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第15話 月影に立つ者

背後で、水の落ちる音が壁を震わせていた。


「こっちだ! 右の階段へ!」


ファブリの声が、崩れかけた回廊に反響する。

肩にはエレナリアの荷袋。杖を脇に抱え、空いた手に灯りを掲げて先を走っていた。


エレナリアは、エステルの背に揺られていた。

一歩ごとに、脇腹の奥へ鈍い痛みが突き上げてくる。

石を蹴る足音、荒い呼吸、背中越しに伝わる体温。

それらが、痛みと一緒に身体へ届いた。


「舌、噛まないようにね」


エステルが短く言った。

息が上がっているのに、足取りは乱れない。


「……はい」


答えるだけで脇腹が軋んだ。


「上へ急げ! 水が来るぞ!」


最後尾のボレスが怒鳴った。

布に包んだ長柄の戦斧を担いだまま、後方へ何度も目を配っている。


管理用通路の天井がいくつも裂けていた。

そこから流れ落ちた水は、すでに一行の膝まで達していた。

先ほど越えた第二の封印の扉は、湖水に押されて震えていた。


ファブリが先頭で階段を駆け上がる。

エステルはエレナリアを背負って続き、ボレスが水を蹴りながら最後尾を守った。


半ば水没した礼拝堂を抜けたとき、正面の黒い扉はすでに斜めに傾いていた。

ファブリが最後に振り返った。


「……長い間、月を守ってくれたな」


短くそれだけ言い、彼は外へ走り出た。



島の岸には、来たときの小舟が繋がれたままだった。


エステルがエレナリアを舟の中央へ横たえた。

荷袋と杖、布に包まれた長柄の戦斧も、揺れないよう舟底へ固定された。


「櫂は私が持つわ。ファブリ、杭を見て」


「ああ」


ボレスが舳先へ移り、いつも斧を握っていた手で舟縁をつかんだ。


舟が岸を離れた。


来たときの霧は、すでに晴れていた。

だが湖面は、来たときよりも荒れている。


「杭だ。三本先、左へ寄せてくれ」


ファブリの指示に従って、エステルが櫂を操った。


エレナリアは横たわったまま、遠ざかっていく島を見ていた。


石段が水に沈んでいく。

苔むした壁が傾き、蔦ごと湖へ滑り落ちる。


やがて、尖塔がゆっくりと傾いた。


音は、遠かった。

大きな水柱が上がり、白い泡が広がっていく。


尖塔の先端が、最後に水面から消えた。

あとには、渦を巻く水面だけが残った。


「……沈みましたね」


「ああ」


ファブリは、それきり何も言わなかった。



岸には、テオフィラと領兵たちが待っていた。


舟が桟橋へ着くと、テオフィラは足早にファブリのもとへ歩み寄った。


そして夫の顔を見上げ、両手を取り、擦り傷だらけの指から手のひらまで順に確かめた。


「お帰りなさい」


「……ただいま」


それだけだった。

二人はしばらく手を握ったまま、互いを見ていた。


やがてテオフィラは顔を上げ、舟の中で苦しげに横たわるエレナリアへ目を留めた。


「――医師を。すぐに呼んでちょうだい。それから板と毛布を」


声色が、当主夫人のものへ切り替わった。


「領主館の東の部屋を空けて。湯も用意して」


領兵たちが慌ただしく動き出す。


エレナリアが運ばれる間際、テオフィラは彼女の額へ手を当てた。


「ひどいお怪我を……すぐに医師に診せますから、どうか安心してください」


テオフィラは、そっと手を離した。


「よく夫を連れて帰ってくれました。あとは、私たちの仕事です」



領主館の診察は、思ったより長くかかった。


医師は脇腹を丁寧に触診し、何度もエレナリアへ息を吸わせた。

そのたびに、鋭い痛みが走った。


「肋骨にひびが入っているかもしれん。二本か、三本か」


医師は布と包帯を巻きながら言った。


「折れて内側へ刺さってはおらんようだ。だが、無理をすればどうなるか分からん。痛みをこらえて、無理に深く息を吸うな。重い物を持つな。走るな」


「……はい」


「特に、術は使うな。腹に力が入る」


エレナリアは頷いた。


胸元の太陽のプーラが、静かに熱を持っていた。

けれど今は、それを灯す気力さえ湧かなかった。


診察を終えて東の部屋へ運ばれる途中、中庭から斧が風を切る音が聞こえた。


エレナリアが顔を向けると、ボレスが領兵から借りたらしい片手斧を、手の中で二、三度振っていた。


「……まあ、なんとかなるか」


その隣には、布で幾重にも包まれた長柄の戦斧が立てかけてあった。

ボレスは包みの上から柄の位置だけを確かめ、すぐに手を離した。


それから、近くを通りかかった使用人を呼び止めた。


「嬢ちゃんの夕飯、肉を多めにしてやってくれ」


包み直された戦斧は、そのままクッカ車の荷台へ積み込まれた。


その夜、一行は領主館で休んだ。


本来なら、数日は動かずに休むべきだった。

だが、月のプーラを狙う者たちが、これで諦めるとは思えない。


「狙われているのは私たちよ。次は領民まで巻き込むわ」


エステルの言葉に、誰も異を唱えなかった。


医師からは、道中もできる限り横になっているよう念を押された。

それでも、一行は翌朝の出発を選んだ。



翌朝。


出発の準備が進む中庭で、ファブリがエレナリアの前に立った。


ファブリに月のプーラを出すよう求められ、エレナリアは荷袋から布包みを取り出した。

ファブリはそれを受け取ると、包みを解かずに見下ろした。


「守護家の務めは、月のプーラを守ることだった。だが礼拝堂は失われた」


ファブリは、エレナリアの胸元へ目を向けた。


「この地に留めておくより、太陽と月を共鳴させた君に託した方がいい」


彼はそのまま、包みを差し出した。


「月のプーラは、君に託す」


エレナリアは、両手で布包みを受け取った。

指を通して、石のような冷たさが伝わってくる。


「……私が持っていて、よろしいのですか?」


「君なら碑文の警句を忘れないだろう」


「……はい。決して忘れません」


留めるは一時、縛るは咎。


エレナリアは荷袋の奥へ、月のプーラを丁寧に収めた。


クッカ車の支度が整う頃、エレナリアは荷台に横たわったまま、中庭を眺めていた。


少し離れた場所に、エステルが立っている。

その視線を追うと、玄関前でテオフィラと言葉を交わすファブリがいた。


妻が夫の外套の襟を直し、夫が何か言う。

テオフィラが小さく笑った。


エステルは、しばらくその光景を見ていた。


やがてファブリが一人になると、エステルは静かに歩み寄った。

二人は荷台からそう離れていなかった。声は、こちらまで届いた。


「ファブリ」


「なんだ」


「九年前、何も言わずに消えたことは……悪かったと思っているわ」


ファブリは一瞬だけ黙った。


「……九年越しに聞けた。それで十分だ」


「許してくれるの?」


「許すかどうかを考える時期は、もう過ぎた」


その声には、もうエステルを責める響きは残っていなかった。


エステルは何も言わず、小さく頷いた。



クッカ車が動き出す直前。


ボレスが御者台へ座り、エステルが最後に踏み台へ足を掛けたとき、ファブリが声を掛けた。


「エステル」


「何?」


「今度は、何も言わずに消えるなよ」


エステルの眉が、わずかに上がった。


「戻るとは約束できないわ」


「違う」


ファブリは首を振った。


「仲間に行き先くらい伝えろという意味だ」


エステルは、クッカ車の中を見た。


荷台で毛布に包まれたエレナリアと、御者台で手綱を握るボレス。

ボレスは手綱から目を上げず、口を挟まなかった。

エレナリアも、毛布の中で黙っていた。


「……そうね。今は、そうするわ」


エステルは荷台へ乗り込み、扉を閉めた。


門の前で、テオフィラが深く頭を下げていた。

その隣で、ファブリが片手を挙げていた。


クッカ車は、湖畔領を後にした。



地の底に、月の光は届かない。


冷たい石の広間の中央で、黒い鎧の影が跪いていた。


片腕は、肘から先がない。

胸当ては大きく割れ、その奥に覗く黒い核には、深い亀裂が走っている。

鎧の継ぎ目を這う黒い霧が、崩れかけた輪郭を辛うじてつなぎ止めていた。


片方の眼窩に灯る鬼火は、消えかけの蝋燭のように揺らいでいた。


広間の柱の陰に、もう一つの影が立っていた。


全身を黒い鎧と外套に包み、閉じた兜で顔を隠している。


闇の奥から、声が響いた。


「月はどうした」


「……ヴァルキエルの娘の手に」


白骨騎士の声は、骨が擦れるような音を伴っていた。


「太陽と月は共鳴し、私の核を暴きました」


短い沈黙が落ちた。


「そうか。二つは揃ったか」


その声は、怒鳴らなかった。

白骨騎士が、頭蓋を上げた。


「もう一度、機会を――」


「必要ない。お前の役目は終わった」


闇から、青白い糸が伸びた。


糸は白骨騎士の胸へ届き、割れた鎧の奥、亀裂の走る核へ絡みついた。


そして、引かれた。


眼窩の鬼火が、ふつりと消えた。


支えを失った黒い鎧と白い骨が、音を立てて石床へ崩れ落ちた。

引き抜かれた青白い光は、糸を伝って、そのまま闇の奥へ吸い戻されていった。


あとには、骨と鉄の山だけが残った。


その音にも、柱際の騎士は微動だにしなかった。


闇の奥の声が、今度は柱際の騎士へ向けられた。


「次は、お前が行け」


「月を奪え。ヴァルキエルの娘から」


「……承知した」


騎士は一礼した。


そして、闇の中へ歩み去っていった。



クッカ車の荷台は、規則正しく揺れていた。

車輪が石を踏むたび、脇腹へ振動が届く。


エレナリアは毛布の下で息を浅くしながら、天井の板を見ていた。

窓の外では、いつのまにか日が暮れていた。

街道脇を流れていく木立が、濃い影へ沈んでいる。


そのとき、脇に置いた荷袋へ添えていた指先に、冷たい震えが伝わった。


一度。


エレナリアは荷袋へ目を向けた。


しばらくして、また一度。

今度は、布越しにもはっきりと分かった。


月のプーラが、荷袋の奥で脈打っている。


そして、クッカ車が進むほど、その間隔は短くなっていった。

胸元の太陽のプーラが宿す熱とは、まるで違う冷たさだった。

何かへ近づいているのだと、身体が先に理解していた。


「……エステルさん」


「どうしたの?」


「止めてください」


エステルが御者台へ声を投げた。

ボレスが手綱を引いた。


クッカ車が、街道の上で止まった。



月が出ていた。


雲のない夜空から、青白い光が街道へ落ちている。


その光の中心に、一人の騎士が立っていた。


全身を覆う黒い鎧。

風のない道で、外套の裾だけがわずかに揺れている。

兜は閉じられ、顔は見えない。


エステルが先に降り、鞭を解いた。


「――誰?」


答えはない。


ボレスが借りた片手斧を構え、荷台の前へ回り込んだ。


「嬢ちゃん、寝てろ」


「……いえ」


エレナリアは毛布を押しのけ、荷台の縁へ手をついた。

起き上がろうとしただけで、脇腹が悲鳴を上げた。


それでも、目だけは騎士から離せなかった。


騎士が、剣の柄へ手を掛けた。

その動作を見た瞬間、エレナリアの背が冷えた。


立ち姿。

わずかに落ちた左肩の傾き。

柄へ指を掛ける前に、一度だけ手首を返す癖。


見たことがある。

何度も、何度も見た。

屋敷の中庭で。

稽古を終えた夕暮れの光の中で。


「……そんな」


騎士が、もう片方の手を兜へ掛けた。

留め具を外す音が、静かな街道に響いた。


そして、兜が持ち上げられた。

月光の下に、顔が現れた。


青白い肌。

血の気のない唇。

乱れた金の髪。


面影は、確かに残っていた。

記憶の中の顔より、少しだけ痩せている。

けれど、間違えるはずがなかった。


「……お兄様?」


エレナリアの声が、震えた。


男の表情は動かなかった。

その瞳には、驚きも、懐かしさも浮かばない。

ただ、月の光を映しているだけだった。


騎士は長剣を抜いた。


「月のプーラを渡せ」

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