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第11話 月を映す湖

街道の坂を越えた瞬間、視界が開けた。


「あれが……ネア湖」


領地の中央には、対岸が青白く霞むほど大きな湖が広がっていた。

風ひとつないのに、湖面のあちこちで円い波紋が生まれては、音もなく消えていく。


湖心には小さな島があり、古い尖塔がひとつ、霧の向こうに細い影のように立っていた。


「あそこが月影の礼拝堂よ」

御者台のエステルが、手綱を握ったまま言った。

荷台のボレスが、身を起こして湖を眺める。


脇腹の傷は塞がりかけていたが、長い道中の揺れを受けたせいで、まだ鈍い痛みが残っていた。


ボレスは傷口へ軽く手を当て、小さく顔をしかめた。

「……静かすぎる湖だな」


その言葉どおり、湖畔の街には活気がなかった。

昼間だというのに、小舟はすべて岸へ引き上げられている。

水辺へ近づく者もなく、湖を指さした子供が、母親に強く腕を引かれて路地の奥へ消えていった。


すれ違った領民たちの、囁くような声が耳へ届く。


「昨夜も、亡くなった人の姿が映ったそうだ」

「湖には近づくなと、お触れが出てる」


エレナリアは、胸元へ手を当てた。

外套の下で、太陽のプーラがかすかに熱を帯びている。


何に反応しているのかまでは分からない。

けれど、修道院跡と同じく、この湖にも死にまつわる異変があるのかもしれない。


そう思わせる熱だった。


◇


領主館は、ネア湖を見下ろす高台に建っていた。


来意を告げると、三人は思いのほか早く応接室へ通された。


現れたのは、ネアポリス湖畔領の当主、ファブリ・ボアニアス伯爵だった。


三十歳前後の、落ち着いた物腰の男だ。

理知的な視線が、まずエステルに止まった。


「久しぶりだな、エステル」

「……ええ。突然訪ねて悪かったわ」

「突然姿を消すのは、昔から君の得意技だからな」


ファブリは小さく息を吐き、口元をわずかに緩めた。

エステルは言い返さず、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。


使用人がお茶を整えたあと、ファブリの妻であるテオフィラが応接室へ入ってきた。

落ち着いた装いの、聡明そうな女性だった。


彼女は応接室に残るわずかな気まずさを見て取ったのか、エステルへ穏やかに微笑んだ。


「あなたがエステル様ですね。お会いできて嬉しいです」

「……ファブリから、私のことを?」

「ええ。決められた道を離れて、自分の生き方を選んだ方だと伺っています」


エステルは小さく目を見開き、それからファブリを見た。


「ずいぶん好意的な言い方になったものね」

「最初から、そう話していたわけではありませんよ」

テオフィラは可笑しそうに目を細めた。


「……テオフィラ」

ファブリが困ったように妻の名を呼ぶ。

その様子に、エステルの口元もわずかに緩んだ。


張り詰めていた空気が、ふっと和らいだ。


◇


「エレナリア・ヴァルキエルと申します」

エレナリアは名乗り、父の記録を机へ広げた。


月影の礼拝堂に、月のプーラが眠っている可能性があること。

父の足跡を追って、そこへ入りたいこと。


ファブリは記録へ目を落とし、それから表情を引き締めた。


「礼拝堂へ入るつもりなら、先に知っておいてもらいたいことがある。湖では今、異変が起きている」


彼の説明によれば、湖面に死者の姿が映る怪異は、半月ほど前から始まっていたという。

だが、霧が濃くなり、湖へ出た者が戻らなくなったのはここ数日のことだった。


「すでに立ち入りは禁じている。様子を探るため兵を巡回に出したが、二人が戻らなかった」


ファブリの言葉に、場が重く沈む。

半月ほど続いていた怪異が、ここ数日で急激に人を呑み始めたことになる。


エレナリアは、宿で整理した記録の中から、父の書き込みが残る一枚を差し出した。

「父の記録には、『守護家の血と鍵なくして開かず』とありました。そして、父はこのように書き残しています」

そこには、父の走り書きが残っていた。


『“守護家の血”――当主の血液による認証術か』


ファブリはその文字をしばらく眺め、首を振った。


「ヴァルキエル子爵は、古い言い回しを文字どおりに受け取ったのだろう」

「違うのですか?」

「ここでいう“血”とは、守護家の正統な継承資格を指している。血を流せばよいという意味ではない」


エレナリアは、手元の走り書きを見つめた。


少なくとも、この書き込みを残した時点で、父の思考は、古い言葉の意味を確かめるより先に、血液を使った認証術へ向かっていた。


父は、確かめる前から答えを決めていたのかもしれない。


「礼拝堂の封印を開くには、現当主本人と、月影の鍵、当主印、そして当主が唱える誓文が要る」

ファブリは続けた。

「内部にも、当主本人でなければ解けない封印が複数残されている。つまり、鍵だけを貸しても、最深部へは進めない。私が奥まで同行する必要がある」

「駄目よ。あなたは戦えないでしょう」

エステルが、間を置かずに言った。

声は低く、きっぱりとしていた。


「悪いが、俺も賛成はできねえな」

ボレスも続く。

「戦えねえ人間を守りながら、何がいるかも分からねえ場所を歩くことになる。伯爵閣下様に怪我でもさせたら、こっちの首が飛んじまうぜ」

最後だけ妙に丁寧な言い方だった。


二人の鋭い視線を受けても、ファブリは表情を変えなかった。


「君たちの懸念はもっともだ」

ファブリは一度言葉を切った。

「これまでは、封印を解いてまで礼拝堂を調べる根拠がなかった。だが、この記録と湖の異変が重なった以上、もう放置はできない。危険は承知している。それでも、私は行く」


沈黙が落ちた。


エレナリアは、エステルとボレスを見た。

二人とも納得した様子ではなかった。

けれど、反論の言葉も続かなかった。


「……エステルさん」

エステルはしばらくファブリを見据え、やがて小さく息を吐いた。


「分かったわ。ただし、礼拝堂の中では私たちの指示に従ってもらう。勝手な行動はしないこと。それが条件よ」

ファブリは頷いた。

「分かった。それで構わない」


話がまとまると、ボレスは机の上を指先でなぞり、簡単な隊列を示した。


「前は俺。伯爵様には安全な真ん中にいてもらう。後ろは嬢ちゃん、片側はエステルが警戒する。これなら、まあ大丈夫だろう」

「側面が一つ、どうしても空きますね」

「それなら、大きな箱にでも入れて運ぶか」

「ボレスさんが運ぶんですか?」

「その扱いで結構です」

テオフィラが穏やかに口を挟んだ。


「傷一つつけずに返してくださいませ」

「ずいぶん注文が細けえな」

「当然です。まだ喪服を着るつもりはありませんので」

「……私としては、箱ではなく、自分の足で帰りたいところだな」

ファブリが困ったように眉を下げた。

その様子を見て、テオフィラは少しだけ安堵したように微笑んだ。


こうして、ファブリを伴って月影の礼拝堂へ向かうことが決まった。

舟と装備を整える必要があるため、出発は翌朝となり、三人は領主館の客間に泊めてもらうことになった。


打ち合わせを終えると、ボレスとエステルが先に応接室を出た。

エレナリアも二人を追い、最後に扉を閉めようと振り返る。


テオフィラが、夫の袖へそっと手を添えていた。


「どうか、無理はなさらないでください」

「私にできるのは扉を開けることだけだ。それ以上のことはしないよ」

「その約束を、忘れないでください」

「必ず戻る」


エレナリアはそれ以上見つめることを避け、静かに扉を閉めた。


廊下へ出たあとも、ファブリの最後の言葉だけが、しばらく耳に残っていた。


◇


その夜。

領主館の客間の窓から、エレナリアはネア湖を見下ろしていた。


明日、あの湖を渡る。

父が目指した、月影の礼拝堂へ。


雲が切れた。


冷たい月明かりが黒い湖面へ落ちる。

水面に映った月が、不意に歪んだ。


風はない。


映った月の周囲には、波紋ひとつない。

それなのに、その輪郭だけが、下から何かに押し広げられるように揺れていた。


エレナリアは窓へ顔を寄せ、目を凝らした。

歪んだ月。

その白い光の中に、人の顔のようなものが浮かんでいた。


湖までは遠い。

それなのに、その顔だけが、すぐ目の前にあるように見えた。


青白い目が開く。

月光が輪郭をなぞった一瞬、その顔が、見覚えのある面影と重なった。


「……お兄様?」


次の瞬間、白い顔も、月の歪みも消えていた。

湖は何事もなかったかのように、静かな夜へ戻っていた。


それでも、胸元の太陽のプーラは、しばらく熱を帯びたままだった。

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