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サンシャーラ神話物語 封印されし屍霊  作者: 宝田旗子
第2章 太陽のプーラ
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第9話 日輪を呑む澱

「道は、私たちで作ります」


その言葉が終わるより早く、巨大スライムの触手が高く持ち上がった。


エレナリアは視線を走らせる。

崩れた橋の下に、まだ折れずに残っている石柱。

足元に散らばる平たい石材。

かろうじて突き出している橋桁。

そして、触手が振り下ろされてから、次に持ち上がるまでの、わずかな間。


「エステルさん。私が足場を作ります。先に渡って、向こうから風で支えてください」「あなたはどうするの?」

鞭を構え直しながら、エステルが聞き返す。


「あとから続きます。排水機構を動かすなら、私より力があって、風のファルサも使えるエステルさんの方が確実です」

「……」


エステルは一瞬だけ、エレナリアの顔を見た。

エレナリアの碧色の瞳に迷いはない。

無謀に賭けているのではなく、使えるものを見極めた上での判断だ。

「いいわ。一気に決めるわよ」


エレナリアは杖の石突を石床へ突き立てた。


土術。


崩れた橋の下、黒く淀んだ水面を割って、石柱が二本、残された橋桁の高さまで隆起する。

続けて、足元の平たい石材を術で少しずつ滑らせ、石柱と残った橋桁の間へ渡した。


出来上がったのは、橋と呼べるものではなかった。

高さの揃わない、歪んだ飛び石の列。

石材の端は、石柱へわずかに載っているだけ。

だが、駆け抜ける間だけ保てばいい。


触手が振り下ろされた。

崩れた橋の残骸を叩き、白濁した泥の飛沫が扇状に飛び散る。


エレナリアは杖を返し、石床の一部を低い壁として隆起させた。

泥の飛沫が壁へ叩きつけられ、石の表面に亀裂が走る。

長くは保たない。


「エステルさん、今です!」


エステルが走り出した。

打った膝を庇いながら、歪んだ飛び石を一つ、二つと蹴っていく。


最後の一枚を蹴ると同時に、風のファルサが淡く光った。

風が身体を押し上げ、エステルは足りない距離を跳躍で埋める。

着地。

その瞬間、膝へ激痛が走った。


片膝をつきかけ、エステルはとっさに鞭を橋桁へ巻きつけて身体を支える。

歯を食いしばり、すぐに顔を上げた。

「エレナ、来なさい!」


エステルは鞭を橋桁へ固定したまま、空いた手を前へかざした。


風が、飛び石の上へ流れ込む。

足場そのものを支える力はない。

だが、渡る者の跳躍と姿勢を支えることは、できる。


水槽では、先ほど叩きつけられた触手が、泥を引きずりながら再び持ち上がり始めていた。


エレナリアは外套の裾をたくし上げ、最初の一枚へ足を掛けた。


エレナリアが足場の中ほどへ達した、その時だった。


瓦礫の間で、錆びた鎧が軋んだ。

腐敗騎士の兜が、ぎこちなく巡る。

その暗い眼窩の先にあるのは――足場を渡る、小さな背中。

錆びた長剣が振り上げられた。


「よそ見してんじゃねえよ」


横合いから、ボレスが巨体ごと腐敗騎士へぶつかった。

体当たりを受けた騎士が、外周通路の壁へ激突する。

崩れかけた石壁が砕け、瓦礫が鎧の上へ降り注いだ。


「お前の相手は、まだ俺だ」

ボレスは脇腹から血を流しながら、騎士の盾へ片手斧を押しつけた。

騎士が長剣を振ろうとする。


ボレスは斧の腹で兜を殴りつけ、返す動きで斧頭を盾の縁へ引っかけた。

力任せに捻り、騎士の体勢を崩す。

そのまま騎士の身体を、盾ごと崩れた壁際の瓦礫へ深く押し込んだ。


それでも、鎧の継ぎ目では白濁した粘液が脈打っている。

騎士はなおも長剣を振り上げようとし、鎧を激しく軋ませた。


ボレスは全体重を預け、騎士を壁へ押さえ込む。

脇腹の傷が開き、石床へ新しい血が落ちた。


「ボレスさん!」

足場の上で、エレナリアが振り返ろうとする。


「行け!」


その叫びに背中を押され、エレナリアは最後の足場を強く蹴り、操作室側の通路へ向かって身を投げ出した。


踏み切った石材が傾き、水槽へ滑り落ちていく。

エステルの風が、足りない距離を補った。

だが、エレナリアには空中で姿勢を整える余裕がない。


靴底が操作室側の通路を捉えたものの、勢いを殺し切れなかった。

エレナリアは杖を胸元へ抱え込み、肩から石床へ倒れ込んで一度転がった。


「大丈夫?」

「な、なんとか……」

打ちつけた肩がじんと痛んだが、胸元の杖は無事だった。


肩を押さえる暇もなく、エレナリアは急いで身を起こした。


直後、持ち上がっていた触手が、仮設の足場へ叩きつけられた。


石柱が乾いた音を立てて折れ、平たい石材と橋桁の一部が、次々と主聖水槽へ落ちていく。


操作室側に、エレナリアとエステル。

反対側に、騎士を押さえるボレス。


三人をつないでいた仮設の道は、完全に失われた。


対岸では、斧と長剣がぶつかる音が、なお続いていた。


まだ、戦っている。


エレナリアは唇を噛み、操作室へ向き直った。



操作室の中は、埃と錆の臭いで満ちていた。

部屋の中央に、鉄製の巨大な操作桿が突き立っている。

主聖水槽の緊急排水弁へつながる、最後の仕掛けだった。


エステルが両手で操作桿をつかみ、体重を後ろへかけて引いた。

だが、錆びついた鉄の軸は、びくともしない。


さらに踏ん張ろうと膝へ力を込めた瞬間、着地で打った箇所に鋭い痛みが走り、エステルの顔が歪んだ。


「錆びついてる……!」

「待ってください」


エレナリアは操作桿の根元へ屈み込み、目を凝らした。


錆だけではない。

操作桿を支える石の基部が、長い年月でわずかに沈んでいる。

その歪みで、鉄の軸そのものが噛み込んでいるのだ。


「基部が沈んで軸が噛んでいます……持ち上げます」

エレナリアは杖の先を基部へ向け、土術を組んだ。

大きく動かす必要はない。

指一本分。

それだけでいい。


沈んだ石が、ごり、と鈍い音を立てて持ち上がった。

噛み込んでいた軸がわずかに浮き、内部で錆の剥がれる音がする。


「エステルさん、今なら――」

「エレナ、伏せて!」


エレナリアが身を伏せる。

エステルは操作桿へ鞭を巻きつけ、両手で握り込んだ。

風のファルサが、強く光る。

「――はぁっ!」

膝の痛みごと、全身の力で引いた。


鞭の張力に風の力が重なり、分厚くこびりついた錆が弾け飛んだ。

長年固着していた機構が悲鳴を上げて動き出し、操作桿が一気に傾いた。


ズズズ……と、地下施設全体を揺らすような重い地鳴りが響き渡った。

主聖水槽の底、操作室側の壁面近く。

巨大な排水扉が、濁流を呑み込むように開かれた。



轟音が、地下施設全体を揺らした。

主聖水槽の黒く濁った水が、渦を巻きながら排水口へと流れ始める。


巨大スライムが、身をよじった。

触手を水面へ伸ばし、水を吸い上げて身体を保とうとする。

だが、失われる量の方が、圧倒的に多かった。


触手の先端が、ぼろりと崩れる。

山のようだった巨体が、目に見えて低くなっていく。

白濁した身体が、支えを失って水槽の底へと崩れ落ちていった。


反対側の通路では、腐敗騎士の動きも鈍り始めていた。

関節の粘液の脈動が弱まり、長剣を振る力が失われていく。

ボレスを押し返していた膂力が、確かに衰えていた。


そして。

崩れゆく泥の中から、金色の光が現れた。

太陽のプーラ。

濁流の中でなお、その輝きは清らかだった。

だが、宝玉は渦を巻く濁流に揉まれ、排水口の方へと運ばれていく。


「流されます!」

「させないわ!」


エステルが操作室の外、水槽へ張り出した通路へ走り、鞭を構えた。


排水口は、操作室側の壁面に開いていた。


太陽のプーラが張り出した通路の真下をかすめ、濁流とともに排水口へ吸い込まれようとしている。


エステルは流される金色の光を追い、射程へ入る一瞬を待った。


――今。

エステルが、宝玉の進路へ向かって鞭を放つ。


革紐は宝玉へ打ちつけるのではなく、濁流の中へ沈み込み、泥と水の間を抜けて宝玉の下へ滑り込んだ。

同時に、風のファルサが下から宝玉を押し上げる。


金色の宝玉が、泥の表面へ浮かび上がった。


「上がりなさい……!」

エステルは、宝玉を下からすくい上げるように鞭を引いた。


太陽のプーラが濁流から抜け、弧を描いて操作室側へ飛ぶ。


エレナリアは杖を片手で掲げ、小さな風の術を放ち、飛来する宝玉の勢いを弱めた。

空いた手を差し出し、そっと受け止める。


掌に、温かさが広がった。

火傷するような熱ではない。

陽だまりに似た、穏やかな温度。


清らかな金色の光が、エレナリアの指の間から漏れていた。



太陽のプーラを失った巨大スライムは、巨体をつなぎ止める力を失った。

その輪郭が崩れ、白濁した泥が水槽の底へ広がっていく。


だが、その残骸の一部が、びくりと蠢いた。

崩れながらも残った粘液が、反射のように寄り集まり、細い触手を形作る。


それが、張り出した通路に立つエレナリアへと伸びた。


「エレナ!」

エステルの声に、エレナリアは退かなかった。


脳裏にあるのは、管理室の銅板の記録。

太陽のプーラは、主聖水槽の水を清めるために、あそこへ安置されていた。


――なら、本来の使い方をするだけです。


エレナリアは太陽のプーラを、杖の先へそっと添えた。


組むのは、ヴァルキエル家で最初に教わった、基礎的な浄化の術式。

一杯の水を清める程度の、小さな術。

その術式に、太陽のプーラの光が重なった。


金色の光が、静かに広がっていく。

暖かな輝きが水槽全体を黄金色に染め、冷え切っていた地下の空気を、ほんのわずかに和らげた。


伸びかけていた触手が、光に触れる。

白濁した泥は、触れた端から粘つきを失った。


魔力が抜け落ち、形が崩れ、ただの濁った水へと戻っていく。

それらは静かに、排水口へと流れ去っていった。


反対側の通路でも、変化が起きていた。


腐敗騎士の関節から、白濁した粘液がぼたぼたと流れ落ちる。

長剣を握っていた指から、力が抜けた。


錆びた剣が、音を立てて石床へ落ちる。

古びた鎧は、ボレスの目の前で、ゆっくりと膝をついた。

そのまま、二度と動かなくなる。

割れた聖印の盾が、金色の光をわずかに照り返していた。


ボレスは斧を下ろし、動かなくなった騎士を見下ろした。


「……もう、休んでいいぜ」


それだけ言うと、ボレスは壁へ肩を預け、深く息を吐いた。



排水の音が、次第に弱まっていく。

主聖水槽の水位は大きく下がり、やがて、流れは完全に止まった。


地下聖堂に、静寂が戻った。


エレナリアは太陽のプーラを大切に懐へ収めた。

「行きましょう。ボレスが待ってるわ」

エステルに促され、二人は反対回りの外周通路へ向かった。


崩れた橋へは戻れない。

二人は、巨大スライムの触手に塞がれていた外周通路を、時間をかけて反対側へ回り込んだ。


ボレスは、壁に背を預けて座り込んでいた。

二人の姿を見つけると、片手を軽く上げる。

「よう。派手にやったな」

「派手だったのはどっちよ。無茶しなさんな」


エステルの呆れたような声を聞きながら、エレナリアは駆け寄った。

太陽のプーラを確かめるより先に、鞄を開く。


商会で買った布、傷薬、包帯。

「ボレスさん、左脇腹の留め具を外してください。傷を診ます」

「おいおい、せっかく手に入れたお宝より、先に俺の手当てか?」

「当たり前です。早くしてください」


ボレスが苦笑しながら、左脇腹を覆う鎧の留め具を外した。

「少し沁みますよ」

エレナリアは水のファルサで細い清水の流れを生み出し、傷口に残った血と汚れを洗い流した。

清潔な布で水気を押さえてから傷薬を塗り、包帯を巻いていく。


「血を流しすぎです。あのままだったら、どうするつもりだったんですか」

「まあ、さすがに今回はしんどかった。嬢ちゃん、今日の晩飯は肉多めで頼む」

「まずは、晩ご飯までちゃんと歩けるか心配してください」

「肉の匂いがすりゃ、這ってでも行くさ」

エレナリアは眉をひそめ、返事の代わりに包帯の結び目をきゅっと締めた。


「まあ、口を動かす元気があるなら、大丈夫そうね」

エステルが壁へ寄りかかり、息を吐いた。

ボレスの手当てを終えると、今度はエステルへ向き直った。


「エステルさんも、膝を見せてください」

「私は平気よ。打っただけ――」

「跳んだ上に、あれだけ踏ん張った膝です。見せてください」


有無を言わせぬ口調に、エステルは小さく目を丸くし、それからボレスと顔を見合わせて、ふっと可笑しそうに笑った。

「笑い事ではありません」

「……はいはい。わかりました」

エレナリアは少しだけ口を尖らせながら、水筒の水で冷やした布を当て、丁寧に縛った。


「……ありがと」

エステルが小さく言う。

「どういたしまして」



手当てを終えると、三人は来た道を引き返した。


管理室の前まで戻ると、沈殿槽を塞いだ石蓋の下から、まだ湿った音がかすかに響いていた。


「ここも、残したままにはできません」

エレナリアは石蓋の縁を塞いでいた土を一部だけ崩し、細い隙間を作った。


懐から太陽のプーラを取り出し、杖先へ添え、先ほどと同じ基礎浄化の術式を組む。


金色の光が、隙間から沈殿槽の内側へ流れ込んだ。


石蓋の下で、白い塊たちがぶくぶくと泡立った。


やがて蠢く音は止み、隙間から染み出したのは、粘りも淀んだ魔力も失った濁った水だけだった。


エレナリアは念のため、石蓋の縁を再び土で塞いだ。


術を解き、太陽のプーラを掌へ戻した。

仲間の手当ても、残していた後始末も終えた。


エレナリアは掌の太陽のプーラへ、改めて視線を落とした。


先ほどまで、あの巨体の中で心臓のように脈打っていた光は、今は穏やかに、静かに灯っている。


金色の光が、疲れ切った三人を、静かに照らしていた。

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