第9話 日輪を呑む澱
「道は、私たちで作ります」
その言葉が終わるより早く、巨大スライムの触手が高く持ち上がった。
エレナリアは視線を走らせる。
崩れた橋の下に、まだ折れずに残っている石柱。
足元に散らばる平たい石材。
かろうじて突き出している橋桁。
そして、触手が振り下ろされてから、次に持ち上がるまでの、わずかな間。
「エステルさん。私が足場を作ります。先に渡って、向こうから風で支えてください」「あなたはどうするの?」
鞭を構え直しながら、エステルが聞き返す。
「あとから続きます。排水機構を動かすなら、私より力があって、風のファルサも使えるエステルさんの方が確実です」
「……」
エステルは一瞬だけ、エレナリアの顔を見た。
エレナリアの碧色の瞳に迷いはない。
無謀に賭けているのではなく、使えるものを見極めた上での判断だ。
「いいわ。一気に決めるわよ」
エレナリアは杖の石突を石床へ突き立てた。
土術。
崩れた橋の下、黒く淀んだ水面を割って、石柱が二本、残された橋桁の高さまで隆起する。
続けて、足元の平たい石材を術で少しずつ滑らせ、石柱と残った橋桁の間へ渡した。
出来上がったのは、橋と呼べるものではなかった。
高さの揃わない、歪んだ飛び石の列。
石材の端は、石柱へわずかに載っているだけ。
だが、駆け抜ける間だけ保てばいい。
触手が振り下ろされた。
崩れた橋の残骸を叩き、白濁した泥の飛沫が扇状に飛び散る。
エレナリアは杖を返し、石床の一部を低い壁として隆起させた。
泥の飛沫が壁へ叩きつけられ、石の表面に亀裂が走る。
長くは保たない。
「エステルさん、今です!」
エステルが走り出した。
打った膝を庇いながら、歪んだ飛び石を一つ、二つと蹴っていく。
最後の一枚を蹴ると同時に、風のファルサが淡く光った。
風が身体を押し上げ、エステルは足りない距離を跳躍で埋める。
着地。
その瞬間、膝へ激痛が走った。
片膝をつきかけ、エステルはとっさに鞭を橋桁へ巻きつけて身体を支える。
歯を食いしばり、すぐに顔を上げた。
「エレナ、来なさい!」
エステルは鞭を橋桁へ固定したまま、空いた手を前へかざした。
風が、飛び石の上へ流れ込む。
足場そのものを支える力はない。
だが、渡る者の跳躍と姿勢を支えることは、できる。
水槽では、先ほど叩きつけられた触手が、泥を引きずりながら再び持ち上がり始めていた。
エレナリアは外套の裾をたくし上げ、最初の一枚へ足を掛けた。
◇
エレナリアが足場の中ほどへ達した、その時だった。
瓦礫の間で、錆びた鎧が軋んだ。
腐敗騎士の兜が、ぎこちなく巡る。
その暗い眼窩の先にあるのは――足場を渡る、小さな背中。
錆びた長剣が振り上げられた。
「よそ見してんじゃねえよ」
横合いから、ボレスが巨体ごと腐敗騎士へぶつかった。
体当たりを受けた騎士が、外周通路の壁へ激突する。
崩れかけた石壁が砕け、瓦礫が鎧の上へ降り注いだ。
「お前の相手は、まだ俺だ」
ボレスは脇腹から血を流しながら、騎士の盾へ片手斧を押しつけた。
騎士が長剣を振ろうとする。
ボレスは斧の腹で兜を殴りつけ、返す動きで斧頭を盾の縁へ引っかけた。
力任せに捻り、騎士の体勢を崩す。
そのまま騎士の身体を、盾ごと崩れた壁際の瓦礫へ深く押し込んだ。
それでも、鎧の継ぎ目では白濁した粘液が脈打っている。
騎士はなおも長剣を振り上げようとし、鎧を激しく軋ませた。
ボレスは全体重を預け、騎士を壁へ押さえ込む。
脇腹の傷が開き、石床へ新しい血が落ちた。
「ボレスさん!」
足場の上で、エレナリアが振り返ろうとする。
「行け!」
その叫びに背中を押され、エレナリアは最後の足場を強く蹴り、操作室側の通路へ向かって身を投げ出した。
踏み切った石材が傾き、水槽へ滑り落ちていく。
エステルの風が、足りない距離を補った。
だが、エレナリアには空中で姿勢を整える余裕がない。
靴底が操作室側の通路を捉えたものの、勢いを殺し切れなかった。
エレナリアは杖を胸元へ抱え込み、肩から石床へ倒れ込んで一度転がった。
「大丈夫?」
「な、なんとか……」
打ちつけた肩がじんと痛んだが、胸元の杖は無事だった。
肩を押さえる暇もなく、エレナリアは急いで身を起こした。
直後、持ち上がっていた触手が、仮設の足場へ叩きつけられた。
石柱が乾いた音を立てて折れ、平たい石材と橋桁の一部が、次々と主聖水槽へ落ちていく。
操作室側に、エレナリアとエステル。
反対側に、騎士を押さえるボレス。
三人をつないでいた仮設の道は、完全に失われた。
対岸では、斧と長剣がぶつかる音が、なお続いていた。
まだ、戦っている。
エレナリアは唇を噛み、操作室へ向き直った。
◇
操作室の中は、埃と錆の臭いで満ちていた。
部屋の中央に、鉄製の巨大な操作桿が突き立っている。
主聖水槽の緊急排水弁へつながる、最後の仕掛けだった。
エステルが両手で操作桿をつかみ、体重を後ろへかけて引いた。
だが、錆びついた鉄の軸は、びくともしない。
さらに踏ん張ろうと膝へ力を込めた瞬間、着地で打った箇所に鋭い痛みが走り、エステルの顔が歪んだ。
「錆びついてる……!」
「待ってください」
エレナリアは操作桿の根元へ屈み込み、目を凝らした。
錆だけではない。
操作桿を支える石の基部が、長い年月でわずかに沈んでいる。
その歪みで、鉄の軸そのものが噛み込んでいるのだ。
「基部が沈んで軸が噛んでいます……持ち上げます」
エレナリアは杖の先を基部へ向け、土術を組んだ。
大きく動かす必要はない。
指一本分。
それだけでいい。
沈んだ石が、ごり、と鈍い音を立てて持ち上がった。
噛み込んでいた軸がわずかに浮き、内部で錆の剥がれる音がする。
「エステルさん、今なら――」
「エレナ、伏せて!」
エレナリアが身を伏せる。
エステルは操作桿へ鞭を巻きつけ、両手で握り込んだ。
風のファルサが、強く光る。
「――はぁっ!」
膝の痛みごと、全身の力で引いた。
鞭の張力に風の力が重なり、分厚くこびりついた錆が弾け飛んだ。
長年固着していた機構が悲鳴を上げて動き出し、操作桿が一気に傾いた。
ズズズ……と、地下施設全体を揺らすような重い地鳴りが響き渡った。
主聖水槽の底、操作室側の壁面近く。
巨大な排水扉が、濁流を呑み込むように開かれた。
◇
轟音が、地下施設全体を揺らした。
主聖水槽の黒く濁った水が、渦を巻きながら排水口へと流れ始める。
巨大スライムが、身をよじった。
触手を水面へ伸ばし、水を吸い上げて身体を保とうとする。
だが、失われる量の方が、圧倒的に多かった。
触手の先端が、ぼろりと崩れる。
山のようだった巨体が、目に見えて低くなっていく。
白濁した身体が、支えを失って水槽の底へと崩れ落ちていった。
反対側の通路では、腐敗騎士の動きも鈍り始めていた。
関節の粘液の脈動が弱まり、長剣を振る力が失われていく。
ボレスを押し返していた膂力が、確かに衰えていた。
そして。
崩れゆく泥の中から、金色の光が現れた。
太陽のプーラ。
濁流の中でなお、その輝きは清らかだった。
だが、宝玉は渦を巻く濁流に揉まれ、排水口の方へと運ばれていく。
「流されます!」
「させないわ!」
エステルが操作室の外、水槽へ張り出した通路へ走り、鞭を構えた。
排水口は、操作室側の壁面に開いていた。
太陽のプーラが張り出した通路の真下をかすめ、濁流とともに排水口へ吸い込まれようとしている。
エステルは流される金色の光を追い、射程へ入る一瞬を待った。
――今。
エステルが、宝玉の進路へ向かって鞭を放つ。
革紐は宝玉へ打ちつけるのではなく、濁流の中へ沈み込み、泥と水の間を抜けて宝玉の下へ滑り込んだ。
同時に、風のファルサが下から宝玉を押し上げる。
金色の宝玉が、泥の表面へ浮かび上がった。
「上がりなさい……!」
エステルは、宝玉を下からすくい上げるように鞭を引いた。
太陽のプーラが濁流から抜け、弧を描いて操作室側へ飛ぶ。
エレナリアは杖を片手で掲げ、小さな風の術を放ち、飛来する宝玉の勢いを弱めた。
空いた手を差し出し、そっと受け止める。
掌に、温かさが広がった。
火傷するような熱ではない。
陽だまりに似た、穏やかな温度。
清らかな金色の光が、エレナリアの指の間から漏れていた。
◇
太陽のプーラを失った巨大スライムは、巨体をつなぎ止める力を失った。
その輪郭が崩れ、白濁した泥が水槽の底へ広がっていく。
だが、その残骸の一部が、びくりと蠢いた。
崩れながらも残った粘液が、反射のように寄り集まり、細い触手を形作る。
それが、張り出した通路に立つエレナリアへと伸びた。
「エレナ!」
エステルの声に、エレナリアは退かなかった。
脳裏にあるのは、管理室の銅板の記録。
太陽のプーラは、主聖水槽の水を清めるために、あそこへ安置されていた。
――なら、本来の使い方をするだけです。
エレナリアは太陽のプーラを、杖の先へそっと添えた。
組むのは、ヴァルキエル家で最初に教わった、基礎的な浄化の術式。
一杯の水を清める程度の、小さな術。
その術式に、太陽のプーラの光が重なった。
金色の光が、静かに広がっていく。
暖かな輝きが水槽全体を黄金色に染め、冷え切っていた地下の空気を、ほんのわずかに和らげた。
伸びかけていた触手が、光に触れる。
白濁した泥は、触れた端から粘つきを失った。
魔力が抜け落ち、形が崩れ、ただの濁った水へと戻っていく。
それらは静かに、排水口へと流れ去っていった。
反対側の通路でも、変化が起きていた。
腐敗騎士の関節から、白濁した粘液がぼたぼたと流れ落ちる。
長剣を握っていた指から、力が抜けた。
錆びた剣が、音を立てて石床へ落ちる。
古びた鎧は、ボレスの目の前で、ゆっくりと膝をついた。
そのまま、二度と動かなくなる。
割れた聖印の盾が、金色の光をわずかに照り返していた。
ボレスは斧を下ろし、動かなくなった騎士を見下ろした。
「……もう、休んでいいぜ」
それだけ言うと、ボレスは壁へ肩を預け、深く息を吐いた。
◇
排水の音が、次第に弱まっていく。
主聖水槽の水位は大きく下がり、やがて、流れは完全に止まった。
地下聖堂に、静寂が戻った。
エレナリアは太陽のプーラを大切に懐へ収めた。
「行きましょう。ボレスが待ってるわ」
エステルに促され、二人は反対回りの外周通路へ向かった。
崩れた橋へは戻れない。
二人は、巨大スライムの触手に塞がれていた外周通路を、時間をかけて反対側へ回り込んだ。
ボレスは、壁に背を預けて座り込んでいた。
二人の姿を見つけると、片手を軽く上げる。
「よう。派手にやったな」
「派手だったのはどっちよ。無茶しなさんな」
エステルの呆れたような声を聞きながら、エレナリアは駆け寄った。
太陽のプーラを確かめるより先に、鞄を開く。
商会で買った布、傷薬、包帯。
「ボレスさん、左脇腹の留め具を外してください。傷を診ます」
「おいおい、せっかく手に入れたお宝より、先に俺の手当てか?」
「当たり前です。早くしてください」
ボレスが苦笑しながら、左脇腹を覆う鎧の留め具を外した。
「少し沁みますよ」
エレナリアは水のファルサで細い清水の流れを生み出し、傷口に残った血と汚れを洗い流した。
清潔な布で水気を押さえてから傷薬を塗り、包帯を巻いていく。
「血を流しすぎです。あのままだったら、どうするつもりだったんですか」
「まあ、さすがに今回はしんどかった。嬢ちゃん、今日の晩飯は肉多めで頼む」
「まずは、晩ご飯までちゃんと歩けるか心配してください」
「肉の匂いがすりゃ、這ってでも行くさ」
エレナリアは眉をひそめ、返事の代わりに包帯の結び目をきゅっと締めた。
「まあ、口を動かす元気があるなら、大丈夫そうね」
エステルが壁へ寄りかかり、息を吐いた。
ボレスの手当てを終えると、今度はエステルへ向き直った。
「エステルさんも、膝を見せてください」
「私は平気よ。打っただけ――」
「跳んだ上に、あれだけ踏ん張った膝です。見せてください」
有無を言わせぬ口調に、エステルは小さく目を丸くし、それからボレスと顔を見合わせて、ふっと可笑しそうに笑った。
「笑い事ではありません」
「……はいはい。わかりました」
エレナリアは少しだけ口を尖らせながら、水筒の水で冷やした布を当て、丁寧に縛った。
「……ありがと」
エステルが小さく言う。
「どういたしまして」
◇
手当てを終えると、三人は来た道を引き返した。
管理室の前まで戻ると、沈殿槽を塞いだ石蓋の下から、まだ湿った音がかすかに響いていた。
「ここも、残したままにはできません」
エレナリアは石蓋の縁を塞いでいた土を一部だけ崩し、細い隙間を作った。
懐から太陽のプーラを取り出し、杖先へ添え、先ほどと同じ基礎浄化の術式を組む。
金色の光が、隙間から沈殿槽の内側へ流れ込んだ。
石蓋の下で、白い塊たちがぶくぶくと泡立った。
やがて蠢く音は止み、隙間から染み出したのは、粘りも淀んだ魔力も失った濁った水だけだった。
エレナリアは念のため、石蓋の縁を再び土で塞いだ。
術を解き、太陽のプーラを掌へ戻した。
仲間の手当ても、残していた後始末も終えた。
エレナリアは掌の太陽のプーラへ、改めて視線を落とした。
先ほどまで、あの巨体の中で心臓のように脈打っていた光は、今は穏やかに、静かに灯っている。
金色の光が、疲れ切った三人を、静かに照らしていた。




