖水槽に安置されていたようです。そこで清められた水を、地上の聖水盤へ送っていたんですね」
エステルが、銅板の端に刻まれた、他より太い一本の線を指した。
「こっちの水路は?」
「緊急排水路です。聖水が汚染された場合に、施設の外へ捨てるためのものだと思います」
「聖水なのに、汚染されるのか?」
「異物や別の魔力が混じれば、性質は変わります」
「それが今の状況かもしれないわね」
エステルが銅板の図面へ視線を落とした。
エレナリアは施設図の上へ指を滑らせた。
排水機構の操作室は、主聖水槽を挟んだ、ちょうど反対側にある。
「ただ……ここから直接は行けません。使うとしたら、あの主聖水槽の外周を、ぐるりと回らなければなりません」
指先が、水槽の縁に沿った細い通路と、途中に描かれた一本の橋をなぞる。
「図面ではこの橋を渡ることになっていますが、今も残っているかどうか……」
「緊急時に、主聖水槽を回り込まなきゃならないのね」
エステルが眉をひそめた。
「はい。ここからすぐに操作できる設備ではないようです。位置だけは覚えておきましょう」
エレナリアは銅板を鞄へ収めた。
◇
管理室を出ようとした、その時だった。
ぴちゃり。
天井を通る古い水路から、白い雫が落ちた。
雫は石床へ落ちても、広がらなかった。
ぶよぶよと盛り上がり、泡を含んだ半透明の塊へと変わっていく。
続いて、水路の亀裂から、濡れた音とともに白い塊が次々と這い出してきた。
拳ほどのものから、人の頭ほどのものまで。
白く濁った身体の内側で、細かな気泡が蠢いている。
その一体が、ボレスの足へまとわりつこうとした。
ボレスは反射的に片手斧を振り下ろし、その身体を両断した。
だが、二つに分かれた塊は、それぞれ形を整え、別々の個体となって動き始めた。
「斬らないでください!」
「先に言ってくれ。二匹になったぞ」
「私も、今分かりました!」
スライムたちの動きは遅い。
だが、水路のあちこちから湧き続け、じわじわと三人の退路を塞ぎ始めていた。
「斬れねえなら、焼くか?」
ボレスが尋ねる。
エレナリアは、すぐには答えなかった。
白濁した身体。内側の気泡。
そして、地上の回廊で調べた粘液と同じ、重く淀んだ臭い。
「……試します。エステルさん、煙が出たら、すぐに奥の通気口へ流してください」
「分かったわ。試すなら、本当に少しだけよ」
エレナリアは床に残った小さな欠片だけを、割れた石皿へ移した。
杖の先に、針先ほどの小さな炎を灯し、そっと当てる。
欠片が灰色に泡立った。
鼻を刺す刺激臭とともに、濁った煙が噴き出す。
エステルの鞭が風を起こし、煙を通気口へと押し流した。
エレナリアもすぐに炎を消す。
「毒気です。まとめて焼けば、私たちまで倒れます」
「斬れば増える。焼けば毒か」
ボレスが顔をしかめた。
「面倒な泥だな」
「泥ではありません」
エレナリアは、蠢く白い塊を見つめた。
「これは、おそらく聖水だったものです。魔力を抱えた水が長いあいだ淀み、腐敗したんです」
◇
スライムの数は、なおも増え続けている。
斬れば増える。
焼けば毒が出る。
ならば――倒す必要はない。
エレナリアは管理室の外へ視線を走らせ、すぐ近くにある干上がった沈殿槽へ目を止めた。
その脇には、外れた重い石蓋が倒れている。
「あの沈殿槽へ閉じ込めます」
杖を握り直し、二人へ向き直る。
「私が土の術で進路を絞ります。エステルさんは風で水槽へ押してください。ボレスさんは、横へ逃げる個体を石板で塞いでください」
「壁役か」
「その大きな体で、しっかり押さえておいてください」
「嬢ちゃん、ずいぶん遠慮がなくなったな」
「斬ったら増えるんだから、四の五の言わずにやりなさい」
エステルがぴしゃりと言った。
エレナリアが杖を振るう。
石床が低く隆起し、スライムたちの進路が、沈殿槽へ向かう一本の通路へと絞られた。
エステルが鞭を振るう。
革紐はスライムへ触れず、その軌道から放たれた風圧だけが、白い塊たちを沈殿槽の方へ押し流していく。
ボレスは倒れていた分厚い石板を両手で構え、大盾のように床へ突き立てた。
列から横へ逸れようとする個体が石板へぶつかり、べちゃりと不快な音を立てる。
だが、丸太のような太い両脚は微動だにしない。
石板の裏に全体重を預け、這い寄る白い濁流を、一歩も後ろへ通さず沈殿槽側へと押し戻していく。
一体のスライムが、エレナリアの作った低い隆起へ身体を乗り上げた。
半透明の身体が細長く伸び、壁を越えようとする。
「おい、そいつ越えてくるぞ!」
エステルの鞭が空を裂いた。
横殴りの風圧が伸び上がったスライムを叩き、水槽の側へ押し戻す。
「壁が低いわ」
「すみません。今、上げます」
エレナリアが術を調整し、石の隆起をもう一段だけ高くした。
やがて、天井の水路から這い出してくる白い塊が途切れ、最後の一体が沈殿槽の底へ落ちた。
「閉めるぞ。二人とも離れろ」
ボレスが沈殿槽の脇に倒れていた重い石蓋を持ち上げ、槽の上へ被せた。
隙間から白い身体が這い出そうとする。
エレナリアはすかさず土の術で隙間を塞ぎ、ひとまず完全に封じ込めた。
湿った音が何度か石蓋の下から響き、やがて、小さくなっていった。
◇
エステルは周囲の暗がりを見回し、新たな敵がいないことを確かめてから、エレナリアへ視線を戻した。
「先に欠片で試したのは、いい判断だったわ」
「まとめて焼いていたら、と思うと……今でも少し怖いです」
エステルの表情が、わずかに緩んだ。
「その怖さを忘れないことね。今の判断は正解よ」
ボレスが石蓋の上を、斧の柄で軽く叩く。
「斬ったら増えるってことも、覚えといてくれよ」
「それは、真っ先に斬ったボレスさんが覚えておくことです」
エレナリアは、思わず口元を緩めた。
張り詰めていた胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなった。
◇
三人は銅板の施設図を頼りに、地下のさらに奥へと進んだ。
進むほど、壁や天井を覆う白濁した粘液は増えていく。
足元の水路を流れる黒い水には、ときおり、淡い金色の光が反射した。
「今の光、見ました……?」
「ええ。水の中で、何かが光ってる」
やがて三人は、開けた高所の回廊へ出た。
眼下に広がっていたのは、巨大な主聖水槽だった。
地上の礼拝堂が、丸ごと収まるほどの広さ。
水面は黒く淀み、その上を薄い白色の膜が覆っている。
水槽の中央には、石造りの台座がぽつんと残されていた。
しかし、台座の上には、何もない。
「記録では、あそこに太陽のプーラが安置されていたはずですが……」
「足でも生やして、どこかへ行っちまったのか?」
「そんなわけないでしょ」
斧を肩に担ぎ直すボレスをよそに、エステルは回廊の縁から、黒く淀んだ水面へ油断なく視線を走らせた。
「誰かが持ち出した可能性は?」
「ここから持ち出されたのなら、施設全体にこれほど強い魔力は残らないはずです」
その時だった。
水槽の底で、淡い金色の光が明滅した。
「あれは……」
光が、ゆっくりと横へ動いていく。
宝玉が水に流されているのではない。
それを包んでいる何かが、動いているのだ。
水面を覆っていた白い膜が、大きく盛り上がった。
ざぶん――。
地下へ下りる前に聞いた、あの重く鈍い水音が、広大な空間に響き渡る。
水だと思っていたものの一部が、粘つく巨大な身体となって、ゆっくりと立ち上がっていく。
半透明に濁った、山のような巨体。
その体内の奥で、太陽のプーラだけが、囚われた心臓のように清らかな金色の光を脈打たせていた。
「……あれが、太陽のプーラです」
ボレスが斧を構えたまま、巨大な影を見上げる。
「おいおい、泥遊びにしちゃあ、でかすぎやしねえか?」
「泥じゃないって言ったばかりでしょ」
エステルが冷たく返した。
巨体の表面が、どろりと波打った。
やがてその上部が、三人の立つ回廊へ向かって、ゆっくりと傾いていった。




