第10話 帰還と日輪の加護
地の底に、光は届かない。
冷たい石の広間で、黒い鎧と外套をまとった影が、闇の奥へ跪いていた。
鎧の隙間から覗くのは、肉のない白い骨。
頭部を覆う兜はなく、剥き出しの頭蓋骨の片方の眼窩にだけ、青白い鬼火が灯っている。
影がわずかに頭を垂れると、首の骨が乾いた音を立てた。
「太陽のプーラが、修道院跡から持ち出されました」
闇の奥に座すものは、身じろぎひとつしない。
「誰が持ち出した」
「ヴァルキエルの娘です」
短い沈黙。
やがて、地の底を這うような声が響いた。
「……光は、またあの名を選んだか」
白骨の騎士は、淡々と報告を続けた。
「娘の一行は、修道院跡の記録を持ち出しました。読み解けば、次は月のプーラを求めるでしょう」
「ならば、月影の礼拝堂へ先回りしろ」
「娘を始末しますか?」
「月を奪え。娘が邪魔をするなら、その命も取れ」
声は、そこで一度途切れた。
「――だが、しばらく見ておけ。あの娘が、どこまで父の足跡を辿るのか」
白骨の騎士は深く頭を垂れ、立ち上がった。
骨の擦れ合う乾いた音だけを残し、黒い外套が闇へ溶けていった。
◇
地下から地上へ出ると、空は白み始めていた。
夜通しの死闘を終えた三人の足取りは、揃って重い。
ボレスは左脇腹を庇い、エステルは痛めた膝のせいで歩幅が狭い。
エレナリアは、二人の荷袋へ手を伸ばした。
「私が持ちます。ボレスさんは怪我をしているんですから」
「嬢ちゃんまで潰れたら、誰が道を見つけるんだ」
「でも――」
「荷物くらい持てる。斧より軽いからな」
修道院跡の外に残していたクッカ車は、無事だった。
繋がれていたクッカは三人の姿を認めると、待ちくたびれたように高い声を上げた。
エレナリアは首筋を撫でてやり、水と餌を与えた。
ボレスが御者台へ足を掛けようとして、エステルに襟首をつかまれた。
「その傷で手綱を握るつもり?」
「座ってるだけなら問題ねえよ」
「道が荒れたら傷が開くわ」
「お前も膝を痛めてるだろ」
「あなたよりはましよ」
結局、御者台にはエステルが座り、エレナリアが隣で地図を広げた。
ボレスは不満そうな顔のまま、荷台へ横になった。
最寄りの街までの道筋を確かめると、エレナリアは地図を畳み、荷台へ移った。
「おやつをあげますから、大人しくしていてください」
ボレスの隣に腰を下ろし、荷物の中からビスケットを取り出して差し出した。
「お菓子じゃ腹の足しにならねえよ。嬢ちゃんが食べな」
そう言いながらも、ボレスの視線はビスケットへ向いたままだった。
エレナリアが差し出した手を引っ込めずにいると、ボレスは諦めたように一枚つまみ上げた。
「一枚だけだぞ」
「はい。残りは街に着いてからにしましょう」
クッカ車は朝の街道を、最寄りの街へ向かって走り出した。
◇
街へ着いた三人は、まず宿を取った。
クッカは厩舎へ預け、餌を与えて休ませることにした。
あわせて、クッカ車の点検も頼んだ。
それから、遺跡を管理する街の役人へ、修道院跡の状況を報告した。
地下の主聖水槽の水が腐敗していたこと。
腐った聖水から魔物が発生していたこと。
緊急排水設備を作動させ、危険な魔物は排除したこと。
地下には崩落箇所があり、再調査には専門家が必要であること。
「魔物の体内にあった魔力の核は、回収しました」
太陽のプーラという名と、その詳しい性質までは告げなかった。
父の足跡を追うために、まだ手元へ置いておく必要がある。
持ち出した銅板と記録については、内容を整理した後、写しを提出すると申し出た。
それから数日、三人は宿で身体を休めた。
傷は、術一つでたちまち塞がるものではない。
エレナリアは毎朝ボレスの包帯を替え、エステルの膝を水のファルサで冷やした。
食堂では、ボレスが給仕を呼ぼうと手を上げかけていた。
「傷を塞ぐには肉が要る」
「野菜も食べてください」
そう言ってエレナリアは、自分の皿からボレスの皿へ、いくつかの野菜を移した。
「嬢ちゃん……まさかとは思うが、自分の嫌いなものを移したんじゃないだろうな?」
「……そんなことありません」
「否定するなら、もう少し早く言いなさい」
エステルの冷静な指摘に、エレナリアは気まずそうに自分の皿へ視線を落とした。
ボレスは喉の奥で笑いながら、移された野菜をまとめて口へ放り込んだ。
「まあ、怪我人は好き嫌いしてられねえからな」
「ボレスさんは、お肉ばかり選んでいます」
「俺のは好き嫌いじゃなくて、必要な栄養を選んでるんだ」
「二人とも、黙って食べなさい」
エステルに一喝され、二人は揃って皿へ向き直った。
◇
宿の一室。
エレナリアは机の上へ、修道院跡から持ち帰った銅板と記録を広げた。
その中央に、太陽のプーラを置いた。
宝玉は、陽だまりのような穏やかな金色に灯っていた。
地下で使ったものと同じ基礎浄化術の式を組むと、術式は普段より安定し、光は部屋の隅まで静かに届いた。
「やっぱり……浄化の術式と、とても相性がいいです」
記録の記述と、地下で見た現象を、一つずつ突き合わせていった。
水や土地に染みついた腐敗を清める。
死霊術によって肉体や魂を縛る力を弱める。
記録によれば、持ち主を腐敗や死の魔力からある程度守る働きもある。
「太陽のプーラは、死者を攻撃するためのものではありません」
「なら、何をする宝玉なの?」
エステルが机を覗き込んだ。
「死者を縛っている歪んだ力を清めるものだと思います」
エレナリアは、あの腐敗騎士を思い出していた。
金色の光に触れた粘液が流れ落ち、古びた鎧が静かに膝をついた、あの光景を。
「傷を治す力でも、死者を蘇らせる力でもありません。それに、強い死霊術をこれ一つで破れるとも限りません」
「万能の宝じゃない、ってことね」
「はい。でも――正しく使えば、確かな力です」
◇
記録を整理し終えた頃、エステルが不意に言った。
「最初に炎を試したでしょう」
「……はい」
「毒気が出ると分かった時点で、広く焼くのをやめた。目の前の敵だけではなく、周りを見て判断した」
エレナリアは、太陽のプーラへ視線を落とした。
「私一人では、操作室まで行くことも、太陽のプーラを取り戻すこともできませんでした」
「当たり前よ。三人で戦っていたんだから」
エステルは指を折っていった。
「欠片を焼いて、毒気が出ると確かめた。敵の再生の仕組みを見抜いた。排水設備を使うと決めた。そして、任せるところは私たちに任せた」
黒い瞳が、まっすぐエレナリアを見た。
「強い術を使わなかったから褒めるんじゃないわ。必要な術を選べたから褒めているの」
一人では届かなかった。
けれど、三人だったから、太陽のプーラをここまで持ち帰ることができた。
その実感が、胸の奥へ静かに落ちていった。
寝台に転がっていたボレスが、口を挟んだ。
「俺も一つ賢くなったぞ」
「何をですか?」
「斬ると増える奴は、二度と斬らん」
「最初からそうしてください」
「見ただけじゃ分からんだろ。次からは嬢ちゃんが先に調べてくれ」
からかいではない。
前に立つのはボレス。場を制するのはエステル。そして、仕組みを見抜くのは自分。
自分にも、三人の中で果たす役目がある。
「はい。今度は、斬る前に調べます」
◇
その夜、記録の束を整理していたエレナリアの手が止まった。
古い記録を書き写した紙の余白に、比較的新しい書き込みがあった。
見間違えようもない。
父の書斎で、何度も目にした端正な文字だった。
『日輪は、死にまとわりつく穢れを焼く』
『されど、去りゆく魂を留めるには足りない』
『夜を映す湖に、月は眠る』
『月影の礼拝堂――守護家の血と鍵なくして開かず』
その一行の脇には、さらに細い字で書き足されていた。
『“守護家の血”――当主の血液による認証術か』
そして、余白の隅に、走り書きのような一文。
『死を留めるには、太陽だけでは足りない』
死を、留める。
その言葉だけが、胸の奥へ冷たく沈んだ。
◇
「この湖……」
記録を覗き込んだエステルの表情が、わずかに変わった。
「知っているんですか?」
「ええ。昔、何度か行ったことがあるわ。湖畔領にある湖よ。静かな土地だったわ」
エステルの説明によれば、月影の礼拝堂は、湖に浮かぶ小島に建っているという。
古くから、その土地の守護家によって管理され、入口は一族に伝わる「月影の鍵」で封じられてきた。
「礼拝堂までなら、私が案内できるわ。でも、中へ入るには守護家の協力が要る」
「その守護家に、協力してもらえそうなのか?」
ボレスが尋ねた。
エステルは、一拍置いた。
「話は聞いてくれると思うわ」
「お知り合いなんですか?」
「……今の当主は、昔の婚約者よ」
エレナリアは目を見開いた。
エステルにも、自分の知らない過去がある。
そう胸に留め、それ以上は尋ねなかった。
「もう結婚して、あの土地で自分の家庭を築いている人よ。私との話は、とっくに終わっているわ」
エステルの声は、いつも通り淡々としていた。
◇
出発は、ボレスの傷がクッカ車の揺れに耐えられるようになってからと決まった。
その間にクッカを十分に休ませ、物資の補充も済ませることになった。
話がまとまると、エレナリアは窓辺で、父の書き込みから太陽のプーラへ視線を移した。
父は、何をしようとしていたのか。
なぜ、太陽だけでは足りないと考えたのか。
手掛かりは、月影の礼拝堂にある。
窓の外には、細い月が浮かんでいた。
エレナリアは太陽のプーラを握り、二人を振り返った。
「行きましょう。父が月のプーラで何をしようとしていたのか、確かめます」
エステルが頷き、ボレスが片手を上げた。
夜空に浮かぶ月は、細く、冷たい。
エレナリアの手の中では、太陽のプーラがかすかな温もりを返していた。
二つの光の先に、次の旅路が待っていた。




