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第11話 月を映す湖

街道の坂を越えた瞬間、視界が開けた。


「あれが……ネア湖」


領地の中央には、対岸が青白く霞むほど大きな湖が広がっていた。

風ひとつないのに、湖面のあちこちで円い波紋が生まれては、音もなく消えていく。


湖心には小さな島があり、古い尖塔がひとつ、霧の向こうに細い影のように立っていた。


「あそこが月影の礼拝堂よ」

御者台のエステルが、手綱を握ったまま言った。

荷台のボレスが、身を起こして湖を眺める。


脇腹の傷は塞がりかけていたが、長い道中の揺れを受けたせいで、まだ鈍い痛みが残っていた。


ボレスは傷口へ軽く手を当て、小さく顔をしかめた。

「……静かすぎる湖だな」


その言葉どおり、湖畔の街には活気がなかった。

昼間だというのに、小舟はすべて岸へ引き上げられている。

水辺へ近づく者もなく、湖を指さした子供が、母親に強く腕を引かれて路地の奥へ消えていった。


すれ違った領民たちの、囁くような声が耳へ届く。


「昨夜も、亡くなった人の姿が映ったそうだ」

「湖には近づくなと、お触れが出てる」


エレナリアは、胸元へ手を当てた。

外套の下で、太陽のプーラがかすかに熱を帯びている。


何に反応しているのかまでは分からない。

けれど、修道院跡と同じく、この湖にも死にまつわる異変があるのかもしれない。


そう思わせる熱だった。



領主館は、ネア湖を見下ろす高台に建っていた。


来意を告げると、三人は思いのほか早く応接室へ通された。


現れたのは、ネアポリス湖畔領の当主、ファブリ・ボアニアス伯爵だった。


三十歳前後の、落ち着いた物腰の男だ。

理知的な視線が、まずエステルに止まった。


「久しぶりだな、エステル」

「……ええ。突然訪ねて悪かったわ」

「突然姿を消すのは、昔から君の得意技だからな」


ファブリは小さく息を吐き、口元をわずかに緩めた。

エステルは言い返さず、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。


使用人がお茶を整えたあと、ファブリの妻であるテオフィラが応接室へ入ってきた。

落ち着いた装いの、聡明そうな女性だった。


彼女は応接室に残るわずかな気まずさを見て取ったのか、エステルへ穏やかに微笑んだ。


「あなたがエステル様ですね。お会いできて嬉しいです」

「……ファブリから、私のことを?」

「ええ。決められた道を離れて、自分の生き方を選んだ方だと伺っています」


エステルは小さく目を見開き、それからファブリを見た。


「ずいぶん好意的な言い方になったものね」

「最初から、そう話していたわけではありませんよ」

テオフィラは可笑しそうに目を細めた。


「……テオフィラ」

ファブリが困ったように妻の名を呼ぶ。

その様子に、エステルの口元もわずかに緩んだ。


張り詰めていた空気が、ふっと和らいだ。



「エレナリア・ヴァルキエルと申します」

エレナリアは名乗り、父の記録を机へ広げた。


月影の礼拝堂に、月のプーラが眠っている可能性があること。

父の足跡を追って、そこへ入りたいこと。


ファブリは記録へ目を落とし、それから表情を引き締めた。


「礼拝堂へ入るつもりなら、先に知っておいてもらいたいことがある。湖では今、異変が起きている」


彼の説明によれば、湖面に死者の姿が映る怪異は、半月ほど前から始まっていたという。

だが、霧が濃くなり、湖へ出た者が戻らなくなったのはここ数日のことだった。


「すでに立ち入りは禁じている。様子を探るため兵を巡回に出したが、二人が戻らなかった」


ファブリの言葉に、場が重く沈む。

半月ほど続いていた怪異が、ここ数日で急激に人を呑み始めたことになる。


エレナリアは、宿で整理した記録の中から、父の書き込みが残る一枚を差し出した。

「父の記録には、『守護家の血と鍵なくして開かず』とありました。そして、父はこのように書き残しています」

そこには、父の走り書きが残っていた。


『“守護家の血”――当主の血液による認証術か』


ファブリはその文字をしばらく眺め、首を振った。


「ヴァルキエル子爵は、古い言い回しを文字どおりに受け取ったのだろう」

「違うのですか?」

「ここでいう“血”とは、守護家の正統な継承資格を指している。血を流せばよいという意味ではない」


エレナリアは、手元の走り書きを見つめた。


少なくとも、この書き込みを残した時点で、父の思考は、古い言葉の意味を確かめるより先に、血液を使った認証術へ向かっていた。


父は、確かめる前から答えを決めていたのかもしれない。


「礼拝堂の封印を開くには、現当主本人と、月影の鍵、当主印、そして当主が唱える誓文が要る」

ファブリは続けた。

「内部にも、当主本人でなければ解けない封印が複数残されている。つまり、鍵だけを貸しても、最深部へは進めない。私が奥まで同行する必要がある」

「駄目よ。あなたは戦えないでしょう」

エステルが、間を置かずに言った。

声は低く、きっぱりとしていた。


「悪いが、俺も賛成はできねえな」

ボレスも続く。

「戦えねえ人間を守りながら、何がいるかも分からねえ場所を歩くことになる。伯爵閣下様に怪我でもさせたら、こっちの首が飛んじまうぜ」

最後だけ妙に丁寧な言い方だった。


二人の鋭い視線を受けても、ファブリは表情を変えなかった。


「君たちの懸念はもっともだ」

ファブリは一度言葉を切った。

「これまでは、封印を解いてまで礼拝堂を調べる根拠がなかった。だが、この記録と湖の異変が重なった以上、もう放置はできない。危険は承知している。それでも、私は行く」


沈黙が落ちた。


エレナリアは、エステルとボレスを見た。

二人とも納得した様子ではなかった。

けれど、反論の言葉も続かなかった。


「……エステルさん」

エステルはしばらくファブリを見据え、やがて小さく息を吐いた。


「分かったわ。ただし、礼拝堂の中では私たちの指示に従ってもらう。勝手な行動はしないこと。それが条件よ」

ファブリは頷いた。

「分かった。それで構わない」


話がまとまると、ボレスは机の上を指先でなぞり、簡単な隊列を示した。


「前は俺。伯爵様には安全な真ん中にいてもらう。後ろは嬢ちゃん、片側はエステルが警戒する。これなら、まあ大丈夫だろう」

「側面が一つ、どうしても空きますね」

「それなら、大きな箱にでも入れて運ぶか」

「ボレスさんが運ぶんですか?」

「その扱いで結構です」

テオフィラが穏やかに口を挟んだ。


「傷一つつけずに返してくださいませ」

「ずいぶん注文が細けえな」

「当然です。まだ喪服を着るつもりはありませんので」

「……私としては、箱ではなく、自分の足で帰りたいところだな」

ファブリが困ったように眉を下げた。

その様子を見て、テオフィラは少しだけ安堵したように微笑んだ。


こうして、ファブリを伴って月影の礼拝堂へ向かうことが決まった。

舟と装備を整える必要があるため、出発は翌朝となり、三人は領主館の客間に泊めてもらうことになった。


打ち合わせを終えると、ボレスとエステルが先に応接室を出た。

エレナリアも二人を追い、最後に扉を閉めようと振り返る。


テオフィラが、夫の袖へそっと手を添えていた。


「どうか、無理はなさらないでください」

「私にできるのは扉を開けることだけだ。それ以上のことはしないよ」

「その約束を、忘れないでください」

「必ず戻る」


エレナリアはそれ以上見つめることを避け、静かに扉を閉めた。


廊下へ出たあとも、ファブリの最後の言葉だけが、しばらく耳に残っていた。



その夜。

領主館の客間の窓から、エレナリアはネア湖を見下ろしていた。


明日、あの湖を渡る。

父が目指した、月影の礼拝堂へ。


雲が切れた。


冷たい月明かりが黒い湖面へ落ちる。

水面に映った月が、不意に歪んだ。


風はない。


映った月の周囲には、波紋ひとつない。

それなのに、その輪郭だけが、下から何かに押し広げられるように揺れていた。


エレナリアは窓へ顔を寄せ、目を凝らした。

歪んだ月。

その白い光の中に、人の顔のようなものが浮かんでいた。


湖までは遠い。

それなのに、その顔だけが、すぐ目の前にあるように見えた。


青白い目が開く。

月光が輪郭をなぞった一瞬、その顔が、見覚えのある面影と重なった。


「……お兄様?」


次の瞬間、白い顔も、月の歪みも消えていた。

湖は何事もなかったかのように、静かな夜へ戻っていた。


それでも、胸元の太陽のプーラは、しばらく熱を帯びたままだった。

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