第2話 古城の罠
ぎい……と、重く軋む音を立てて、古城の扉が閉まった。
途端に、外の風の音がぷつりと途絶えた。
エレナリアを包み込んだのは、陽光を一切拒絶したような、底冷えする闇だった。
肺の奥まで侵食してくるような、濃密な黴の匂い。
足元に広がるのは、ひび割れ、黒ずんだ古い石床だった。
壁には錆び付いた燭台が等間隔に並び、天井からは破れたタペストリーが首吊り縄のように垂れ下がっていた。
風もないのに、廊下の隅に張られた蜘蛛の巣が微かに揺れていた。
(大丈夫……私は、やれます)
エレナリアは震える指先で木杖を強く握り直すと、冷たい空気に滲むように広がる魔物の気配を辿って、一歩、また一歩と奥へ進んでいった。
『実戦経験は?』
酒場でエステルに投げかけられた言葉が、耳の奥で蘇った。
エレナリアはそれを振り払うように、古文書で学んだ魔物の分類や対処法を頭の中で反芻した。
基礎術式は体に叩き込まれている。
知識だけなら、誰にも劣らないはずだった。
自分が積み上げてきたものを信じればいいのだと、エレナリアは自分に言い聞かせた。
その時だった。
カツ……カツ……。
暗い廊下の奥から、硬いものが石床を擦る音が聞こえてきた。
エレナリアは息を潜め、壁の陰に身を寄せた。
やがて、微かな燐光と共に闇から姿を現したのは、錆びた剣を引きずる古い兵士の成れの果て――骸骨兵だった。
(あれが……)
エレナリアの足が、一瞬止まった。
本で見た挿絵とは違う。
空洞の眼窩に宿るどす黒い光、骨と骨が擦れ合う生々しい音。
そして何より、命を刈り取るためだけにそこにある、錆びた剣の禍々しい気配が、容赦なく彼女の本能を叩いた。
だが、エレナリアは逃げなかった。
ヴァルキエル家の娘としての矜持が、恐怖で竦む足を床に縫い付けた。
目を凝らすと、胸骨の奥で、どす黒い燐光が脈打っているのが見えた。
古文書に記されていた、骸骨兵を動かす怨念の核だ。
(足場を崩して、核を撃ち抜く。土術から風術へ――)
エレナリアは震える唇を噛み締め、杖を構えて小さく術式を紡いだ。
「……崩れよ」
杖の先が淡く光った瞬間、骸骨兵の足元の石床が隆起した。
骨が軋み、錆びた剣が石床を引っ掻く。
バランスを崩した骸骨兵の体が大きく傾いた。
(今……!)
間髪入れず、エレナリアは風術の呪文を唱えた。
杖から放たれた目に見えない風の衝撃が、骸骨兵の胸部――怨念の核を正確に撃ち抜いた。
ガラガラと音を立てて、魔物はただの骨の山へと崩れ落ちた。
「……できた」
エレナリアは安堵の息を吐き、張り詰めていた肩の力を抜いた。
だが、その安堵は一秒も続かなかった。
ズドォォン!
骸骨兵を砕いた風の衝撃は、勢いを残したまま背後の石壁を抉り取った。
轟音が廊下に響き渡る。
砕けた石材が床に散らばり、闇の奥で、何かが一斉に身じろぎする気配がした。
(あ……)
訓練場なら、的を壊しても叱られるだけで済んだ。
けれど、ここは魔物の巣だ。
大きな音を立てること自体が、自分の居場所を教える合図になる。
エレナリアは、悔しさに唇を噛んだ。
バサバサバサッ!
頭上の暗がりから、無数の不気味な羽音が聞こえた。
見上げると、赤い目をした夜蝙蝠の群れが、音に引き寄せられて天井から次々と舞い降りてきた。
さらに、廊下の奥からは、先ほどよりも多くの骨が擦れる音が近づいてきていた。
(一体ずつなら、倒せる……でも!)
エレナリアは杖を構え直したが、敵は上下と前後に散っている。
どこへ杖を向け、どの術を選ぶべきか、判断が遅れた。
「退いて……!」
エレナリアは咄嗟に火術を放ち、迫り来る夜蝙蝠の群れを追い払った。
しかし、その火の粉が壁に掛かっていた古いタペストリーに燃え移った。
「あっ……!」
古城の中で火災を起こせば、自分自身が煙に巻かれて死ぬ。
慌てて水術を唱えた。
燃え上がった炎は弱まったが、古い布の奥には、まだ赤い火種が残っていた。
次なる魔物との距離を取ろうと、エレナリアは後ろへ足を送った。
ガリッ。
「きゃっ……!」
足裏に転がった石片が、彼女の体勢を崩した。
先ほど、自分の術で砕いた壁の欠片だった。
整えられた訓練場の石畳ではない。
足元も、壁も、天井も、ここではすべてが敵になる。
エレナリアがそう気づいた時には、すでに遅かった。
横合いから迫った骸骨兵の錆びた剣が、赤い外套の端を切り裂いた。
赤い布切れが石床へ落ち、刃の生んだ冷気が肌を掠めた。
本物の死の恐怖が、エレナリアの心臓を鷲掴みにした。
(お父様……お兄様……!)
恐怖に震えながらも、彼女は泣き崩れたりはしなかった。
エレナリアは裂けた外套の縁を握りしめ、這いつくばりながら杖を構え直した。
入口側では、消し損ねたタペストリーの残り火が煙を噴き、その揺らめきの中で夜蝙蝠の影が幾重にも躍っていた。
揺らめく影の向こうに、骸骨兵の姿まで見えた。
開いている道は、一つしかない。
エレナリアは杖を支えに立ち上がり、暗く狭い階段を駆け下りた。
◇
荒い息を吐きながら階段を駆け下り、エレナリアはある部屋へと転がり込んだ。
ふと気づくと、背後から迫っていた足音と羽音が途絶えていた。
異常なほど、静かだった。
(どうして……魔物が追ってこないの……?)
違和感を覚えながらも、エレナリアは顔を上げた。
そこは、朽ち果てた古城の中にあって、不自然なほど整った古い客間だった。
埃を被った家具の奥で、中央のテーブルと椅子だけが妙に綺麗だった。
窓は分厚い板で塞がれ、一本の燭台だけが部屋を妖しく照らし出していた。
「おや。こんな刻限に、客人とは珍しい」
唐突に響いた穏やかな声に、エレナリアは弾かれたように杖を構えた。
影の中から現れたのは、古風で上質な貴族服を身に纏った男だった。
丁寧な物腰だが、その顔色は蝋のように青白く、生気が薄かった。
「あなたは……?」
「私は、この城に残された古い留守居のようなものですよ。この部屋の外は危険だ。ここには魔物も入ってこられない。しばらく休んでいくといい」
男の言葉どおり、開け放たれた扉の向こうには魔物たちの気配があったが、なぜかこの部屋へ入ってこようとはしなかった。
エレナリアは警戒を解かず、無言で彼を睨みつけた。
男は微かに目を細め、赤い外套の留め具へ視線を落とした。
そこには、ヴァルキエル家の紋章が小さく刻まれていた。
「その紋章……もしや、ヴァルキエル家の方かな?」
エレナリアの肩がびくりと跳ねた。
「どうして、私の家を……!」
「アレクサンダー卿と、レオン殿のことを探しているのだろう?」
初めて会うはずの男の口から、父と兄の名が出た。
「君の父上は、事件の少し前にも、この城を訪れていた。地下に残された古い術式を調べるためにね」
エレナリアの呼吸が止まった。
父が古い術式を調べていたことは、屋敷のごく一部の者しか知らないはずだった。
警戒が、ほんのわずかに揺らいだ。
「少し前に、お二人に関わりのある物が、この城へ持ち込まれたのですよ。彼らの痕跡が、ここに残されている」
その言葉に、エレナリアの心が大きく揺れた。
怪しい男だということは分かっていた。
それでも、父と兄につながる手がかりを示された瞬間、手がかりを逃したくないという焦りが、警戒を上回った。
「それは……本当ですか?」
「ええ。さあ、こちらへ。まずは落ち着きなさい」
男が、部屋の中央へ誘導するように手を差し伸べた。
エレナリアが一歩、部屋の奥へと踏み込んだ瞬間だった。
カッ……!
足元の床石に描かれていた、古い魔法陣が赤黒い光を放った。
「え……?」
バタンッ! と、背後の扉がひとりでに閉ざされた。
同時に、窓を塞ぐ板の隙間から伸びた黒い影が蛇のように蠢き、エレナリアの手首と足首に絡みついた。
「あっ……!」
四肢を別々の方向へ引かれ、エレナリアは魔法陣の中央へ膝をつかされた。
手から木杖が弾き飛ばされ、床の上を遠くまで転がっていった。
咄嗟に術式を紡ごうとした。
しかし、魔法陣から流れ込む禍々しい魔力がエレナリア自身の魔力を乱し、組み上げかけた術式を内側から崩していった。
「……愚かな。自ら檻に入ってくるとは」
男の声から、先ほどまでの丁寧な響きが消えた。
青白い肌の下で、黒い血管が不気味に脈打っていた。
薄い唇が歪み、その奥に、獣じみた牙が覗いた。
だが、そこに感じたのは、吸血鬼の気配だけではなかった。
床の魔法陣から立ち上る冷たい魔力。
死者を縛り、生者を糧にする、歪んだ術式の気配。
「若い血だけでも十分だったが、ヴァルキエルの名を持つ娘とはな。今宵、ようやくこの朽ちた身を捨てられる」
男は満足げに魔法陣を見下ろした。
その中心では、エレナリアが黒い影に縫い止められていた。
「君は幸運だ。私の復活の礎になれるのだから」
足元から這い上がってくるような恐怖。
だが、エレナリアは碧色の瞳に強い光を宿し、男を睨み返した。
「私は……あなたの供物になるために、ここへ来たのではありません……!」
だが、意地だけで拘束が解けるわけではない。
影の拘束はギリギリと締め付けを増し、床に転がった杖には到底手が届かなかった。
男が両手を広げると、床の魔法陣がさらに強い光を放ち始めた。
その光の中で、エレナリアの赤い外套が絶望の色に染まっていった。
(誰か……!)
影の締めつけに息が詰まり、視界が暗く滲む中、遠くで、重い斧が石を砕くような音と、空気を裂く鞭の音が聞こえた気がした。
だが、それが現実の音なのか、恐怖が見せた幻聴なのか、エレナリアには分からなかった。
「さあ、始めよう。君の血で、私は夜を取り戻す」
男の冷たい宣言と共に、部屋は闇に沈み、赤黒い光だけが脈打った。




