第6話 日輪の聖堂跡
帝都の大通りに面したファンネリア商会支店は、朝から冒険者や傭兵たちの活気に満ちていた。
鞣し革と鉄の匂い、それに微かな薬品の香りが混ざり合う店内には、遠征に向けた物資が所狭しと並べられている。
古城から生還した翌朝、エレナリアたち三人は、正式な一行として初めての旅支度を整えるためにここを訪れていた。
エステルは、必要な物資の量を見積もりながら、陳列棚の間を迷いなく歩いていく。
しなやかな縄、夜間の光源となる魔石灯、即効性のある傷薬、日持ちのする携帯食、頑丈な水袋、そして野営道具。
実用性を最優先にした品々が、次々と手際よく買い物籠へ収められていく。
エレナリアもまた、ただエステルの後ろをついて歩くだけではなかった。
母から託された小箱の残金を頭に置きながら、古い修道院を探索するにあたって必要になるであろう品を真剣な眼差しで探す。
やがて彼女が選び出したのは、錆びた金具や扉の蝶番に差すための油、水質や液体に含まれる魔力を調べるための簡単な試薬、そして汚れた物へ直接触れないための厚手の手袋だった。
古城で準備不足を痛感した分、今回は想定できる危険へ備えておきたかった。
エステルも、エレナリアが選んで持ってきた品々を横目で確認し、実用上の問題がないと判断すると、何も言わずに自分の籠へと入れた。
一方で、ボレスは両腕にいっぱいの荷物を抱えて戻ってきた。
その腕の中にあるのは、どう見ても三人の数日分の遠征には多すぎる、大量の干し肉の袋だった。
「ボレスさん。確かに食費も必要経費にすると申し上げましたが、少しは抑える努力をしてください」
エレナリアは大真面目な顔で注意した。
「俺は成長期なんだ」
ボレスが悪びれずに胸を張る。
「それ以上、そのデカい体のどこが成長するってのよ」
すかさずエステルが手を伸ばし、ボレスの腕から干し肉の袋を二つ取り上げると、冷ややかな手つきで元の棚へと戻した。
「なぜ二つも戻す」
「全部戻されなかっただけ感謝なさい」
抗議するボレスを鼻で笑い、エステルはさっさと会計のカウンターへと向かっていく。
遠征の足として、一行は小型の荷車と、それを引くための大型走鳥であるクッカも手配した。
クッカは黄色い羽毛と太い二本脚を持つ鳥で、荷物を載せた車を引いて長距離を走ることに適している。
店の裏手で荷車に物資を積み込んでいる最中、ボレスがこっそり自分の干し肉の袋を荷台の奥へ押し込もうとした。
その瞬間、繋がれていたクッカが鋭い嘴でボレスの手の甲をつついた。
「いてっ。お前までエステルの味方か」
クッカは短く喉の奥で鳴くと、ふいとそっぽを向いた。
◇
三人を乗せたクッカ車は帝都の城門を抜け、目的地である聖アウレア修道院跡へ向かう街道を北西へと進んでいた。
御者台ではボレスが手綱を握り、街道の轍を避けながら、クッカを巧みに操っている。
その隣に座るエステルは、街道沿いの林や荒野へ油断なく視線を巡らせていた。
エレナリアは荷台に腰を下ろし、揺れに耐えながら父の記録帳と、修道院について記された古い資料の束を読み返している。
「分かっている範囲の情報を、お伝えしておきます」
エレナリアは資料から顔を上げ、前方の二人へ声をかけた。
「聖アウレア修道院は、かつて『日輪の聖堂』と呼ばれていたそうです。太陽に関係する祭祀と、聖水を使った儀式が主に行われていた記録が残っています」
「太陽と聖水か。死霊術の残骸がうろつく場所には、いかにも効きそうな名前だな」
ボレスが手綱を握ったまま相槌を打つ。
「はい。そして、古い修道院の建築では、水を地下の施設で清めてから、地上の礼拝堂へ引き上げる構造が使われることがあったようです」
「なるほどね」
エステルが前を向いたまま答える。
「太陽のプーラが残っているなら、祭壇か、その聖水に関係する場所が怪しいわね」
「おそらくは。ただ、地下施設の詳しい構造や、プーラの安置場所までは、この資料からは判明していません」
エレナリアは資料を鞄へしまい、木杖を膝の上で握り直した。
◇
やがて、目的の修道院跡が近づいてきた頃だった。
荷車を引いていたクッカが、不意に歩みを緩めた。
街道の脇にできた小さな水溜まりを大きく避けるように進み、黄色い羽毛をわずかに逆立てている。
「どうした? 腹でも減ったのか?」
ボレスが手綱を緩め、クッカの背を軽く叩く。
しかしクッカは、水溜まりの方へは決して近づこうとせず、警戒するように低い声で鳴いた。
「空腹じゃないわね」
エステルが周囲を鋭く見回し、腰の鞭へ手を添える。
「何かを嫌がってる」
エレナリアが身を乗り出して水面を見ると、ただの泥水ではないことに気がついた。
水溜まりの表面には、薄い白色の膜のようなものが不気味に浮かんでいる。
原因はまだ断定できないが、嫌な予感がエレナリアの胸をかすめた。
◇
昼過ぎ、三人を乗せた荷車は聖アウレア修道院跡へと到着した。
半ば崩れ落ちた石造りの外壁が、かつての栄華の終わりを無言で告げている。
蔦に深く覆われた鐘楼は傾き、壁面に彫られていたであろう太陽の紋章は無残に砕け落ちていた。
崩れた門をくぐった途端、空気が変わった。
頭上からは確かに陽射しが差し込んでいるのに、修道院の内側だけが妙に冷たい。
湿った冷気が肌にまとわりつき、古い泥の臭いが鼻についた。
ボレスは荷車を外壁から少し離れた、陽の当たる乾いた場所へと移した。
手早くクッカを荷車から外し、陽の当たる乾いた場所へ繋ぎ直した。
周囲の水溜まりには一切近づけず、帝都から運んできた水袋の水を木桶に注いで与える。
さらに、不意の事態で荷車が動かないよう、車輪にしっかりと楔を打ち込んだ。
三人はそれぞれ装備を整え、修道院の内部へと足を踏み入れる。
ボレスが先頭に立ち、エレナリアを挟んで、エステルが後方を警戒する。
エレナリアも二人の歩調にしっかりと合わせて、崩れた礼拝堂へ入っていった。
天井には長年の風雨で大きな穴が開き、そこから差し込んだ一本の陽光が、埃の舞う石床を丸く照らし出していた。
エレナリアは、床へ落ちた光の先を見て足を止めた。
「ボレスさん、少し待ってください」
先を歩いていたボレスが振り返る。
「どうした、嬢ちゃん」
「何か見つけたの?」
後方を警戒していたエステルも、エレナリアの視線を追った。
「これを……」
エレナリアが指した先には、太陽紋章を形作っていた浮き彫りが残っていた。
放射状に伸びる刻線のうち、一本だけが正面の祭壇とは別の方向――礼拝堂脇の聖水盤へと続いていた。
「この刻線……ただの装飾ではありません」
エレナリアは鞄から厚手の手袋を取り出してはめると、聖水盤へ近づいた。
底に厚くこびりついた泥と苔を、手袋越しに慎重に拭い去っていく。
すると、石の表面に隠されていた、細い石造りの溝が現れた。
「排水路か?」
ボレスが大きな体を屈めて覗き込む。
「いいえ。傾斜が逆です」
エレナリアは溝の傾斜に指を沿わせ、水が流れる方向を確かめた。
「ここから外へ流していたのではありません。地下から聖水を汲み上げ、聖水盤へ導いていたんです」
エステルは、溝の続く先へ視線を走らせた。
「それなら、辿ってみる価値はありそうね。ボレス、先をお願い」
「ああ」
ボレスが立ち上がり、再び先頭へ戻る。
水路の方向を追い、三人は礼拝堂の奥に続く崩れた回廊へ足を踏み入れた。
回廊の石床はひどく湿っており、壁には何かが這ったような、あるいは水が流れ落ちたような跡がべったりと残っている。
エレナリアは歩みを進めるうち、足元に白く濁った粘液が落ちているのを発見した。
細い筋を引いたその粘液は、床の亀裂から回廊のさらに奥へと続いており、周囲には細いものが這った跡も無数に残されている。
エレナリアはすぐに触れたりせず、杖の先で慎重に距離を取りながら観察した。
「古城にいた死霊たちの痕跡とは違います」
「分かるの?」
エステルが背後から尋ねる。
「死霊術の残滓なら、もっと冷たい魔力が残ります。これは……水に近い何かです」
エレナリアが試薬を取り出そうとした、その時だった。
べちゃり。
回廊脇の崩れた柱の陰から、ひどく水気を含んだ異様な音が響いた。
大人の腰ほどもある巨大な蛙が二匹、濡れた石床へと重々しく降り立ったのだ。
さらに、床の亀裂からは、白く膨れた水蛭のような魔物が、互いに折り重なるようにして何匹も這い出してくる。
一匹目の大蛙が、太い脚で石床を蹴り、先頭のボレスへ向かって飛びかかった。
ボレスは怯むことなく、片手斧の太い柄を両手で構え、巨体を正面から受け止めて押し返す。
だが、もう一匹の大蛙はボレスの頭上を高く飛び越え、エレナリアのすぐ前へ着地した。
濡れた巨体が石床を震わせる。
突然目の前へ落ちてきた異形に、エレナリアは肩をびくりと震わせ、思わず半歩退いた。
「エレナ!」
「……っ!」
大蛙が身を沈めた次の瞬間、赤黒い舌が鞭のように伸びた。
エレナリアが杖を引くより早く、粘液に濡れた舌の先が柄へ巻きつく。
大蛙が舌を一気に口元へ引き戻した。
杖を握った両腕ごと前へ持っていかれ、エレナリアの体勢が大きく崩れる。
大蛙の舌が長いことは知っていた。
だが、これほど速く、力が強いとは思っていなかった。
エレナリアは杖を力任せに奪い返そうとはしなかった。
大きな術は使わず、舌の付け根だけを狙って、小さな風の術を撃ち込む。
大蛙が苦しげに口を開き、舌の力が緩んだ。
エレナリアは杖を引き戻す。
獲物を逃した大蛙が、再び太い後脚へ力を込めた。
その足元だけを、石床が突き上げる。
踏み切る直前に体勢を崩され、大蛙は横倒しになった。
「エステルさん!」
その呼び声に応じ、エステルの鞭が空気を裂いた。
風のファルサを帯びた革紐が、もがく大蛙の太い後脚へ正確に絡みつき、その動きを完全に封じ込める。
そこへ、一匹目の大蛙を押し退けたボレスが大きく踏み込んだ。
片手斧の腹を頭部へ叩きつけ、その大蛙を完全に動かなくする。
その間に、床の亀裂から這い出した水蛭たちが白い腹を波打たせながら、三人の足元へと迫っていた。
エレナリアは床に浅い水流を作り、水蛭たちを一か所へ押し流す。
そこへエステルの鞭が唸りを上げ、集まった水蛭をまとめて石壁へと叩きつけて粉砕した。
押し戻されていたもう一匹の大蛙も、ボレスが斧の一撃で仕留めた。
エステルは周囲の暗がりへ視線を巡らせ、敵が残っていないことを確認してから、エレナリアを見た。
「術の選び方は正解よ」
「はい」
「でも、ボレスを飛び越えてくる可能性を考えてなかった。前衛がいるからって、距離を任せきりにしないこと」
「……次は、後ろだけでなく、横へ逃げる余地も確かめておきます」
知識だけでは測れない実戦の距離感を、エレナリアはまた一つ覚えた。
「まあ、あんなのが目の前に落ちてきても悲鳴ひとつ上げなかったんだ。上出来だろ」
ボレスが片手斧を肩へ担いだ。
「……驚きはしました」
「肩、跳ねてたものね」
エステルが淡々と言う。
エレナリアは少しだけ頬を赤くすると、動揺を隠すようにしゃがみ込み、倒した蛙の体液と床の粘液を真剣に見比べた。
色も粘り気も全く異なっており、この粘液は大蛙が残したものではない。
エレナリアは商会で購入した試薬の小瓶を取り出し、粘液の上へ一滴だけ垂らした。
白濁した液体は、試薬と反応して淡い灰色へと変わった。
しかし、すぐには混ざり合わず、薄い不気味な膜を張ったまま形を保っている。
濁った水を長く密閉したような、重く淀んだ臭いが鼻を突いた。
「生き物の体液ではありません。でも、普通の水でもありません」
エレナリアの言葉に、エステルが眉をひそめる。
「何が混じってるの?」
「魔力を含んでいます。淀んだ水に魔力が混じり、変質したもののようです」
少なくとも、大蛙や水蛭が異変の原因とは考えにくい。
白濁した粘液の跡は、回廊のさらに奥へと続いていた。
三人が痕跡を辿っていくと、完全に崩れ落ちた石壁の前へと行き着いた。
ボレスが腕力で大きな瓦礫をどかすと、その奥から、ひどく錆びついた鉄扉が現れた。
鉄扉には、錆びついた閂が掛かっていた。
ボレスが太い腕で押し上げようとしても、びくともしない。
エレナリアは鞄を開け、商会で購入した油の壺を取り出した。
「買っておいて正解でした。干し肉より優先した甲斐がありましたね」
「……まだ言うのか」
「必要経費の配分について確認しただけです」
ボレスは一瞬黙ったあと、口の端を上げた。
「嬢ちゃんも言うようになったな」
そのやり取りを、エステルは少し後ろから見守っていた。
呆れたように息をつきながらも、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。
エレナリアは油を閂と受け金具、それから蝶番の隙間へ丁寧に差し込み、少しだけ時間を置いた。
油が馴染んだのを見計らい、ボレスが再び閂へ力を込める。
鈍い金属音とともに閂が外れ、続いて鉄扉が重々しく開いていった。
開け放たれた扉の向こうには、じめじめと湿った石段が、地下の闇へと続いている。
エステルが魔石灯を高く掲げても、階段の先は深い闇に飲まれて見通せない。
肌を刺すような冷たい空気と、ひどく淀んだ水の臭いが、地下から一斉に流れ出してくる。
その直後だった。
ざぶん――。
地下の底深くで、大量の水が押し退けられるような音が響いた。
先ほどの大蛙が跳ねた程度の音ではない。
広い水面全体が、巨大な何かの動きによって大きく揺らされたような、重く、鈍い音だった。
ボレスが斧を両手で構え直し、エステルも鞭の柄へ手を添える。
エレナリアも杖を握り直し、二人とともに地下の闇を見据えた。
「エレナは私の前から離れないで」
「はい」
「さて、何がいるやらな」
ボレスの低い声を合図に、三人は得体の知れない水音が響く地下への階段を、静かに下り始めた。




