第14話 月下の略奪者
長い階段は、下るほどに冷たくなっていった。
やがて、最後の段が終わり、視界がひらけた。
エレナリアは息を呑んだ。
そこは、巨大な地下聖堂だった。
天井の一部は水晶に似た透明な岩盤で覆われ、その向こうを、暗い湖水がゆっくりと流れている。
湖面から届いた月光が水の揺らぎに乱され、青白い光の波となって、壁と柱の上を静かに渡っていた。
まるで、水底から夜空を見上げているようだった。
聖堂の中央には、円形の祭壇があった。
黒い石の表面には薄く水が張られ、鏡のように月を映している。
その中央に、青白い光を纏った小さな宝玉が浮かんでいた。
「……月のプーラ」
エレナリアの声が、静かな水面に吸い込まれていった。
だが、祭壇へは近づけなかった。
祭壇全体が、透明な光の膜に覆われている。
外周には、守護家の紋章が刻まれた石の柱が、四基、等間隔に立っていた。
「封印装置だ」
ファブリが低く言った。
「あの四基を、決められた順に解かなければ、膜は消えない」
四人は静かに頷き合い、祭壇へ向けて歩みを進めた。
◇
祭壇の基部へ近づいたとき、エレナリアの足が止まった。
黒い石の根元に、小さな刻印があった。
階段の壁で見たものと、同じ形。
父の印だった。
けれど、今度の印は少し違った。
印の脇から短い線が伸び、祭壇の外壁に残る古い碑文の一節を、指し示すように刻まれている。
――お父様は、ここまで来た。
そして、この碑文を読んだ。
エレナリアは手袋をはめた指先で刻印をなぞり、それから、示された碑文へ目を移した。
「ファブリさん。これを」
ファブリが灯りを寄せ、二人で古い文字を読み解いていく。
碑文は、月のプーラの性質を伝えていた。
消えかけた魂や記憶を一時的に現世へ留めること。
死者の残した思念を水面や鏡へ映し出すこと。
幻影や死霊術の構造を見抜くこと。
そして、最後の一節に、警句があった。
「……月は、去りゆく者を映す鏡。留めるは一時、縛るは咎」
エレナリアは読み上げ、息を整えた。
「死者を蘇らせる力では、ないのですね」
「そう読める。強引に使えば、魂をこの世へ縛りつける、とも」
太陽のプーラが、腐敗や死霊術の束縛を清める力なら。
月のプーラは、消えゆく魂や記憶を留めて、映す力。
エレナリアの脳裏に、父の走り書きが浮かんだ。
『死を留めるには、太陽だけでは足りない』
――お父様は、太陽と月を組み合わせようとしていた。
消えようとする、誰かの魂を。
無理にでも、この世へ残すために。
誰を、とまでは分からない。
けれど、指先が冷えていくのを感じた。
「エレナ、続きは後よ」
エステルの声が、思考を断ち切った。
「先に、あれを取るのでしょう」
エレナリアは小さく頷き、光の膜に包まれた祭壇へと向き直った。
◇
ファブリが、月影の鍵と当主印を取り出した。
「四基すべてを、決められた順に解かなければならない」
彼は最初の柱の前へ立った。
鍵を差し込もうとした先端が、石の縁へ一度触れる。
ファブリは短く息を吐き、指へ力を込め直した。
「始めるぞ。一度進めれば、最後まで順番を崩せない」
当主印が紋章へ重なり、続いて月影の鍵が回った。
柱の紋章から光が抜け、祭壇を覆う膜が、わずかに薄くなった。
第一基、解除。
エレナリアたちは、それぞれの位置についた。
ボレスが前。
エステルが側面。
エレナリアは、ファブリと祭壇の双方を見渡せる位置に立つ。
ファブリが二基目の柱へ移る。
印が重なり、鍵が回る。
膜が、また一段薄くなった。
その時だった。
列柱の奥から、乾いた音が響いた。
カラ、カラ、と。
骨と骨が擦れ合う音だった。
月光の届かない暗がりから、長身の影が歩み出てきた。
黒い鎧。
黒い外套。
兜のない、剥き出しの頭蓋骨。
片方の眼窩にだけ、青白い鬼火が灯っている。
その手には、長い柄の戦斧が握られていた。
幅広い片刃は黒ずんでいるが、刃こぼれひとつない。
エレナリアの胸元で、太陽のプーラが強く熱を放った。
「あの扉をどう越えた」
「越えてはいない」
骨の軋むような低い声が、地下聖堂に響いた。
「湖底には、とうに忘れられた水路がある。生者には通れぬ道だ」
エレナリアは息を呑んだ。
――だから、扉の内側に足跡があった。
小扉が、内側から破られていた。
「貴様、何者だ」
ボレスの問いに、青白い鬼火が静かに揺れた。
「名は、とうに失った」
白骨騎士は長柄の戦斧を持ち上げた。
「今はただ、白骨の騎士。月を奪うため、ここにいる」
鬼火の視線が、ファブリへ向いた。
「お前たちが開くのを待っていた。鍵も、印も、当主も揃った……さぁ、続けろ」
「断る、と言ったら」
ファブリの声は震えていた。
それでも、柱の前から動かなかった。
「言わせぬだけだ」
白骨騎士が、石床を砕く勢いで踏み込んだ。
◇
戦斧の刃が、ファブリのすぐ脇へ叩き込まれ、石床を砕いた。
逃げ道を塞いだ白骨騎士は、そのまま長い柄を返し、ファブリを薙ぎ倒そうとした。
その軌道へ、ボレスが割り込んだ。
「させるかよ!」
片手斧が戦斧を受け止め、金属の悲鳴が聖堂に反響した。
衝撃で水面が波立ち、映っていた月が砕ける。
斧の刃元に細い亀裂が走ったのを見て、ボレスが舌打ちした。
「骨だけのくせに、なんて力だ!」
長柄の戦斧に押し込まれ、ボレスの靴底が石床を滑った。
「そこ!」
エステルの鞭が風を纏い、戦斧の柄へ絡みつく。
引かれた刃の軌道が逸れ、ボレスが半歩、押し返した。
「ファブリ、次はどこ!」
「右の柱だ。当主印、鍵――その順だ」
ファブリは自分へ言い聞かせるように呟き、三基目の柱へ走った。
エレナリアは杖を構え、太陽のプーラへ意識を向けた。
金色の光が、白骨騎士を照らす。
黒い鎧の隙間に、青白い糸が浮かび上がった。
糸は骨格を這い、鎧を繋ぎ、眼窩の鬼火を巡り――やがて胸部付近で、黒い鎧の奥へ沈んでいた。
その先に何があるのかまでは、太陽の光だけでは見通せない。
エレナリアは基礎浄化術に光を重ね、糸の全体を広く照らした。
構造を探る。
白骨騎士の動きが、一瞬だけ鈍った。
「ボレスさん、鎧の中に何かあります!」
「場所は!」
「まだ分かりません。もう少し!」
「急いで!」
戦斧が床を割るたび、ファブリの指が跳ねた。
それでも当主印を離さず、三基目の柱を解除した。
膜が、さらに薄くなった。
その時、白骨騎士の頭蓋が、ゆっくりとエレナリアへ向いた。
眼窩の鬼火が、エレナリアを映した。
「ヴァルキエルの娘……貴様、見ているのか」
胸元の太陽のプーラが、ひときわ強く熱を放っていた。
金色の光は、まだ白骨騎士の全身を這う糸を捉えたまま、彼女の意志に応えて灯り続けている。
骨の声が、静かに告げた。
「ならば、見届けるのは、ここまでだ」
「……!」
エレナリアは息を呑んだ。
見抜かれた、と分かった瞬間、杖を握る手に力がこもった。
逃げ場のない視線だった。
鬼火の奥に、明確な殺意が宿っていた。
◇
白骨騎士が一気に間合いを詰めた。
向かう先はファブリ――ではなかった。
進路が、途中で変わった。
戦斧が、エレナリアへ振り下ろされた。
「エレナ!」
ボレスの斧が横から差し込まれ、エステルの風が刃を叩く。
戦斧はエレナリアのすぐ脇へ逸れ、石床を深く抉った。
だが、白骨騎士は止まらなかった。
戦斧をボレスとエステルに封じられたまま、白骨騎士は柄から片手を離した。
黒い籠手に覆われた拳が、エレナリアの脇腹へ叩き込まれた。
鈍い衝撃が、身体の奥まで突き抜ける。
視界が回った。
エレナリアの小さな身体は殴られた勢いのまま弾き飛ばされ、石床へ肩から叩きつけられた。
倒れた拍子に歯が噛み合い、口の中で何かが切れた。
息が、できない。
一瞬、呼吸が完全に止まっていた。
「――っ、ぐ……」
喉の奥から、掠れた呻きだけが漏れた。
息を吸おうとするたび、脇腹の奥で何かが軋む。
白骨騎士は、石床に食い込んだ戦斧を引き抜いた。
眼窩の鬼火は、倒れたエレナリアから逸れていない。
戦斧を振り上げ、今度こそ息の根を止めようと踏み込んできた。
「終わりだ、ヴァルキエルの娘」
「させるか!」
ボレスが体当たりで押し込み、エステルの鞭が戦斧の柄へ絡みついた。
二人がかりで、白骨騎士の巨体がわずかに傾いだ。
その数秒だけが、エレナリアに残された時間だった。
エレナリアは杖を支えに、身体を起こした。
口の中に、鉄錆びに似た味が広がっている。
唇の端から、血がひと筋流れた。
息を吸うと、脇腹へ鋭い痛みが走った。
――折れた……? 分からない。
今は、確かめている場合ではない。
「エレナ!」
エステルの足が、こちらへ向きかけた。
その瞬間、鞭を引く力がわずかに緩み、白骨騎士の戦斧が持ち上がる。
「来ないでください!」
「でも、その傷で――」
「私なら、まだ動けます」
エレナリアは血の滲む唇のまま、エステルを見返した。
「ファブリさんが封印を解くまで、その騎士を止めてください!」
エステルは奥歯を噛んだ。
一瞬だけ、強くエレナリアを見つめる。
それから踵を返し、白骨騎士の戦斧を絡め取る鞭へ、再び風を叩き込んだ。
◇
エレナリアは、太陽のプーラへ意識を戻した。
だが、息が続かない。
深く吸おうとするたび、脇腹が軋む。
これまでのように、広く光を放ち続けることはできなかった。
――広げられないなら。
エレナリアは、白骨騎士の身体を這う糸を見た。
核はまだ見えない。
なら、狙うのは核ではない。
今いちばん危険なのは、あの戦斧だ。
振るう腕へ続く糸、その一本だけを狙う。
エレナリアは杖を両手で固定した。
浅く、細く息を吐く。
その呼吸に意識を重ね、散ろうとする光を一本へ束ねた。
金色の光が、髪の毛ほどの細い線へ収束していった。
ボレスが白骨騎士の前へ立ちはだかり、片手斧で戦斧を受け止めた。
その間に、ファブリは最後の柱へ走った。
当主印を紋章へ押し当て、震える指で月影の鍵を差し込んだ。
白骨騎士は戦斧の柄を強く捻り、ボレスの斧を外側へ弾いた。
続けざまに鎧の肩をぶつけ、進路を塞ぐボレスを押し退ける。
眼窩の鬼火は、なおもエレナリアを捉えていた。
白骨騎士が再びエレナリアへ踏み込もうとした。
「今です!」
エレナリアの光が、戦斧を握る腕の糸を捉えた。
金色の細い線が、青白い糸へ重なる。
糸がたわみ、戦斧の振りが、わずかに鈍った。
「もらったわ!」
エステルの鞭がその隙を突き、戦斧の軌道を大きく逸らす。
刃は空を裂き、石床を叩いた。
「ファブリ!」
「最後だ!」
ファブリが月影の鍵を回した。
柱の紋章から、光が抜けた。
月のプーラを覆っていた透明な膜が――音もなく消えた。
◇
祭壇は、エレナリアのすぐ背後にあった。
エレナリアは杖を引きずるように、二歩、三歩と下がった。
よろめいた腕を、エステルが一瞬だけ支える。
「すぐ戻るから」
エステルはそれだけ言い、白骨騎士の方へ跳んだ。
エレナリアは、祭壇の水鏡へ手を伸ばした。
指先が、月のプーラへ触れた。
その瞬間。
胸元の太陽のプーラと、手の中の月のプーラが、共鳴した。
金色と青白い光が重なり、波紋のように聖堂へ広がっていく。
太陽は、束縛を弱める。
月は、構造を映し出す。
二つの光の中で、白骨騎士の身体が透けるように見えた。
無数の青白い糸。
そのすべてが、鎧の胸部の奥、一点へ集まっている。
小さく、黒く、脈打つもの。
――あれが、核。
「胸です!」
エレナリアは叫んだ。
脇腹に痛みが走ったが、息を止めて耐えた。
「鎧の奥に、糸が全部集まって――」
二度目に声を張った瞬間、脇腹が鋭く軋んだ。
「っ……!」
呼吸が途切れる。
エレナリアは奥歯を噛み、残った息を押し出した。
「……います!」
白骨騎士の鬼火が、大きく揺らめいた。
巨体が、エレナリアへ向かって最後の突進を仕掛けた。
「させないわよ!」
エステルの鞭が、戦斧の柄へ絡みついた。
「小賢しい……!」
「賢しいついでよ!」
絡めた鞭に纏わせた風を、一気に解放した。
戦斧の軌道が、大きく上へ逸れた。
引かれた腕につられ、白骨騎士の上体が仰け反った。
黒い外套が翻り、胸当ての継ぎ目が無防備に晒された。
「今よ!」
「はい!」
エレナリアは、絞り込んだ太陽の光を、胸部の一点へ撃ち込んだ。
金色の線が、核を縛る糸の束へ重なる。
その瞬間、死霊術の抵抗が杖を伝い、両腕へ鈍く返った。
脇腹が軋んだが、照準は外さなかった。
青白い糸が一斉に細り、白骨騎士の踏み込みが、その一瞬だけ止まった。
「おおおおっ!」
ボレスが踏み込んだ。
亀裂の入った片手斧が、露出した継ぎ目へ、渾身の力で叩き込まれる。
硬いものが砕ける音が、聖堂に響き渡った。
黒い鎧が割れ、その奥の核へ、深い亀裂が走った。
核へ生じた亀裂から、青白い光が全身の糸を逆流した。
次の瞬間、戦斧を握っていた白骨騎士の腕が、肘から先で砕け落ちた。
長柄の戦斧が、重い音を立てて石床へ転がる。
そして、ボレスの片手斧もまた、刃元から折れていた。
◇
白骨騎士が、片膝をついた。
眼窩の鬼火が、激しく明滅している。
ひび割れた核から、黒い霧が細く噴き出していた。
「月を……手にしたか」
骨の声が、途切れ途切れに響いた。
「ならば、あの男も……お前を待っている」
「あの男とは、誰ですか!」
「……いずれ、わかる」
白骨騎士は、それ以上は答えなかった。
黒い霧が渦を巻き、砕けた鎧の輪郭を呑み込んでいく。
霧は周囲へ散らず、白骨騎士の背後に生じた暗い一点へ、吸い込まれるように集まっていった。
白骨騎士の巨体は一歩も退かぬまま、骨も鎧も霧へほどけ、月光の下から掻き消えた。
あとに残されたのは、砕け落ちた片腕と、石床へ転がった長柄の戦斧だけだった。
霧の名残だけが、しばらく水面の上に漂っていた。
「くそっ、消えやがった……!」
ボレスは、刃元から折れた片手斧へ一度だけ目を落とした。
それから舌打ちとともに石床へ放り、霧の消えた空間を睨みつけた。
エレナリアは、霧の消えた空間を見つめた。
「逃げ道を通ったのではありません。何者かの術に、引き戻されたように見えました」
エステルも鞭を引き戻した。
「どちらにしても、追う道はないということね」
ボレスは霧の消えた辺りをしばらく睨み、それから、大きく息を吐いた。
「……ちっ。分かってるよ」
その時、遠くで低い軋みが響いた。
どこかで、石の割れる音がした。
天井から、細かな砂が落ちてくる。
崩壊の前触れと断じるには、まだ小さな異変だった。
◇
石床には、白骨騎士の長柄の戦斧が残されていた。
砕け落ちた腕の骨は、死霊術を失ったのか、見る間に灰のように崩れていく。
だが、戦斧だけは、確かな重量を持ってそこにあった。
ボレスが歩み寄ろうとする。
「待ってください。まだ触らないでください」
エレナリアは手袋に破れがないことを確かめた。
ボレスが戦斧へ布をかぶせ、柄をわずかに持ち上げた。
エレナリアは杖に体重を預けたまま、まず太陽のプーラの光を戦斧へ近づけた。
死霊術による束縛は、もう残っていない。
ただ、死の魔力が刃と柄に深く染みついている。
続いて、月のプーラでも確かめる。
魂の残響はない。
白骨騎士の核でもない。
エレナリアは月の光を消した。
「このまま使うのは危険です。でも、浄化できれば……武器としては、使えるかもしれません」
「なら、置いてはいけねえな」
ボレスは荷袋から布をもう一枚取り出した。
「こんな物を、次の死霊に拾わせるわけにもいかねえからな」
素手では触れず、布で刃と柄を厳重に包み、担ぎ上げる。
「細かく調べるのは、帰ってからだ」
その間にも、天井から落ちる砂は、少しずつ増えていた。
水滴が、ひとつ、またひとつと、水面へ波紋を作る。
◇
エレナリアは、手の中の月のプーラを見つめた。
青白い宝玉は、冷たく、静かに脈打っている。
胸元の太陽のプーラの温かさとは、対照的だった。
ふいに。
滑らかな鏡面に、波紋が広がった。
波紋の中心に、一瞬、人の姿が映った。
背の高い、男性の輪郭だった。
エレナリアは息を呑んだ。
顔は、見えない。
霧のような青白い光が、その面を覆っている。
――お父様……? それとも。
『あの男も、お前を待っている』
白骨騎士の言葉が、胸の奥で重く響いた。
「あなたは――」
呼びかけた声が、届く前に。
姿は、水へ溶けるように消えた。
その直後だった。
地の底から、強い地鳴りが突き上げた。
◇
聖堂全体が、大きく軋んだ。
円形の祭壇から四基の柱へ伸びていた青白い光の筋が、次々と途切れていく。
祭壇からは、放射状に亀裂が走り始めた。
それと同時に、天井を覆う透明な岩盤が低く鳴った。
頭上の湖水に押されるように、岩盤の一部がわずかにたわむ。
天井から落ちていた水滴が、瞬く間に幾筋もの水流へ変わった。
石柱の一本が、根元からゆっくりと傾き始める。
ファブリが祭壇と四基の柱を見回した。
「そうか――月のプーラを核にした結界が、頭上の湖水の圧力を四基の柱へ逃がしていたんだ! 外したせいで、結界の支えが――」
「説明は走りながらにしろ!」
ボレスが布に包んだ戦斧を担ぎ直し、出口を指した。
エレナリアは立ち上がろうとした。
だが、足へ力を込めた途端、脇腹に激痛が走った。
呼吸が詰まり、膝が石床へ落ちる。
「エレナ!」
エステルがすぐに駆け寄った。
「大丈夫です。これくらい……」
「やせ我慢しないの!」
エステルは返事を待たず、エレナリアの手から月のプーラを素早く掴み取った。
宝玉を荷袋へ慎重に収め、口を固く締めた。
それから荷袋と杖を、ファブリへ差し出した。
「これを持って。絶対に落とさないで」
「私が?」
「ほかに誰がいるの。早く持ちなさい!」
「わ、分かった!」
ファブリは月影の鍵を懐へ収め、荷袋を肩へ掛けた。
さらに杖を受け取り、脇へ抱えた。
エステルはエレナリアの前へ背を向け、身を低くした。
「乗って」
「でも、エステルさんまで動きにくく――」
「黙って私の肩につかまりなさい」
有無を言わせない声だった。
さらに大きな亀裂音が響いた。
頭上の透明な岩盤へ白い亀裂が走り、その隙間から幾筋もの水が漏れ始めた。
エレナリアはためらいながらも、エステルの背へ身体を預けた。
持ち上げられた瞬間、脇腹が軋み、思わず息を呑む。
けれど、触れた背中は思いのほか温かく、彼女を支える腕には少しの迷いもなかった。
「痛む?」
「……少しだけです」
「子供がやせ我慢しないの。落ちないようにつかまって」
エステルはエレナリアの脚を支え、立ち上がった。
ファブリは杖を抱えたまま先頭へ走った。
「こっちだ! ついてきてくれ!」
エレナリアを背負ったエステルが、その後に続く。
「後ろは俺が見る。止まるな!」
ボレスは布に包んだ戦斧を担ぎ、最後尾から三人を追った。
背後で、ひときわ大きな音が響いた。
月鏡の祭壇が崩れ落ちた。
直後、頭上の透明な岩盤の一部が砕け、黒い湖水が滝のように聖堂へ落ちてきた。
月を映していた水鏡は、濁流に呑まれ、もうどこにもなかった。




