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第12話 月影の鍵

翌朝のネア湖は、乳白色の霧に沈んでいた。


岸辺へ下ろされた一艘の小舟に、四人は順に乗り込んだ。


舳先にはボレスが陣取り、片手斧を膝へ置いて前方を見据えている。

中央にはファブリが座り、古い航路図を膝の上へ広げていた。

船尾ではエステルが櫂を握り、エレナリアは舷側から水面を見張る位置についた。


「岸を離れるぞ。しっかり掴まってな」

ボレスの声を合図に、舟は音もなく滑り出した。


岸が見えなくなるまで、いくらもかからなかった。

振り返っても白い壁があるだけで、前を見ても同じだった。

世界のすべてが、灰色の水と霧だけになったようだった。


櫂が水を掻く音だけが、規則正しく響く。


エレナリアは胸元へ手を当てた。

外套の下で、太陽のプーラがかすかな熱を保っている。

昨夜、窓から見た月の歪みと、あの白い顔。


――お兄様に、似ていた。


思い浮かべかけた面影を、エレナリアは小さく首を振って追い払った。

今は、水面から目を離すべきではない。


「左に暗礁がある。右へ寄せてくれ」

ファブリが航路図から顔を上げ、エステルが黙って櫂の向きを変えた。


そのとき、ファブリの視線が左舷の水面で止まった。


「……マルコ?」


彼の声が、不意に強張った。

水面に、人の姿が映っていた。


革鎧を着た若い兵士が、水の中に立っているかのように、こちらを見上げている。


「巡回に出たまま、戻らなかった兵の一人だ」

ファブリの顔から血の気が引いていた。


水面のマルコは、両腕を伸ばしていた。

水を掻く手も、見開かれた目も、助けを求める者のものだった。

口も、何かを叫ぶように開いている。

だが、水音も、悲鳴も聞こえなかった。


ただ、口元だけが違った。


溺れる者の顔のまま、唇の両端だけが、糸で吊られたように笑っていた。


「エステルさん、舟が左へ引かれています」

エレナリアは静かに告げた。

舟は櫂の向きとは逆に、マルコの姿を追うようにじりじりと左へ流されていた。


「……分かってるわ。押し戻しているのに、水そのものが左へ流れているみたい」

エステルは眉を寄せ、櫂を深く水へ差し込んだ。

舟の進路の先、霧の奥に、黒く濡れた岩の頭が牙のように水面から覗いている。


「このままでは暗礁にぶつかります!」

「……もし、本当に生きているなら――」

ファブリの視線は、像から離れなかった。

「生きてる人間が、水の中からこっちを見るかよ。嬢ちゃん!」

「はい!」

エレナリアは杖を握り、胸元のプーラへもう片方の手を添えた。


「確かめます」

灯したのは、指先ほどの小さな光だった。

柔らかな金色が、霧を透かして水面へ届く。


光が触れた瞬間、マルコの姿は輪郭からほどけた。

笑った口元だけを最後に残し、水へ滲むように消えていった。


あとには、灰色の水面だけがあった。

舟は、それ以上左へ流されなかった。


「……偽物、か」

ファブリは深く息を吐き、目を閉じた。

それから航路図を握り直し、顔を上げたときには、当主の声へ戻っていた。


「すまない。あの姿に気を取られた」

ファブリは航路図と霧の奥を交互に見比べた。


「この先には、航路を示す杭が並んでいる。霧の中でも見失わないよう、頭だけが水面に出る高さになっているはずだ」


彼が示した方角へ目を凝らすと、霧の中に黒い杭の頭がひとつ見つかった。その先にも、もうひとつ。


「杭に沿って進んでくれ。それが正しい航路だ」

エステルが櫂を操った。

舟は杭から杭へと繋がる見えない糸を辿り、やがて霧の向こうに、苔むした石段と尖塔の影が現れた。


湖心の島だった。



月影の礼拝堂は、思っていたよりも小さく、そして古かった。


石壁は苔と蔦に半ば呑まれ、屋根の一部は崩れて空が覗いている。

それでも正面の扉だけは、昨日造られたかのように傷ひとつなかった。

黒い石の扉には、三日月を象った紋章が刻まれている。


「扉を開ける。少し離れていてくれ」


ファブリは懐から布包みを取り出し、中の鍵を掲げた。

銀色の、細身の鍵だった。

柄の部分が三日月の形にくり抜かれ、霧の光を受けて鈍く光っている。


「月影の鍵。そして――」


彼は指にはめた当主印を外し、扉の紋章の中央にある窪みへ押し当てた。

印章が収まると、三日月の紋章に、青白い細い筋が走った。


「鍵を差してから、誓文を唱え終えるまで、手を離してはならない。それが決まりだ」


ファブリは鍵穴へ鍵を差し込み、両手を柄へ添えた。

そして、低い声で誓文を唱え始めた。


古い言葉だった。

意味は分からない。

けれど、湖と、月と、眠る者への誓いを述べているのだと、響きだけで伝わってくるようだった。


十数秒。


その間、扉の青白い筋は脈打つように明滅し、鍵の周りへ集まっていった。


誓文が終わる。


扉の奥で、重い石が動く音がした。

軋みではなく、眠っていたものが寝返りを打つような、低く長い音だった。


「開くぞ。下がってな」

ボレスがエレナリアとエステルを片腕で制した。


黒い扉は、内側へゆっくりと開いていった。

中から、冷たい空気が流れ出してくる。

水と、石と、長い年月の匂いがした。


「……当主と、鍵と、印章と、誓文。ひとつでも欠ければ、この扉は開かない」


ファブリは鍵を抜き、布へ包み直した。

エレナリアは、開かれた扉の奥へ目を向けた。


「行きましょう」

エステルが腰に結んでいた鞭を手に取った。

「伯爵様は俺の後ろだ。エステル、嬢ちゃん、周りを頼むぜ」

「はい」

エレナリアは杖を握り、ファブリの後ろについた。

エステルが最後尾へ回る。


四人は、扉の奥へ足を踏み入れた。



礼拝堂の内部は、水に沈んでいた。


床の半分以上が黒い水の下にあり、長椅子の背もたれだけが、墓標のように水面から並んで突き出ている。

祭壇の脇では、倒れた月の像の上半分だけが水面から覗いていた。


天井のどこかから、水滴が落ちる。

音が鳴るたび、それは何倍にも反響し、どこか別の場所から返ってくるように聞こえた。


「足元、滑るぞ。端の高くなってる石畳を歩け」

ボレスが先頭で言った。


水没を免れた通路は、壁沿いのわずかな幅しかない。

濡れた石畳は黒く光り、一歩ごとに靴音が不自然なほど大きく響いた。


寒い。


この建物の空気そのものが、外の霧よりも冷たかった。


ファブリの歩みが遅れがちになる。

両腕をわずかに広げながら、慎重に足場を選んでいた。

額には、寒さのせいではない汗が浮かんでいる。


エレナリアは、水面から目を離さなかった。


静かすぎる。

これだけ広い水がありながら、波の音がない。


そして、気づいた。

水面に映っているものが、おかしい。


天井の崩れた穴も、倒れた月の像も、水面には映っている。

けれど、そこを歩く四人の姿だけが、現実とずれていた。


映っているボレスは、斧を担いでいない。

映っているエレナリアは杖を構えず、ファブリへ顔を向けていた。


「皆さん、水面がおかしいです!」

エレナリアが叫んだ、その直後だった。

黒い水が、音もなく盛り上がった。


通路の右側、水没した長椅子の間から、水死者を思わせる青白い影が二体立ち上がった。

長く水に浸かった死者の顔。

濡れた髪が張りつき、眼窩には濁った光だけが宿っている。


左側には、水面に映っていたボレスとエレナリアの像が、水の中に立ったまま浮かび上がった。


「……私?」

エレナリアは息を呑んだ。


水の中に、赤い外套の少女がいた。

亜麻色の髪も、顔も、自分と同じ。


ただし本物のエレナリアは杖を構えているのに、水の中の少女は杖を持たず、ファブリへ向けて白い手を差し伸べていた。


本物のエレナリアは動いていないのに、水の中の少女は首をわずかに傾けた。

差し伸べた指を、小指から順に一本ずつ曲げていく。

その口元には、笑みが浮かんでいた。


自分の顔で、自分の知らない笑い方をされている。

その光景に、背筋が粟立った。


ファブリが息を呑んだ。

彼の足が、その場で止まった。


「下がってろ!」

ボレスが踏み込み、右の死霊へ斧を叩き込んだ。


手応えは、あった。

青白い身体は霧のように輪郭を散らし、水面へ崩れ落ちる。


だが次の瞬間、散った霧は水を吸い上げるように寄り集まり、元の姿へ戻っていった。

「ちっ……!」

ボレスは返す刃で、左の偽エレナリアへ斧を薙いだ。


刃は像を素通りし、斧の重みだけが前へ走った。

ボレスの肩がわずかに流れる。

だが、すぐに踏み止まった。

水面には、波紋ひとつ立たなかった。


偽物は笑ったまま、変わらずファブリへ手を差し伸べている。


「エステルさん、右を!」

「任せて!」


エステルの鞭が風を纏ってしなり、右から迫る死霊の腕を打ち払った。

風圧に死霊の上体が仰け反る。

けれどそれも、倒すには至らない。


ボレスは通路の中央へ足を据え、迫る死霊を斧の腹で押し返した。

一歩も引かない。

だが、一歩も出ない。


エレナリアには分かった。

いつものボレスなら、崩した敵へ必ず踏み込む。

それをしないのは、彼の背中のすぐ後ろで、ファブリが立ち尽くしているからだ。


「戦えねえ奴を連れてくると、こうなるんだ」

ボレスが吐き捨てた。

死霊の冷気に晒されながら、ファブリが掠れた声で応じる。


「……すまない」

「謝る暇があるなら、俺の後ろから出るな」


ボレスは半歩下がり、自分の大きな身体で、ファブリを死霊の視線から隠した。

その拍子に、彼の眉がわずかに歪んだ。

塞がりかけた脇腹の傷が響いたのだと、エレナリアには分かった。


このままでは、押し切られる。

倒せない敵と、庇うべき人。

ボレスとエステルは、守りに縛られている。


――全部と、戦う必要はない。


エレナリアは深く息を吸った。

焦って大きな術を組めば、失敗する。

それは、もう学んだ。


見るべきものを、見る。


「全部を倒す必要はありません。本物だけを見つけます!」


エレナリアは杖先へ基礎浄化術の式を組み、太陽のプーラの光を重ねた。


放たれたのは、柔らかな金色の光だった。

爆発でも、奔流でもない。

朝の光が窓から差し込むような、静かな輝きが水面を撫でていく。


光に触れた左の像たちが、揺らいだ。


偽エレナリアは、差し伸べた手の先から崩れ始めた。

笑みの形だけをしばらく水面に残し、やがて水へ溶けて消えた。

偽ボレスも、同じように水へ還っていく。


そして、右の死霊たちの身体に、それは見えた。


青白い、細い糸。


死霊の背から伸びた光の糸が、水面を這い、礼拝堂の奥の暗がりへと続いている。

死霊が動くたび、糸はかすかに震えていた。


「右の二体が本物です! 糸は、私が抑えます!」


エレナリアは光を細く絞り、糸へ重ねた。

金色が触れると、青白い糸は熱された蝋のようにたわみ、死霊の動きが目に見えて鈍った。


「そういうことなら――!」

ボレスが吠え、鈍った死霊へ斧を叩きつけた。

青白い身体が大きく散り、通路から水の上へ押し出される。


「流すわよ!」

エステルの鞭が旋回し、纏った風が水面ごと死霊を薙ぎ払った。

散った身体は風に流され、長椅子の向こうへ遠ざかっていく。


再生は、するだろう。

けれど、戻ってくるまでの間、通路は空いた。


「今のうちに、先へ!」

四人は足場を蹴り、水没区画の奥へと駆け抜けた。



死霊の気配が遠のいたところで、一行は崩れた柱の陰に足を止めた。


「……助かった」

ファブリが壁へ手をつき、荒い息を整える。

その指先は、まだ細かく震えていた。


ボレスは何も言わず、来た道と行く先へ交互に目を配っている。


やがて、ファブリはエステルへ顔を向けた。


「君は……いつも、こんな戦いを?」

「まあ、そうね。もう慣れたわ」

エステルは鞭を巻き取りながら、事もなげに答えた。

その横顔に、動揺は見えなかった。


ファブリは何か言いかけたが、結局、口を閉じた。


エレナリアは前方へ目を向けた。

正規の通路は、その先で完全に水没していた。

黒い水が、天井近くまで満ちている。

泳いで渡れる距離ではないし、あの水へ入る気にもなれなかった。


「回り道が要るわね。それとも、戻る?」

エステルの問いに答える者はいなかった。


そのとき、ファブリが顔を上げた。

「待ってくれ」

彼の視線は、壁の一点に注がれていた。

震える指先が、壁面の苔を拭う。


苔の下から現れたのは、三日月と、それを囲む鎖を象った古い紋章だった。


ファブリは、その紋章を長いこと見つめていた。

まだ血の気の戻らない顔のまま、瞬きも忘れたように。


やがて、彼は言った。

「この紋章は、管理用通路を示している」

「管理用通路?」

「礼拝堂を維持するための裏の道だ。守護家の記録にだけ残っている。この印の先に、入口があるはずだ」


ファブリは壁伝いに数歩進み、柱の陰を指差した。


そこには確かに、低い入口があった。


ただし、崩れ落ちた石材が積み重なり、その奥を錆びた鉄格子が塞いでいる。

人が通れる隙間は、どこにもなかった。


「入口はありますけど……これでは通れませんね」

エレナリアの呟きに、ファブリは塞がれた入口を見つめたまま、答えなかった。

沈黙が落ちかけたとき、ボレスが短く笑った。


「通れるようにすりゃいいんだろ」

「……どうするつもりだ?」

「こういう時は、こうするんだよ」


ボレスは斧を持ち直すと、鉄格子の継ぎ目へ刃を深々と食い込ませた。


崩れた石材を支点にして柄へ体重をかける。

太い腕が膨れ上がり、錆びた金属が悲鳴のような音を立てた。


ボレスが柄を捻じ込むたびに格子は歪み、最後には、ひときわ大きな音を立てて石材ごと外れた。


通路の入口が、黒い口を開けた。

「ほらよ。案内、頼むぜ」

ボレスは肩で息をしながら、親指で通路の奥を示した。


「あんたね……」

エステルが呆れたように肩をすくめた。


エレナリアは、ひしゃげた鉄格子の残骸を見下ろし、目を丸くした。

「伯爵様の目の前で、礼拝堂の鉄格子を壊すなんて……」

「幽霊が出る水の中を泳ぐよりマシだろ」


ファブリは何か言いかけたが、結局、短く頷いただけだった。



管理用通路は、狭く、乾いていた。


水没を免れた分だけ歩きやすかったが、天井は低く、ボレスは終始首をすくめて進むことになった。


「嬢ちゃんは楽でいいよな。頭を下げなくても歩けるからよ」

「私が小さいのではなく、ボレスさんが大きすぎるんです」


やがて通路は緩やかに下り、再び広い空間へと繋がった。

そこは、正規の回廊と合流する区画だった。

そして、その正面には――。


「……あれが、第二の封印だ」

ファブリの声に、皆が足を止めた。


回廊の突き当たりに、入口の扉よりもさらに大きな石扉が立っていた。


表面には満月と三日月を重ねた紋章が刻まれ、高い位置にある色硝子の窓から差し込む青白い昼の光が、その輪郭を静かに浮かび上がらせている。


扉に、傷はなかった。

封印は、固く閉ざされたままだった。

けれど、エレナリアの目は、扉ではなく床へ吸い寄せられていた。


「……足跡」

石の床に、点々と黒い染みが続いていた。

濡れた足跡だった。

それも、乾きかけてすらいない、真新しいもの。


足跡は水没区画の方角から現れ、第二の封印扉の手前を横切り、脇の回廊の暗がりへと消えている。


エレナリアは自分たちの足元を確かめた。

四人の靴が残す跡とは、形も、大きさも、明らかに違う。


「最初の扉は、当主本人がいなければ開かないんじゃなかったの?」

「……そのはずだ」

ファブリは短く答え、それ以上は何も言わなかった。


当主と、鍵と、印章と、誓文。

そのすべてが揃わなければ、あの正面扉は開かない。

ついさっき、一行はそれを目の前で確かめたばかりだった。


なのに、先客がいる。

「おい。これを見ろ」

ボレスが低い声で呼んだ。


第二封印の手前、脇へ分岐する回廊の入口に、管理用の小さな鉄扉があった。


その扉は蝶番ごと引き千切られ、エレナリアたちの側へ倒れていた。

枠の石と金具も、こちらへ弾けている。

奥から突き破られたのだ。


つまり、何者かは、すでに奥にいた。

自分たちが礼拝堂の正面扉を開くより、ずっと前から。


冷たいものが、背筋を伝った。


――ズ、と。


音がした。

重い金属が、石の床を引きずられる音だった。


ズ……ズ、と、それは一定の律動で続いている。

足跡が消えていった回廊の奥からだった。


ボレスが片手斧を構え、ファブリを背中へ庇う。

エステルも鞭を解き、回廊の脇へ位置を取った。


エレナリアは杖を握り直し、音のする暗がりを見据えた。

胸元の太陽のプーラが、強い熱を放っている。


色硝子を透かした青白い光が、回廊の床へ細長く落ちていた。


その光の帯の中へ、影が入ってきた。


人の形に、似ていた。

けれど、人ではなかった。


肩の位置が高すぎる。

腕が、長すぎる。

引きずられる金属音に合わせて、輪郭の定まらない大きな影が、ゆっくりと、こちらへ向かって動いていた。

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