第5話 三人旅の始まり
灰となった男の残骸が、石床に静かに散っていた。
床一面の儀式陣には、光を失った血文字だけが残っていた。
エステルは鞭を腰に巻き直し、鋭い視線で広間の奥を一瞥した。
束ねた黒髪の先が、鞭を巻き直す動きに合わせて肩で揺れた。
「調べるなら手早くして。夜が明ける前にここを出るわよ」
ボレスは無言で片手斧を肩に担ぎ、倒れた燭台や壊れた扉の破片を軽々とどかし始めた。
エレナリアは一つ深呼吸をし、男が使っていたらしい黒檀の机や棚へと近づいた。
まだ足は少し震えていたが、一人で古城に足を踏み入れた時の恐ろしさはなかった。
今はもう、古城の闇に一人で立っているわけではなかった。
散乱する羊皮紙や干からびた薬草の束をかき分けながら、机と棚を調べていたエレナリアの手が、ふと止まった。
机の引き出しの奥。
そこに、無造作に押し込まれた革表紙の記録帳があった。
エレナリアは引き出しから取り出し、表紙の埃を払った。
開いたページに目を落とした瞬間、エレナリアは息を呑んだ。
そこに綴られていたのは、見間違えようもない父アレクサンダー・ヴァルキエルの端正な筆跡だった。
「……お父様」
誰にも聞こえないほどの小さな呟き。
肩からこぼれた亜麻色の髪が、開いたページを撫でた。
震える指で紙をめくる音だけが、静かな広間に響いた。
記録は断片的で、所々が破り取られ、あるいは黒く塗り潰されていた。
――古城の地下に、古い儀式の痕跡を確認。
――不死、あるいは死者の再生に関わる術式。
――我がヴァルキエル家に伝わる古い記録と合致する……。
エレナリアの心臓が早鐘を打った。
父は、なぜこの古城を調べていたのか。
そして、なぜ父の記録が、あの男の机に残されていたのか。
さらにページを進めると、乱れた筆跡で書き殴られた一文があった。
『……死せる神……封……シケ……』
そこから先は完全にインクで塗り潰されており、何が書かれていたのか全く読み取れなかった。
だが、最後のページにだけ、はっきりと読める文字が残されていた。
『死霊術への対抗手段として、太陽の加護を宿すプーラの確認が必要。
候補地――かつて日輪の聖堂と呼ばれた、聖アウレア修道院跡』
「聖アウレア修道院跡……」
エレナリアが呟くと、エステルが記録帳を覗き込んだ。
「詳しく読むのは外に出てからよ。その記録を持っていきなさい」
エレナリアは頷き、父の記録帳を胸に抱いた。
「はい。まずは、ここを出ましょう」
◇
古城を出ると、空は薄く白み始めていた。
振り返れば、そびえ立つ古城の影はなお不気味だったが、一人で夜の底に沈むように足を踏み入れた時ほどの圧迫感はなかった。
「やっぱり、命が助かった後は肉だな」
大きく伸びをしながら、ボレスが嬉しそうに腹を叩いた。
夜明けの薄明かりの中で、くすんだ青髪が土埃に白んで見える。
「あんた、さっきからそれしか言ってないわよ」
エステルがやれやれとため息をついた。
二人のやり取りを聞きながら、エレナリアは冷たい朝の空気を深く吸い込んだ。
裂けた赤い外套の裾が、荒野を渡る風にはためいた。
疲労で体は重かったが、帝都へ向かう足取りは、不思議と軽かった。
◇
帝都の冒険者酒場。
朝方の店内には、前日の真昼とは違う空気が流れていた。
夜通し飲み明かしてテーブルに突っ伏している者、寝ぼけ眼でジョッキを磨く店主、手早く朝食をかき込む出稼ぎの商人たち。
そこへ、埃と煤にまみれた三人が入っていった。
「おい、あれ……」
カウンターの隅で飲んでいた、柄の悪い冒険者の一人が目を丸くした。
前日、古城への護衛を求めたエレナリアを鼻で笑った男だった。
「あの嬢ちゃん、生きて帰ってきたぞ」
「本当に古城へ行ったのか?」
「しかも、あの二人と一緒に……?」
驚きと、わずかな気まずさを含んだざわめきが、さざ波のように酒場へ広がっていった。
尊敬を集めたわけではなかった。
だが、少なくともあの時の「無知な家出令嬢」に向けられる視線ではなかった。
エレナリアは、背中に刺さる無数の視線に少しだけ身を硬くした。
だが、今度は決して目を伏せることなく、まっすぐに奥のテーブルへと向かった。
煤に汚れた深紅の外套が、朝の光の中を横切っていった。
席に着くなり、ボレスは店主を呼んで山盛りの朝食を注文した。
エステルは冷たい水を頼んで喉を潤した。
エレナリアは、胸に抱えていた父の記録帳をそっと膝の上へ置くと、姿勢を正して二人に向き直った。
「ボレスさん、エステルさん。改めてお願いします。私に、力を貸してください」
まっすぐな声だった。
古城に入る前の、ただ焦りに突き動かされていた少女ではなかった。
自分の無知と未熟さを痛いほど理解した上での、正式な依頼だった。
エステルは水の入った木杯を置き、黒い瞳でエレナリアをじっと見据えた。
「条件があるわ」
「……はい」
「一つ、勝手に一人で突っ走らないこと。二つ、分からないことは必ず聞くこと。三つ、大きな術式を使う前には必ず周囲の状況を見ること。そして最後……危ないと思ったら、必ず私の撤退の指示に従うこと」
エステルが突きつけたのは、冒険者として生き残るための鉄則だった。
エレナリアは、その瞳から逃げることなく、深く頷いた。
「分かりました。必ず守ります」
「俺からも条件がある」
不意に横から口を挟まれ、エレナリアは目を瞬かせた。
振り返ると、ボレスが運ばれてきたばかりの肉の塊を切り分けながら、ひどく真面目な顔をしていた。
「飯代はそっち持ちだ」
「あんたねえ……!」
エステルが卓の上の布巾を投げつけたが、ボレスはひらりと避けて悪びれずに肉を口へ放り込んだ。
「大事なことだろ。腹が減ったら戦えねえんだからよ……ところで嬢ちゃん。俺たちを雇うって言ったが、金はあるのか?」
ボレスの現実的な問いに、エレナリアはわずかに目を伏せた。
ヴァルキエル家の屋敷が襲われた夜、母エミリアは、エレナリアへ小さな木箱を持たせて地下通路から逃がした。
家の正式な財産は事件後に封鎖され、子爵家の名義では金貨一枚動かせなかった。
だが、母が託した箱には、旅に使える金貨とヴァルキエル家の印章、古い鍵、そして家に伝わる記録の一部が収められていた。
「無限ではありません」
エレナリアは顔を上げ、二人をしっかりと見つめた。
乱れた亜麻色の髪の下で、碧色の瞳が、揺らぐことなく二人を捉えていた。
「ですが、しばらく旅をするだけの資金はあります。お二人への護衛料も、必要経費として計上いたします」
その言葉に、ボレスが嬉しそうに頷いた。
「よし。俺の飯代も必要経費だな」
「限度ってものを覚えなさい」
エステルが冷たく言い放った。
「食費につきましても、改めて計算しておきます」
エレナリアが大真面目に頷くと、ボレスは豪快に笑い、エステルは呆れたように頭を抱えた。
笑いが収まると、エステルは改めてエレナリアを見た。
「あんたには知識もある。資金もある。覚悟もある」
一拍置いて、エステルは続けた。
「問題は、あんたがその『使い方』をまだ知らないことよ」
図星を突かれ、エレナリアはわずかに肩を縮めた。
否定はできなかった。
古城では、術の威力ばかりを優先し、自分で何度も窮地を招いたのだ。
「私たちを雇うなら、まずはその使い方から覚えなさい。無茶をしないためにもね」
「俺は飯が出るなら文句はねえ」
「それだけじゃないでしょ」
エステルに睨まれ、ボレスは肩をすくめてナイフを置いた。
「まあな。嬢ちゃん一人で行かせたら、森でも山の中でも一人で突っ込むだろうしな」
痛いところを突かれ、エレナリアはぐっと唇を噛んで押し黙った。
◇
朝食がひと段落すると、エレナリアは膝の上の父の記録帳を広げた。
三人の視線が、最後のページに残された父の文字へ落ちた。
『死霊術への対抗手段として、太陽の加護を宿すプーラの確認が必要。
候補地――かつて日輪の聖堂と呼ばれた、聖アウレア修道院跡』
「太陽のプーラ……?」
エレナリアは記録の文字を指でなぞった。
プーラ(※1)そのものは知っていた。
問題は、その前に記された『太陽』という名だった。
「そんな性質のプーラ、文献でも見たことがありません」
エステルも記録帳を覗き込み、眉をひそめた。
落ちかかった黒髪を、指先で耳へ掛ける。
「私も聞いたことがないわね。少なくとも、よく知られたプーラではないわ」
「残ってるなら、行って確かめりゃいいだろ」
ボレスがあっさりと言った。
「その修道院跡ってのは、帝都の北西にある廃墟だろ? 迷うような場所じゃねえよ。水場が生きてりゃいいがな」
「太陽の加護が本物なら、死霊術相手には役に立つかもしれないわね」
エステルが顎に手を当てた。
エレナリアは、父の文字を見つめた。
父が何を調べていたのか。
兄はどこにいるのか。
なぜヴァルキエル家は狙われたのか。
まだ何も分からない。
不安はあった。
それでも、もう立ち止まるつもりはなかった。
エレナリアは記録帳から顔を上げ、エステルをまっすぐに見た。
その決意を確かめるように、エステルも彼女を見返した。
「聖アウレア修道院跡までの護衛。依頼はそれでいいのね」
「はい」
「なら、受けるわ」
ボレスが肉を頬張ったまま、片手を上げた。
「俺も異議なし。飯代込みでな」
エレナリアは二人へ、深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
出発は翌朝と決まった。
その日は宿で体を休め、出発前に旅支度を整えることになった。
こうして、エレナリア・ヴァルキエルの旅は、もう一人きりではなくなった。
用語解説
※1:プーラ――属性や特殊な加護を宿す天然の宝玉。武具や術式設備に組み込み、その力を引き出して用いる。




