第4話 古城の主
軋むような骨の足音が、廊下の奥へと遠ざかっていった。
氷のように冷たい石床にへたり込んだエレナリアは、両手で木杖をぎりりと握りしめていた。
崩れた石壁の隙間から、廊下の奥で脈打つ赤黒い光が差し込み、身を潜める三人の影を不規則に引き伸ばしていた。
すぐ脇で廊下を見張るボレスからは、微かな土埃と革具の匂いがした。
前を見据えるエステルの革鞭からは、使い込まれた獣皮の匂いが漂ってくる。
束ねた黒髪の後れ毛が、石壁の隙間から吹き込む風に揺れていた。
一人で古城に挑み、罠に落ち、つい先ほど名を知ったばかりの二人に命を救われた。
引き裂かれた赤い外套以上に、己の未熟さがそこに露呈している。
「ぐうの音も出ないって顔だな、嬢ちゃん」
ボレスが肩をすくめた。
「まあ、命が助かってよかったじゃないか。帰ったら肉でも食って元気出せ」
「いい加減に、肉から離れなさい」
エステルが呆れたようにため息をついた。
「落ち込んでる暇はないわよ。次も生き残りたいなら、自分が何をやらかしたか、正確に理解しなさい」
エレナリアは弾かれたように顔を上げた。
乱れた亜麻色の髪が、汚れた頬に張りついている。
「いい? あんたの失敗は三つ。一人で古城に入ったこと。逃げ場のない奥へ逃げ込んだこと。――父親と兄貴の名前を出されて、怪しい相手の誘導に乗ったこと」
「ですが、あそこには父と兄の手がかりがあるかもしれないと……」
言いかけて、エレナリアは口を噤んだ。
否定できない。
疑っていたはずなのに、差し出された手掛かりに縋ったのだ。
「探したいものがあるのは分かったわ。でも、探し方が最悪よ」
エレナリアは深く息を吸い込んだ。
埃にまみれた膝に手をつき、ゆっくりと姿勢を正す。
「……改めて名乗ります」
震えの収まった声が、冷たい礼拝堂跡に響いた。
「エレナリア・ヴァルキエル。ヴァルキエル子爵家の末娘です」
沈黙。
酒場で名乗った時とは違う。
誰も笑わない。
肉がどうこうと冗談を言っていたボレスの目も、今は妙に静かだった。
あの男は彼女を「ヴァルキエルの娘」と呼び、父と兄の名まで知っていた。
「さっきの奴も、そう呼んでたな」
ボレスが低く呟いた。
エステルも小さく頷いた。
「少なくとも、ただの家出令嬢じゃないってことは分かったわ」
二人の静かな視線を受け、エレナリアは事情を話し始めた。
ヴァルキエルの屋敷で起きた事件。
父アレクサンダーと兄レオンの行方に繋がる何かが、この古城に持ち込まれた可能性。
周囲の大人たちは、誰一人として自分の話を信じてくれなかった。
「だから……私一人で、確かめるしかなかったんです」
杖を握るエレナリアの指先が白くなっているのを見て、エステルは静かに息を吐いた。
「事情は分かった。けど、今は感傷に浸ってる暇はないわ」
エステルは廊下の音へ耳を澄ませた。
廊下の奥では、赤黒い光が脈打つたびに、遠ざかったはずの骨の足音が増えていた。
「入口へ戻ろうとしても、今度は正面から囲まれる。あいつが、この城中の死者を片端から起こしてるのよ」
「つまり、逃げるにも先に、あいつを止める必要があるってことか」
ボレスが肩の斧を一度下ろし、握り直した。
くすんだ青髪の下で、その目だけが暗い通路の奥を見据えている。
「なら、話は分かりやすい。先にぶっ壊しに行くぞ」
無骨な言葉に、エレナリアは顔を上げた。
三人の視線が、暗い古城の奥へと向いた。
◇
礼拝堂跡を出た三人は、再び古城の奥へ向かった。
先頭にボレス。
エステルが中距離から周囲を警戒し、エレナリアは二人の背後に控えた。
もう、己の力だけを信じて勝手に前へ出ようとは思わない。
そう心に誓ったはずだった。
回廊の角を曲がった直後。
壁の影から骸骨兵と夜蝙蝠、濁った目を剥いた亡者の群れが雪崩れ込んでくる。
「下がってください。まとめて焼き払います!」
口が先に動く。
今度こそ役に立たなければ……その焦りが、エレナリアの視野を一瞬だけ狭める。
杖を構える。
先端に大きな火術式が組み上がりかける。
その瞬間、視界の端に、前へ踏み出すボレスの広い背中が映る。
(違う……!)
ここは古城の中だ。
煙が回る。天井が落ちる。何より、正面には味方がいる。
エレナリアは奥歯を噛み、組み上がりかけた術式を自らの意思で崩す。
杖の先に集まりかけていた炎が、揺らいで消える。
翻った赤い外套の裾が、火の消えた杖先をかすめる。
「……今、自分で止めたわね」
エステルが横目でエレナリアを見る。
「悪くない判断よ。第一歩としては、それでいい」
「俺は肉が好きだと言ったが、俺まで焼かれるところだったのか?」
斧を構えたボレスは、そう言いながら通路の正面へ踏み込む。
「あんたは正面に集中しなさい」
エステルは鞭を一度鳴らす。
「エレナ、倒そうとしなくていい。相手の足を止めなさい」
短く的確な指示。
「蝙蝠は落とすだけでいい。とどめはこっちで刺す。火は最後、小さく、弱点にだけよ」
ボレスが巨大な背中で通路を完全に塞ぐ。
「嬢ちゃん、俺の足元だけは崩すなよ」
エレナリアは頷き、頭の中で術式を小さく組み直す。
――倒すのではない。足を止める。
先頭の骸骨兵の足元を見据える。
地面を動かせばいい。
ほんの少し隆起させれば、体勢を崩せる。
「……っ!」
杖を低く振り抜く。
土術。
骸骨兵の足元の石床が、ほんのわずかに隆起する。
傾いた足場に骨の脚が取られ、胸骨の奥にある核が無防備に晒される。
「上出来だ!」
ボレスの重い斧が、露出した胸部を正確に叩き砕く。
上空から急降下する夜蝙蝠へ、エレナリアは視線を上げる。
落とすだけでいい。
翼の下の気流へ、小さな風を差し込む。
高度を失った夜蝙蝠を、エステルの鞭が風圧と共に床へ叩き落とす。
黒髪を翻し、返す一振りで次の一体を薙ぎ払う。
迫る亡者の足元へ、エレナリアは水術を這わせる。
濡れた石床で踏み込みが乱れたところへ、ボレスが斧の腹を叩きつける。
弾き飛ばされた亡者の胸奥で、濁った核が露出する。
――火は最後。小さく、弱点にだけ。
エレナリアの小さな火術が、核だけを的確に焼き焦がす。
ボレスが正面の圧力を受け止め、エステルが鞭で空間を制する。
エレナリアの術式が、敵の足元をすくう。
三人の動きが、初めて噛み合う。
最後に残った亡者が崩れ落ち、通路に静寂が戻った。
「今のは悪くねえ。俺の足元も崩さなかったしな」
ボレスが肩越しに笑いかけた。
「ありがとう、ございます……」
エレナリアは小さく息を吐き出し、わずかに手汗の滲んだ杖を力強く握り直した。
◇
古城の最奥。
黒ずんだ金属枠の扉を抜けた先には、客間とは比べものにならないほど大きな広間が広がっていた。
破れた幕が風に揺れ、壁の燭台には青白い炎が灯っていた。
壁際には黒檀の机と棚が並び、羊皮紙の束が無造作に積み上げられていた。
床一面には、客間で見たものと同じ血文字が幾重にも重なり、鉄錆の匂いを帯びた赤黒い儀式陣を形作っていた。
その中央に、古城の主が立っていた。
先ほどよりも肌は土気色に濁り、空間に溶け出すように輪郭が不安定に揺れていた。
儀式を妨害されたことで、完全な復活には失敗しているようだった。
それでも男は崩れかけた輪郭を押し固めるように胸を張り、唇を歪めた。
「フフフ……我が儀式を邪魔した罪、血で償ってもらおう」
「まだ言ってるぞ、あいつ」
ボレスが小声で呆れた。
「黙らせるわよ」
エステルが冷たく返し、鞭を床へ垂らした。
男が枯れ枝のような指を振るう。
床の影が鋭い槍や刃となり、幾筋も扇状に襲いかかる。
「下がってな、嬢ちゃん」
ボレスが前に出る。
「こういうのは、俺みたいな図体のでかい奴が受けるもんだ」
ボレスは片手斧の広い腹を立て、全体重を乗せた踏み込みで、飛来する影の刃を正面から受け止める。
重い衝撃音が広間に響く。
影そのものを切断することはできない。
だが、その勢いを殺し、後ろの二人へ一切の余波を届かせない。
「そこっ!」
エステルの鞭が空気を裂く。
風ファルサの力を帯びた革紐が、男の四肢へ伸びる黒い糸を、次々と断ち切っていく。
しかし、男は倒れない。
断たれたはずの糸が、赤黒い霧の中から再び伸び、崩れかけた輪郭を繕っていく。
「糸は切ってるのよ。なのに、また繋がる……!」
エステルが舌打ちする。
エレナリアは、二人の背後で静かに杖を構えていた。
大魔術は撃たない。
碧色の瞳は、男の肉体ではなく、床に広がる赤黒い儀式陣の線の流れを冷徹に観察する。
古文書の記述が脳裏を駆け巡る。
――不完全な吸血鬼化。
――死霊術による肉体の仮固定。
――血を媒介にした自己再生。
――しかし、その核は決して心臓にはあらず。
「……不完全な吸血鬼化なら、核は心臓ではありません」
通る声に、男の顔がわずかに引きつる。
「あなたが自分で描いた、その儀式陣です!」
杖の先が、床の陣へ向く。
必要なのは、圧倒的な火力ではない。
儀式陣を構成する線を、一か所ずつ狂わせればいい。
エレナリアは杖を床へ向ける。
土術。
石床に細い亀裂を走らせ、陣の円環をわずかにずらす。
続けて水術を這わせる。
乾きかけた血の線が滲み、隣の術式へと混ざる。
赤黒い光の流れが乱れる。
さらに小さな風を送り込み、亀裂から噴き出した魔力を逆方向へ押し返す。
赤い外套が魔力の風にはためき、亜麻色の髪が大きく舞い上がる。
男の輪郭が大きく揺らぐ。
残る基点は、一つ。
「……今です!」
極小の火が、陣の要となる血文字だけを焼き切る。
「はぁっ!」
すかさずエステルの鞭が走る。
風をまとった先端が、焦げた基点の魔力線を断ち切る。
「おおおおっ!」
ボレスが雄叫びを上げ、殺到する影を強引に払い除けながら踏み込む。
渾身の力を乗せた斧の腹が、男の体を弾き飛ばす。
支えを失った男は、光の暴れ狂う儀式陣の中心へと、仰向けに叩きつけられる。
バチンッ、と空気が弾けるような音。
崩された儀式陣の中で、行き場を失った魔力が逆流を始める。
「馬鹿な……! この私が、こんな小娘に……!」
赤黒い光に包まれながら、男が絶叫する。
エレナリアは身の毛のよだつ叫びに震えながらも、杖を下ろさず、男をまっすぐに見据える。
「小娘でも、あなたの術式くらいは読めます」
儀式陣の光が強烈に反転し、男の肉体が端から砂のようにボロボロと崩れ始める。
「夜は……終わらぬ……」
最後に残った右手が虚しく伸ばされる。
何にも触れることなく、男の姿は灰となって石床へ散る。
◇
深い沈黙が落ちた。
部屋を満たしていた赤黒い光は完全に消え失せ、淀んでいた古城の空気が少しだけ軽くなった。
ボレスが重い息を吐きながら、斧を肩に担ぎ直した。
汗で額に貼りついた青髪を、手の甲で拭った。
「不死って言うやつほど、よく死ぬな」
エステルが呆れた顔を向けた。
「あんた、そういうこと言わないの」
「事実だろ」
二人のやり取りが耳に届いた途端、エレナリアの肺から細く長い息が漏れた。
ようやく緊張が解け、膝ががくりと折れた。
エレナリアは杖を石床へ突き、倒れ込む寸前でどうにか堪えた。
埃にまみれた赤い外套の裾が、冷たい石床へ広がった。
あの儀式部屋で、ただ助けられるしかなかった時とは違う。
自分の知識と魔術が、二人の戦いを支え、この強敵を打ち倒す力の一部になれたのだ。
エステルが歩み寄り、エレナリアを見下ろした。
「今のは悪くなかったわ」
「……本当ですか?」
エレナリアは驚いて顔を上げた。
汗ばんだ亜麻色の髪の隙間で、碧色の瞳が丸くなった。
エステルはふっと口角を上げた。
「勘違いしないで。古城に一人で入っていい理由にはならないわよ」
ボレスが横から愉快そうに笑った。
「でも、根性だけじゃなかったな」
エレナリアは汗ばんだ手で、木杖の柄をそっと撫でた。
その手はまだ少し震えていたが、彼女の瞳には、一人で古城に足を踏み入れた時よりも、ずっと確かな光が宿っていた。




