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第1話 赤い外套の少女

最初に聞こえたのは、窓硝子の割れる音だった。

続いて、獣とも人ともつかない咆哮が、ヴァルキエル家の屋敷を震わせた。


「エレナ、起きなさい!」

寝台から身を起こすより早く、扉が開いた。

母エミリアが部屋へ駆け込んでくる。

夜着の上に羽織った外套は裂け、白い頬には血が飛んでいた。


「お母様……?」

「話は後です。これを持って、私についてきなさい」

押しつけられたのは、両手に収まるほどの小さな木箱だった。

ずしりと重い。

中で金属同士の触れ合う音がした。


廊下へ出た途端、エレナリアは息を呑んだ。


壁の燭台が倒れ、絨毯へ火が燃え移っている。

使用人たちの悲鳴。

その向こうを、腐った肉を引きずるような人影が横切った。


死人だった。


目のない顔をこちらへ向け、錆びた剣を振り上げる。


「伏せろ!」

鋭い声と同時に、銀色の刃が走った。

死人の首が宙を舞い、燃える絨毯の上へ転がる。


「お兄様!」

レオンは剣についた黒い血を払い、エレナリアへ駆け寄った。

額から血を流していたが、その表情はいつもと変わらず穏やかだった。


「無事だったか」

「お父様は? お父様はどこにいるのですか?」


レオンの表情が、一瞬だけ固まった。

屋敷の奥――父の研究棟がある方角から、赤黒い光が夜空へ立ち昇っていた。


「今は父上のことを考えるな」

「でも……!」

「エレナ」

レオンの声が低くなる。

「母上と一緒に、地下通路から逃げるんだ」


階段の下から、金属を引きずる音が近づいてくる。

一つではない。

いくつもの足音が、暗闇の中から這い上がってきていた。


レオンは剣を握り直し、階段の前へ立った。


「お兄様も一緒に――」

「すぐに追いつく」


それが嘘だと、エレナリアにも分かった。

エミリアが地下通路の扉を開ける。

冷たい夜気が、暗い穴の奥から吹き上がってきた。


「行きなさい、エレナ」

「嫌です。お兄様を置いてなんて――」

レオンは振り返り、泣きそうな妹へ微笑んだ。

「お前が逃げ切るまでは、一歩も通さない」


その言葉を最後に、エミリアの手がエレナリアを地下通路へと押し込んだ。

だが、エミリア自身は地下通路へ入ってこなかった。


「お母様……?」

「走りなさい、エレナ。決して振り返ってはいけません」


重い扉が閉じる寸前、エレナリアが見たのは、扉の向こうに残る母の背中と、そのさらに奥――押し寄せる死人の群れの前に、ただ一人立つ兄の姿だった。


剣戟の音。

獣の咆哮。

そして、屋敷全体を揺らすような轟音。


エレナリアは木箱を胸に抱き、振り返らずに走った。


それが、ヴァルキエル家で過ごした最後の夜になった。



あの夜から、半月余りが過ぎていた。


酸えたエールと獣の脂、それに安葉巻の煙が、帝都の冒険者酒場の天井に重く淀んでいた。


真昼間から入り浸る冒険者や傭兵たちの間には、普段以上の熱気と報酬の匂いが立ち込めている。


木製のジョッキが乱暴に打ち鳴らされる音を縫うように、きな臭い噂話がそこかしこから漏れ聞こえていた。


「最近、どうにも帝都近郊の魔物どもが騒がしくなりやがった。南の村がまたやられたって話だぜ」

「おかげで討伐依頼はうなぎ登りさ。だがよ……」


相棒の男は、周囲を気にするように声を潜めた。


「例の、あの貴族家の件も魔物の仕業だって噂だろ」


その言葉に、周囲の喧騒がわずかに温度を下げた。


ヴァルキエル子爵家壊滅事件。


帝都に屋敷を構える古い子爵家が、一夜にして滅んだ。


使用人は殺され、当主夫妻も死亡したと発表された。

跡取りの嫡男と末娘は行方不明。

屋敷には大量の血痕が残されていたが、二人の遺体は見つかっていない。


酒場の酔客たちが声を潜めるには、十分すぎるほど不気味な事件だった。


「遺体がないってんなら、生きてるってことじゃねえのか?」

噂話の輪から少し離れたテーブルで、大柄な男が骨付き肉に齧りつきながら呑気に言った。


彼の名はボレス。

くすんだ青髪を無造作に後ろへ流し、使い込まれた片手斧を腰に提げた大柄な冒険者だ。

無精髭のせいでだらしなく見えるが、分厚い肩と太い腕は、彼がただの酔客ではないことを物語っていた。


「そんな簡単な話じゃないでしょ。使用人まで皆殺しにされているのよ。生き残れる方がおかしいわ」

ボレスの向かいで、呆れたようにため息をついたのはエステルだ。

手入れの行き届いた革鎧に身を包み、腰には、風の力を宿すファルサを仕込んだ、しなやかな鞭を巻いている。

黒髪は邪魔にならないよう後ろで束ねられ、黒い瞳には、場数を踏んだ者だけが持つ落ち着きがあった。


「貴族の家ってのも大変だなあ。俺みたいにその日暮らしが一番気楽でいいぜ」

「……あなたも、元はそっち側の人間でしょうが」

「だから大変だって言ってんだよ。ほら、肉食うか?」

差し出された脂ぎった肉を、エステルは手で払いのけた。



ぎぃ、と。

油の切れた蝶番が鳴り、酒場の重い木扉が開いた。

吹き込んだ外の風が、淀んだ空気を一瞬だけ押し流す。


入り口に立っていたのは、深紅の外套をまとい、フードを深く被った小柄な影だった。


上質な生地で仕立てられた外套は、酒場のむさ苦しい空気には到底そぐわない。

だが、その裾には乾いた土がこびりつき、磨かれていたはずのブーツにも長く歩いた跡が残っていた。

少なくとも、安全な馬車で運ばれてきた令嬢ではない。


フードの奥から、亜麻色の髪がわずかにこぼれ落ちる。

手には、身の丈に合わない粗削りな木杖が握られていた。

少女は酒と煙の匂いに一瞬だけ息を詰めた。

それでも、踵を返さなかった。


値踏みするような男たちの視線を真っ向から受けながら、背筋を伸ばしてカウンターへと歩み寄る。

ブーツの踵が床を叩く音が、奇妙に大きく響いた。


「……古城を調べるため、護衛をお願いしたいのです」


凜とした、しかしどこか震えを孕んだ声だった。

フードの奥で、碧色の瞳がマスターを真っ直ぐに見据えている。


帝都からそう遠くない場所にそびえる、二百年前に放棄された廃城。

今では魔物の巣窟として知られ、駆け出しの冒険者が決して一人では近づかない場所である。


酒場のマスターは、グラスを拭く手を止め、片眉を上げた。

「嬢ちゃん、身元も保証人もねえ子供の依頼は掲示板にゃ出せねえ。家に帰って昼寝でもしてな」


どっと、酒場に下品な笑い声が弾けた。


若すぎる。

怪しい。

そして何より、素性の知れない子供の家出に付き合って、命を落とす危険のある古城へ向かう物好きなど、この場所にはいない。


嘲笑の波を浴びて、少女の肩がびくりと跳ねた。

しかし、彼女は逃げ出さなかった。

胸元を握りしめ、震える声を無理やり押し出す。


「身元なら明かせます! 私は、エレナリア・ヴァルキエルです!」


その名が酒場に響き渡った瞬間、男たちの笑い声はさらに大きくなった。


「おいおい、ヴァルキエル家の末娘は死んだんじゃなかったのか?」

「自称にも程があるぜ。本物の子爵令嬢が、一人でこんな油臭い酒場に来るかよ」

「仮に本物だったとしても、あんな呪われた事件に関わりたくねえよ」


エレナリアは必死に声を張り上げた。

「母が残した手がかりが、あの古城を示していました。そこに、家族に何が起きたのかを知る手がかりが残っているかもしれない……」


震える息を押し込み、顔を上げる。

「私にはもうそれしかないんです。足手まといにはなりません。術も使えます。古い文書だって読めます。ですから、どうか――」


「護衛なら、俺が受けてやらなくもねえよ。なぁ、嬢ちゃん?」

酒臭い息を吐きながら、ひとりの男が席を立った。


男は値踏みするようにエレナリアを眺めると、わざとらしく手を伸ばした。

「本当にヴァルキエル家のお嬢様だってんなら、顔くらい見せてもらわねえとな」

薄汚れた指先が、赤い外套のフードへ伸びてくる。


エレナリアの肩が、びくりと跳ねた。

反射的に顎を引き、片手でフードの縁を押さえる。

同時に、木杖を握る手へ力がこもった。

エレナリアは木杖の石突きを床へ打ちつけた。

杖の先に、小さな風の術式が組み上がる。


男の手首だけを弾けばいい。

だが、人の多い酒場で威力を絞ろうとした、その一拍が遅れた。


乾いた音が響く。


「そこまでよ」

間に割って入ったエステルが、鞭の柄で男の手首を弾いていた。


「依頼を受ける気があるなら、まず名乗りなさい。客の外套に勝手に触るような手で護衛なんて、笑わせるわね」

「何しやがる」

男の顔から笑みが消える。


だが、エステルは一歩も退かなかった。

腰に巻かれた鞭へ軽く指をかけ、冷えた目で男を見上げる。


「ここは酒場よ。獣の檻じゃないの。次にその手を伸ばしたら、柱に縛るわ」


男が何か言い返そうとしたとき、背後で椅子が軋んだ。

ボレスが骨付き肉を持ったまま、空いた手を斧の柄へ掛けている。


男は二人を見比べ、舌打ちして引き下がった。

周囲の笑い声も、いつの間にか小さくなっている。


エステルは肩をすくめ、背後のエレナリアへ視線を向けた。

「分かったでしょ。こういう場所で、あんたが一人で依頼を出すっていうのは、こういうことなの」

「……」

「それで、実戦経験は?」

エステルが少女の前まで歩み寄る。

エステルの革鎧には、間近で見て初めて分かる細かな傷が、無数に刻まれていた。

本物の戦場を知る者の装備だった。


エレナリアは木杖を握り直した。

震えを隠すように、柄へ掛けた指の位置をゆっくりと整える。

「……ありません」

声はわずかに震えていた。

それでも、エステルの黒い瞳から目をそらさなかった。


「魔物については学びました。死霊術式の構造も、骸骨兵の核の位置も知っています。訓練も受けています。ですが、本物の魔物と戦ったことはありません」

「正直なのは結構」

エステルの視線が、エレナリアの杖へ落ちる。


「さっきの術式も、組み方そのものは悪くなかった。でも、判断が一拍遅い」

エステルは男が引き下がった方向を顎で示した。

「魔物は、あんたが威力を調整し終えるまで待ってくれない。その一拍で死ぬわよ」

エステルは少しだけ視線を下げ、短く息を吐いた。


「だから今日はやめなさい」

エステルは声を少しだけ和らげた。

「古城は、あんたが一人で入っていい場所じゃない。せめて、信用できる大人に相談してからにしなさい」

「……相談しました」


エレナリアの返事は静かだった。

「屋敷を調べた役人にも、父の知人にも、あの夜、屋敷を離れていた家人たちにも。ですが、誰も私の話を信じてくれませんでした」

杖を握る指に力がこもる。


「古城に父と兄の手がかりがあるかもしれない。私がここで待っている間に、その手がかりまで失われるかもしれません」

「だから一人でも行くっていうの?」

「はい」

エレナリアは迷わず答えた。


「無謀なのは分かっています。それでも、何もしないまま諦めることはできません」

エレナリアは深く一礼した。


「助けてくださったことには感謝します」

そう告げると、エレナリアはフードを被り直し、自分の足で酒場を出ていった。



バタン、と重い扉が閉まる。

酒場に、一瞬の重い沈黙が落ちた。


エステルは閉じた扉を見つめた。


――誰も私の話を信じてくれませんでした。


少女の声が、まだ耳に残っていた。


「死にに行くようなもんだな」


誰かがぽつりとこぼした。

だが、腰を上げる者は一人もいない。

すぐにまた、酒と金の話が空間を埋め尽くしていった。


エステルは腰の鞭へ手を掛けた。

「追うわよ」

「待て」


振り返ると、ボレスがまだ骨付き肉と格闘していた。

「何よ!」

「まだ肉が残ってる」

「……あんたねえ、あの子が死んでもいいの!?」

「冷めるだろ。美味い肉に失礼だ」


エステルが眉間を押さえて天を仰ぐ中、ボレスはまるで急ぐ様子もなく、残りの肉を平らげた。


指についた脂を舐め取ると、ボレスはどすんと片手斧を肩へ担ぎ上げた。


「よし、行くか」

「遅いのよ、馬鹿」

二人は足早に、赤い外套の少女が消えた扉へと向かった。



夕暮れの風が、帝都近郊の荒野を吹き抜けていく。


赤く染まった空の下、かつて街道を守るために築かれ、今では崩れかけた墓標のようにそびえ立つ古城の前に、エレナリアは一人立っていた。

冷たい風が、彼女の赤い外套をはためかせる。


周囲には、むせ返るような獣の臭いと、土の底から這い出してくるような魔物の気配が濃密に漂っていた。

握りしめた杖が、かすかに震えている。


父アレクサンダー。

優しかった母エミリア。

そして、誰よりも慕っていた兄レオン。


血に染まった屋敷の記憶がよみがえり、エレナリアは息を呑んで目を閉じた。


(お兄様……)


彼女は深く息を吸い込み、碧色の瞳を見開いた。

震える指先に力を込め、杖を強く握り直す。

「大丈夫です」

誰にともなく、自分自身に言い聞かせるように呟く。


「私は……ヴァルキエル家の者です」


エレナリアは木杖を小脇に抱え、古城の扉へ両手を掛けた。


ぎい、と、不気味な音を立てて、半ば崩れかけた扉が開いていく。


開いた隙間から冷気が流れ出した。

エレナリアは木杖を握り直し、一歩、暗闇の中へ足を踏み出した。


深く、冷たい闇が、赤い外套の少女を音もなく呑み込んでいった。

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