第13話 戦えない者の覚悟
光の帯の中に立った影は、両腕を垂らしたまま、しばらく動きを止めていた。
異形が一歩、こちらへ踏み出した。
身体には古い鎖が幾重にも巻きつき、その先には、錨によく似た黒い鉄塊が繋がれていた。
ズ……ズ。
鉄塊が石床を擦る音が、歩みのたびに反響した。
「来るぞ!」
ボレスの声と同時に、異形が突進した。
「下がってろ!」
ボレスが片手斧を構え、ファブリの前へ躍り出る。
振り下ろされた斧が、異形の肩口へ食い込んだ。
手応えはあった。
だが、押し返せたのは半歩だけだった。
異形は怯みもせず、身体を大きく捻った。
鎖の先の鉄塊が石床を跳ね、横薙ぎに飛んでくる。
ボレスが咄嗟に斧の柄で受け止め、石床を滑るように後退した。
「ええいっ!」
エステルの鞭が横合いから伸び、風を纏った先端が異形の脚へ絡みつく。
だが、纏わりついた鞭ごと、異形はそのまま前へ踏み出した。
「図体がでかいからって力任せに!」
エレナリアは杖を握り、太陽のプーラへ意識を向けた。
胸元の光が応え、金色の輝きが指先まで伝わってくる。
異形の背から、見覚えのある青白い糸が伸びていた。
「見えました……糸です! あの異形も操られています!」
迷う必要はなかった。
「糸は私が抑えます!」
「頼んだ!」
ボレスが体勢を立て直し、斧の腹を異形の胴へ叩きつけ、わずかに押し返した。
エステルの鞭が再び異形の脚へ絡み、風が踏み込みを削る。
そこへエレナリアの光が糸を捉えた。
異形の足取りが、目に見えて鈍る。
「効いています。でも――」
「力は落ちてないわね」
異形を止めてはいる。
だが、押し返せない。
ボレスの靴底が、石床を少しずつ削っていった。
「なんて重さだ、この化け物!」
「……第二の封印を、調べる」
ファブリの声に、エレナリアは振り返った。
ボレスとエステルが異形を押し留めているわずかな間に、ファブリは巨大な石扉へ歩み寄っていた。
震える指先で、満月と三日月を重ねた紋章をなぞる。
「鍵を差し、当主印を紋章へ合わせ、誓文を最後まで唱えきる。それでようやく開く」
彼は扉の縁を確かめながら続けた。
「唱え終えるまで、鍵から手を離せない。途中で離せば、儀式は失敗する。一から、やり直しだ」
「開いたあとは?」
エレナリアが尋ねた。
「鍵を抜けば、扉はすぐに閉まり始める」
エレナリアは頷いた。
第一の封印よりも、遥かに時間がかかる。
その間、この場に留まらなければならない。
そのとき、背後から冷たい気配を感じた。
エレナリアは水没区画の方角へ目を向けた。
太陽のプーラの光の中に、二本の細い糸が見えた。
先ほどまで、そこには何もなかったはずだ。
「――来ます。後ろから」
糸を辿ると、暗い水面の向こうに、青白い輪郭がふたつ浮かんでいた。
まだ遠い。
だが、確実に近づいている。
先刻、風で押し流した二体の死霊だった。
再生が、思ったより早い。
前には、鎖を引きずる異形。
後ろには、再生した二体。
退路は、閉じかけていた。
ボレスが舌打ちし、斧を構え直した。
「始めろ。こっちは俺たちが持たせる」
ファブリは短く頷き、鍵を握り直した。
「行くぞ!」
ボレスが吠え、異形へ真正面から踏み込んだ。
「エレナはファブリのそばにいて」
エステルは半身を引き、後方の水面へ向けて鞭を構え直す。
ファブリは月影の鍵を鍵穴へ差し込もうとした。
鍵の先が、石の縁を一度擦った。
彼は短く息を吐き、震える指へ力を込め直した。
今度は、確かに鍵穴へ差し込む。
当主印を紋章の中央へ押し当てると、青白い光が、鍵の周りから紋章の輪郭へ向けて細く伸びていった。
低い声で、長い誓文が始まった。
一節ごとに、月の輪郭を満たす光が、わずかに広がっていった。
「エレナ、来るわよ!」
エステルの声に、エレナリアは振り返らず応じた。
ファブリを背に庇ったまま、杖先に基礎浄化術の式を組んだ。
基礎浄化術に太陽のプーラの光を重ね、迫る二本の糸へ放った。
糸が熱された蝋のようにたわみ、死霊の動きが鈍る。
エレナリアが光を後方の二本へ移した途端、前方で鎖が激しく鳴った。
抑えを失った異形の動きが、元の速さへ戻っている。
「くっ……!」
だが、それだけでは足りない。
エレナリアは腰の小袋へ手を入れた。
指先に触れたのは、褐色の粒――土のファルサだった。
土の術式は、これまでも何度か実戦で使ってきた。
だが今回は、敵を阻むだけではない。
ファブリを守り、誓文が終わるまで壁を支え続けなければならなかった。
土のファルサへ魔力を通し、杖先に術式を組む。
石床が低く鳴り、エレナリアとファブリの前に、腰ほどの高さの土壁がせり上がった。
完全な防壁ではない。
数度の衝撃を受け止め、誓文を唱える時間を稼ぐための即席の壁だった。
ファブリは壁の内側で、震える声のまま誓文を続けていた。
息を継ぐたびに声が掠れた。
それでも、言葉は一度も途切れなかった。
ボレスが押し返された。
異形の一撃が石床を割り、破片が飛び散る。
死霊の一体がエステルの鞭を掻い潜り、土壁へ青白い腕を叩きつけた。
衝撃が術式を通じて杖へ返り、エレナリアの腕が痺れた。
パキッ。
亀裂が、壁の表面を這った。
「エステルさん、右です!」
「押さえてるわ、けど……!」
エステルの鞭が二体の死霊へ交互に伸びる。
だが、片方を打ち払えば、その隙にもう片方が距離を詰める。
二体を同時に抑えるには、手が足りなかった。
エレナリアは太陽のプーラの光を強め、二本の糸をさらに抑え込んだ。
腕の痺れが、肘の近くまで広がっていた。
それでも、杖は握ったままだった。
パキパキ、と壁の亀裂が広がる。
冷気が、壁の隙間から漏れ始めた。
エレナリアは奥歯を噛み、痺れる手へもう片方の手を重ねた。
杖先だけは、決して下げなかった。
「ファブリ! 手を離して!」
エステルの声が飛んだ。
だが、ファブリは首を振った。
「私が離せば、ここを開けられない!」
「でも、このままじゃ!」
「私のことはいい。君も集中するんだ」
震える声だった。
恐怖を隠せていない声だった。
それでも、鍵を握った手だけは動かなかった。
「もう少しです! 続けてください!」
エレナリアは重ねた手に力を込め、土の術式を支え直した。
亀裂が、壁の半ばまで達した。
「……!」
このままでは、保たない。
エレナリアが息を詰めたとき、誓文の声が最後の一節へ入った。
紋章の光が、満月と三日月の輪郭を完全に満たした。
重い音とともに、巨大な石扉が動き始めた。
「開くぞ! 走れ!」
ボレスの声に、エレナリアはエステルとともに扉へ走った。
土の壁が崩れる音を背後に聞きながら、二人は扉の内側へ飛び込んだ。
扉が開き切ったのを見て、ファブリが鍵を引き抜いた。
同時に、扉が閉まり始める。
彼は身を翻し、狭まっていく隙間へ滑り込んだ。
最後に、ボレスが異形の腕を斧で受け流し、扉の内側へ飛び込んだ。
閉まりかけた隙間へ、異形の太い腕が強引にねじ込まれる。
「この!」
エステルの鞭が、内側から風を纏って腕を打ち据えた。
「させるかってんだ!」
ボレスが振り向きざま、斧の腹で力任せに弾き返した。
腕が外へ弾かれ、扉が完全に閉じた。
重い音が、石壁の向こうへ吸い込まれていく。
扉の向こうから、何かを叩く音が数度響いた。
やがて、その音も止んだ。
静けさだけが、残った。
◇
一行は、扉の内側でしばらく足を止めた。
ファブリが、壁へ背を預けた。
そのまま、ずるずると座り込んだ。
鍵を握っていた手は、まだ激しく震えていた。
立ち上がろうとしても、膝に力が入らないようだった。
ボレスが、彼の前に立った。
「よく最後まで手を離さなかったな」
「……ここまで来た以上、途中で投げ出すわけにはいかなかった」
「分かってても、逃げる奴は逃げる」
ボレスはファブリの腕を掴み、力任せに立たせた。
「無茶を褒める気はねえ。だが、自分の役目を放り出さなかった。その度胸は認める」
「……光栄だな」
「だが、自分の命まで勘定から外すな。女房のところへ帰るまでが、お前の役目だ」
ファブリは、一度だけ目を伏せた。
「こっちは、あんたの奥さんに言われてるんだよ。傷一つつけるなってな。なあ、嬢ちゃん」
「はい。ですから、帰るまでは勝手に傷つかないでください」
ファブリは一瞬きょとんとした。
やがて、震えの残る手で鍵を握り直し、短く笑った。
「……そうだな」
しばらくして、ファブリの呼吸がようやく落ち着いた。
ボレスは扉と先の通路へ交互に目を配り、警戒を解かなかった。
エレナリアは杖を持つ腕の痺れを確かめながら、エステルとファブリを見比べた。
そして、以前から気になっていたことを口にした。
「以前、お二人は婚約していたんですよね」
「ええ。それがどうしたの?」
「それなのに、どうしてエステルさんは家を出たんですか?」
エステルの眉が、わずかに動いた。
「……いろいろあったのよ」
「ファブリさんのことが嫌いになったからですか?」
「そういう単純な話じゃないわ」
「では、好きだったのに、逃げたんですか?」
ファブリが小さく咳払いした。
エステルは片手で額を押さえる。
「そういう話は、子供にはまだ百年早いわ」
「百年後では、私は百十五歳ですけれど」
「……そういうところよ」
ボレスが、堪えきれないように声を上げて笑った。
「ははっ、百年後でも嬢ちゃんは同じことを言ってそうだな」
エレナリアには、なぜそれが可笑しいのか分からなかった。
首を傾げる彼女をよそに、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
◇
休息を終え、一行は最深部へ続く階段を下り始めた。
数段下りたところで、エレナリアは脇の石壁に刻まれた、小さな紋様に気づいた。
腰の小袋から薄手の手袋を取り出してはめ、苔と埃を指先でそっと拭う。
現れたのは、見覚えのある印だった。
父の書斎で。
書きかけの地図や、古い記録の余白で。
何度も目にした形だった。
「……お父様の印です」
「嬢ちゃんの親父さんの?」
ボレスが屈み込み、刻印へ顔を寄せた。
「探索者が残す目印みてえだな」
「はい。父が、自分の調査記録に添えていた印です」
ファブリが灯りを近づけ、刻線へ目を凝らした。
「線の底にまで苔が入り込んでいる。少なくとも、今回の侵入で刻まれたものじゃないな」
「つまり、ずっと前にここまで来ていたということ?」
エステルが眉を寄せた。
「でも、この扉は当主本人でなければ開けられないのでしょう?」
「そのはずだ」
「じゃあ、どうやってここまで来たの?」
ファブリは答えず、もう一度刻印へ灯りを向けた。
「私が確認した限り、外部の者をここまで通した記録はない」
沈黙が落ちた。
エレナリアは刻印から指を離し、階段の先へ目を向けた。
「お父様も、ここを通ったの……?」
答える者はいなかった。
ボレスが立ち上がり、斧を担ぎ直した。
「答えは、この下にあるってことだな」
冷たい風が、階段の底から吹き上げてきた。
灯りの届かない先を、深い闇が塞いでいた。




