序文
ここに、編纂者ラトゥナ・ケートが記す。
神話の時代。
大破神ヴィヴァルタによって、世界は滅びの瀬戸際にあった。
大地は裂け、海は荒れ、空には昼夜の区別なく暗雲が垂れ込めた。
生き残った人々が、明日という言葉さえ信じられなくなった時、五人の英傑が立ち上がった。
後世に五英傑と呼ばれる者たちである。
長き戦いの末、五英傑は大破神ヴィヴァルタを討ち果たした。
災厄は退けられ、人々は再び地を耕し、家を建て、子を育てた。
神々と怪物が争った時代は終わり、人の時代が始まった。
少なくとも、後世へ伝えられた神話では、そう語られている。
しかし、五英傑にも滅ぼすことのできなかった存在があった。
屍神モルティヴァス。
死者を従え、朽ちた肉体を立ち上がらせ、生者の抱く死への恐怖と、失った者への未練につけ込む邪神。
肉体を破壊しても滅びず、魂を断とうとしても、死そのものの中へ逃れる。
五英傑は、その存在を世界から消し去ることを断念した。
代わりに、モルティヴァスをシケリウム島の地下深くへ封じた。
幾重もの術式を重ね、地上へ続く道を閉ざし、邪神の力を分けて封印したのである。
そして、その封印を見張る役目を、一つの家へ託した。
後に退魔の一族と呼ばれる、ヴァルキエル家である。
彼らの役目は、邪神と戦い、華々しい勝利を収めることではなかった。
封印の状態を確かめること。
死霊術の痕跡を見つけること。
地の底から漏れ出した力を、誰にも知られぬまま処理すること。
そして、封じられたものが二度と地上へ戻らぬよう、記録と使命を次の世代へ伝えることであった。
王が代わり、国が興り、やがて帝国が西世界に広大な版図を築いても、その役目は変わらなかった。
ヴァルキエル家の者たちが、民衆から英雄として称えられることもなかった。
彼らが務めを果たした日には、何も起こらなかったからである。
死者は墓の下で眠り、生者は朝を迎えた。
それこそが、彼らの戦いの成果だった。
だが、何も起こらない年月が続けば、人は危険の存在を忘れる。
屍神の名は、やがて神話を研究する者だけが知る古い言葉となった。
シケリウム島の封印も、帝国の限られた記録に残るのみとなった。
ヴァルキエル家の使命を知る者も、時代を経るごとに少なくなっていった。
それでも、家名と使命だけは受け継がれた。
古い鍵。
退魔の術式。
封印の位置を記した地図。
死霊と邪神について書き残された、膨大な古文書。
それらは人目を避けるように保管され、歴代の当主から次の当主へと引き渡された。
表向きのヴァルキエル家は、帝都に屋敷を構える古い子爵家にすぎなかった。
その屋敷の奥で、神話の時代から続く記録が読み継がれていることを、使用人の多くさえ知らなかった。
少なくとも、帝都は平穏に見えた。
街路には夜ごと灯りがともり、商人たちは明日の取引を語り、兵士たちは遠い国境の情勢を論じた。
死者が墓から立ち上がるなど、古びた怪談の中だけの出来事だと考えられていた。
封印は破られていない。
屍神は地の底で眠っている。
その役目を知るわずかな者たちも、そう信じていた。
時に、帝国歴203年。
千二百年を超えて守られてきた沈黙が、その夜、終わろうとしていた。
――編纂者ラトゥナ・ケート 識




