第3話 追跡する二人
夕暮れが黒い夜へ沈みゆく荒野を、二つの影が足早に進んでいた。
帝都近郊の冷たい夜風が、大柄な男のくすんだ青髪を揺らし、その隣を歩く女の黒髪を撫でていく。
二人の視線の先には、巨大な墓標のようにそびえ立つ古城の輪郭が、闇の中に浮かび上がっていた。
「だから、肉なんて食べてる場合じゃなかったのよ」
エステルが前を見据えたまま、呆れたように吐き捨てた。
後ろで束ねた黒髪が風に流され、腰に巻いた革鞭の金具が、歩みに合わせて小さく鳴っていた。
「腹が減ってたら、助けられるものも助けられねえだろ」
ボレスは肩に担いだ重い片手斧を揺らしながら、悪びれずに返した。
額に落ちかかった青髪を、太い指で無造作に掻き上げる。
「その理屈で助けが遅れたら、あんたを先に縛るわ」
「その鞭でか? 風まで乗せるのは勘弁してくれよ」
軽口を叩き合ってはいるが、エステルの歩みは本気で急いでいたし、ボレスの眼光も周囲の闇を油断なく探っていた。
◇
やがて、二人は古城の入り口へとたどり着いた。
重い木扉は閉じていた。
だが、長い年月で歪んだ扉は完全には噛み合わず、指が入るほどの隙間を残している。
エステルは隙間へ歩み寄り、扉の縁へ目を凝らした。
ささくれ立った木の棘に、細い赤い繊維が絡みついていた。
酒場で見た、あの深紅の外套と同じ色だった。
「入ったわね」
ボレスが扉へ肩を当てた。
長年歪んでいた板が軋み、重い扉がゆっくりと開いた。
舞い上がった埃の下には、新しい小さな靴跡が一人分だけ、奥へ続いていた。
「それも、一人で」
「まだ間に合うといいがな」
先ほどまでの軽口はすっかり消え失せ、ボレスは短く応じた。
斧を握る太い手には、すでに力がこもっていた。
二人は古城の内部へと足を踏み入れた。
黴と冷気に満ちた空間。
だが、彼らの目は恐怖に怯える少女のそれとは違う。
エステルは足を踏み入れるや、天井の亀裂と瓦礫の山を一瞥した。
魔物の姿を探すより先に、退路と足場を確かめる視線だった。
淀んだ空気の向こうで、魔力の微かな揺らぎが彼女の指先をかすめた。
ボレスは彼女の半歩前に立ち、片手斧を下げたまま足音を殺して進んだ。
己の巨体が盾になるよう通路の幅を計算し、不用意に壁に触れて音を立てることなど決してしない。
少し進んだ廊下の中ほどで、ボレスが足を止めた。
「こいつは……」
目の前の石床が不自然に隆起し、そこには錆びた剣と共に砕け散った骸骨兵の残骸が散乱していた。
壁面には風術で抉られた深い溝が刻まれ、周囲には崩れた石材が散らばっている。
「嬢ちゃん、やるじゃねえか。骸骨兵を一人で片づけたのか」
ボレスが感心したように無精髭の顎を撫でるが、エステルの視線は、背後の抉り取られた石壁に向いていた。
「倒したのは事実ね。でも、威力が強すぎる。音で魔物を呼んで、自分で足場まで悪くしてるわ」
エステルは事実だけを淡々と口にし、さらに奥へと進んだ。
やがて、今度は焦げた匂いが鼻を突いた。
壁に掛かっていた古いタペストリーの端は焼け落ち、今は黒く燻っていた。
その真下の石床だけが、不自然に水で濡れている。
「火を使ったのね。この狭さで」
エステルが眉をひそめると、ボレスが床の濡れた跡をつま先で軽く叩いた。
「でも、ちゃんと水で消してる。パニックになってたにしちゃ、よくやってる方じゃねえか?」
「ええ。判断は遅いけど、立て直そうとはしてるわ」
だが、次にエステルが見つけたものは、二人の緊張感を一気に跳ね上げた。
「これ……」
石床の隅に落ちていたのは、手のひらほどの赤い布切れだった。
酒場で見た、あの赤い外套の端だ。
ボレスが鋭い声を出した。
「血は?」
エステルは布切れを裏返し、指先で縁を確かめた。
「付いてないわ。切られたのは外套だけみたい」
ボレスが小さく息を吐く。
「なら、まだ走れたか」
「ええ。でも問題は、走った方向よ」
エステルの視線が、暗く狭い下り階段へと向けられた。
「最悪。奥へ逃げたわ」
「追われたんだろ」
「追われた時ほど、奥へ行っちゃ駄目なのよ。逃げ道が消える」
舌打ちをして、エステルは階段へ足を掛けた。
「キシャァァァッ!」
その時、頭上の暗闇から赤い目を光らせた夜蝙蝠の群れが襲いかかってくる。
同時に、階段の先から新たな骸骨兵が這い上がってくる。
「悪いな、骨ども。こっちは夕飯前なんだ。長引かせる気はねえ」
ボレスが一歩前へ踏み出し、巨大な背中で狭い通路を完全に塞ぐ。
振り上げられた錆びた剣を斧の柄で弾き返し、そのまま踏み込んだ体重を乗せて、重い刃を骸骨兵の胸部へ叩き込む。
力任せの大振りではない。
的確に骨格の核を打ち抜く、重く短い一撃。
骸骨兵は壁に激突することなく、その場でガラガラと崩れ落ちる。
頭上の羽音へ向けて、エステルの鞭がしなりを上げる。
「そこよ!」
黒い革紐が弧を描く。
柄に仕込まれた風のファルサが淡く光り、鞭の軌道に鋭い風をまとわせる。
鞭の長さを超えて走った風圧が、夜蝙蝠を叩き落とす。
返す一振りで、鞭の先端が別の骸骨兵の足を絡め取り、引き倒す。
「そらよっ!」
倒れた骸骨兵の胸骨を、すかさずボレスのブーツが踏み砕く。
ボレスが正面の圧力を支え、エステルが空間全体を制御する。
二人の無駄のない連携の前に、魔物たちはほどなく沈黙した。
◇
さらに奥へ進むと、空気の質が急激に変わった。
古い客間へ続く廊下。
その扉の手前では、廊下の奥から迫っていた魔物たちが、見えない壁に阻まれたように足を止めていた。
ボレスが眉をひそめた。
「魔物が怖がってるな」
「中に、あれより厄介なものがいるってことよ」
エステルは閉ざされた扉の前に立ち、その隙間から漏れ出る赤黒い光を見つめた。
扉の縁には黒い影が蛇のように絡みつき、死者を縛る冷たい魔力が床から染み出している。
足元には、部屋の中へと続く小さな靴跡が残っていた。
「あの子、中にいるわ」
エステルが即座に断言した。
「生きてるか?」
「生きてる。だから儀式がまだ続いてるのよ」
ボレスは片手斧を構え、太い首を鳴らした。
「正面から行くか?」
「じわじわ開けたら、影に足を取られる。一息に潰して。中の拘束は私が切るわ」
「上品な侵入だな」
ボレスは口角を上げると、大きく息を吸い込み、片手斧を握る腕に力を込めた。
斧の刃が扉の芯を食い破る。
耐えきれなくなった木材が悲鳴を上げ、内側へ弾け飛ぶ。
風の術ではない。
重い片手斧と、ボレス自身の膂力が、黒い影の抵抗ごと分厚い木扉を打ち砕いたのだ。
◇
部屋の中央では、赤い外套の少女が黒い影に手足を縛られ、床から吊り上げられていた。
膝はすでに石床を離れ、うつむいた顔にかかる亜麻色の髪が、赤黒い光の中で力なく揺れていた。
床には禍々しい魔法陣が赤黒く光り、その奥に立つ青白い顔の男が、驚愕に目を剥いていた。
「悪いな。その嬢ちゃん、俺たちが先に見つけた」
舞い散る木片を踏み越えて、ボレスが悠然と言い放つ。
すかさず、彼を追い越すようにエステルの鞭が空気を裂く。
「はっ!」
風をまとった革紐の先端が、少女を縛っていた影を寸分違わずに断ち切る。
「あっ……!」
床に落ちかけた少女の体を、ボレスが片腕で受け止める。
深紅の外套の裾が、大きく翻る。
エステルは床に転がっていた木杖を拾い上げ、エレナリアの手に押しつける。
「忘れ物よ。だから言ったでしょ。一人で来るなって」
エレナリアは、大きな腕に支えられながら、目の前に立つ二人を見上げた。
酒場にいた、青髪に片手斧の男と、黒髪に黒い鞭の女。
赤の他人でしかない自分を、危険な古城まで追って助けに来る理由など、何一つないはずの人たち。
「どうして……」
エレナリアの細い声が、石壁に吸い込まれた。
「話はあとだ」
ボレスは短く切り捨てた。
「下賤な冒険者風情が、我が儀式を邪魔するか!」
奥に立つ男が、憤怒の形相で叫んだ。
ボレスはエレナリアを背後へ庇うように立ち塞がる。
「下賤で結構。こっちは金と飯のために働く冒険者だ」
男が指先を振るうと、床の影が刃となって襲いかかってくる。
ボレスが片手斧の広い腹でそれを受け止める。
金属が悲鳴を上げるような音と共に、強烈な衝撃がボレスの腕を震わせる。
影を完全に断ち切ることはできないが、斧の腹と体重で勢いを殺す。
「そこっ!」
隙を突き、エステルの鞭が伸びる。
風をまとった先端が、男の頬と、男と床の魔法陣を繋ぐ黒い糸を、まとめて切り裂く。
男の輪郭が大きく揺らぐ。
傷口から漏れるのは、血ではなく黒い霧だった。
だが、崩れかけた輪郭は、すぐに元の形を取り戻す。
エステルは眉をひそめる。
「貴様……!」
男は憎々しげに呻くと、床の魔法陣を強く踏み鳴らす。
部屋の隅から影が爆発的に膨れ上がり、赤黒い霧が視界を覆い尽くす。
扉の外にいた魔物の群れが、霧に呼応して狂ったように押し寄せてくる。
「今宵は引こう。だが、その娘の血は必ず我がものにする」
霧の奥で、男の姿が空間に溶けるように消えていく。
「ヴァルキエルの娘よ。逃げた先で震えているがいい。その血の匂いは、どこまでも追う」
不気味な声が反響して消えた。
魔法陣は不安定に光り続け、魔物の足音がすぐそこまで迫っていた。
「追うか?」
ボレスが斧を構え直して問う。
エステルは即座に首を振った。
「この子が先。あいつは後よ」
エレナリアは強がって「私は、大丈夫です」と言おうとしたが、声が出るより先に膝から崩れ落ちそうになった。
本人が思っている以上に、儀式で魔力と体力を奪われていたのだ。
「大丈夫って顔じゃねえな」
ボレスが斧を腰に戻し、彼女の肩をがっしりと支える。
「……申し訳、ありません」
「謝るのは後。歩ける?」
エステルの問いに、エレナリアは無言で頷いた。
「よし、移動するぞ」
三人は迫る魔物の群れを避け、来た道を戻りながら、脇道に崩れた礼拝堂跡へと身を滑り込ませた。
半ば崩れ落ちた石壁と倒れた長椅子が、外からの視線を遮っている。
完全に安全とは言えないが、少なくとも先ほどの客間よりはましだった。
◇
エレナリアは冷たい石床に座り込んだ。
引き裂かれた赤い外套を握りしめる手は、埃と石粉にまみれ、まだかすかに震えていた。
乱れた亜麻色の髪が、汗ばんだ頬に幾筋も貼りついている。
エステルは腕を組み、少女の前に立っていた。
エレナリアの胸を占めていたのは、助かった安堵よりも、自分への憤りだった。
碧色の瞳が揺れ、堪えていた涙がひと粒だけこぼれ落ちた。
それでも、エレナリアは嗚咽を飲み込み、震える指へ無理やり力を込めた。
視線を床へ落とし、絞り出すように言った。
「……一人で、何とかできるつもりでした」
「そのつもりがあったのは分かったわ」
エステルの声は厳しかった。
「けれど、少なくとも今のあんたは、一人で古城に入っていい段階じゃない」
エレナリアは唇を噛んだ。
反論できる言葉はなかった。
「まあ、骸骨兵を倒して、あそこまで一人で辿り着いたんだ。根性だけはある」
ボレスが横から口を挟む。
「褒めてるの、それ?」
「半分くらいはな」
妙に呑気なやり取りに、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
エレナリアの強張っていた肩の力が、ふっと抜ける。
「私はエステル。あんたが心配で追ってきたけど、どうやら正解だったみたいね」
ボレスは片手斧を壁際へ立てかけ、へたり込む少女を見やった。
「ボレスだ。腹が減った。休むなら早めにしてくれ」
「あんたねえ……さっき肉を食べたばかりでしょうが」
エステルの溜め息に、エレナリアは小さく瞬きをした。
「今はここで息を整えるわよ」
エステルは、礼拝堂の外へ続く暗い通路へ目を向けた。
「その後で、あんたが何を探しているのか。それから、あの男をどうするのかを聞かせてもらうわ」
エレナリアは、強く握りしめていた外套から、ようやく指を離した。
冷え切った古城の空気の中で、その言葉だけが、かすかな灯火のように胸に残った。




