第15話 月影に立つ者
背後で、水の落ちる音が壁を震わせていた。
「こっちだ! 右の階段へ!」
ファブリの声が、崩れかけた回廊に反響する。
肩にはエレナリアの荷袋。杖を脇に抱え、空いた手に灯りを掲げて先を走っていた。
エレナリアは、エステルの背に揺られていた。
一歩ごとに、脇腹の奥へ鈍い痛みが突き上げてくる。
石を蹴る足音、荒い呼吸、背中越しに伝わる体温。
それらが、痛みと一緒に身体へ届いた。
「舌、噛まないようにね」
エステルが短く言った。
息が上がっているのに、足取りは乱れない。
「……はい」
答えるだけで脇腹が軋んだ。
「上へ急げ! 水が来るぞ!」
最後尾のボレスが怒鳴った。
布に包んだ長柄の戦斧を担いだまま、後方へ何度も目を配っている。
管理用通路の天井がいくつも裂けていた。
そこから流れ落ちた水は、すでに一行の膝まで達していた。
先ほど越えた第二の封印の扉は、湖水に押されて震えていた。
ファブリが先頭で階段を駆け上がる。
エステルはエレナリアを背負って続き、ボレスが水を蹴りながら最後尾を守った。
半ば水没した礼拝堂を抜けたとき、正面の黒い扉はすでに斜めに傾いていた。
ファブリが最後に振り返った。
「……長い間、月を守ってくれたな」
短くそれだけ言い、彼は外へ走り出た。
◇
島の岸には、来たときの小舟が繋がれたままだった。
エステルがエレナリアを舟の中央へ横たえた。
荷袋と杖、布に包まれた長柄の戦斧も、揺れないよう舟底へ固定された。
「櫂は私が持つわ。ファブリ、杭を見て」
「ああ」
ボレスが舳先へ移り、いつも斧を握っていた手で舟縁をつかんだ。
舟が岸を離れた。
来たときの霧は、すでに晴れていた。
だが湖面は、来たときよりも荒れている。
「杭だ。三本先、左へ寄せてくれ」
ファブリの指示に従って、エステルが櫂を操った。
エレナリアは横たわったまま、遠ざかっていく島を見ていた。
石段が水に沈んでいく。
苔むした壁が傾き、蔦ごと湖へ滑り落ちる。
やがて、尖塔がゆっくりと傾いた。
音は、遠かった。
大きな水柱が上がり、白い泡が広がっていく。
尖塔の先端が、最後に水面から消えた。
あとには、渦を巻く水面だけが残った。
「……沈みましたね」
「ああ」
ファブリは、それきり何も言わなかった。
◇
岸には、テオフィラと領兵たちが待っていた。
舟が桟橋へ着くと、テオフィラは足早にファブリのもとへ歩み寄った。
そして夫の顔を見上げ、両手を取り、擦り傷だらけの指から手のひらまで順に確かめた。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
それだけだった。
二人はしばらく手を握ったまま、互いを見ていた。
やがてテオフィラは顔を上げ、舟の中で苦しげに横たわるエレナリアへ目を留めた。
「――医師を。すぐに呼んでちょうだい。それから板と毛布を」
声色が、当主夫人のものへ切り替わった。
「領主館の東の部屋を空けて。湯も用意して」
領兵たちが慌ただしく動き出す。
エレナリアが運ばれる間際、テオフィラは彼女の額へ手を当てた。
「ひどいお怪我を……すぐに医師に診せますから、どうか安心してください」
テオフィラは、そっと手を離した。
「よく夫を連れて帰ってくれました。あとは、私たちの仕事です」
◇
領主館の診察は、思ったより長くかかった。
医師は脇腹を丁寧に触診し、何度もエレナリアへ息を吸わせた。
そのたびに、鋭い痛みが走った。
「肋骨にひびが入っているかもしれん。二本か、三本か」
医師は布と包帯を巻きながら言った。
「折れて内側へ刺さってはおらんようだ。だが、無理をすればどうなるか分からん。痛みをこらえて、無理に深く息を吸うな。重い物を持つな。走るな」
「……はい」
「特に、術は使うな。腹に力が入る」
エレナリアは頷いた。
胸元の太陽のプーラが、静かに熱を持っていた。
けれど今は、それを灯す気力さえ湧かなかった。
診察を終えて東の部屋へ運ばれる途中、中庭から斧が風を切る音が聞こえた。
エレナリアが顔を向けると、ボレスが領兵から借りたらしい片手斧を、手の中で二、三度振っていた。
「……まあ、なんとかなるか」
その隣には、布で幾重にも包まれた長柄の戦斧が立てかけてあった。
ボレスは包みの上から柄の位置だけを確かめ、すぐに手を離した。
それから、近くを通りかかった使用人を呼び止めた。
「嬢ちゃんの夕飯、肉を多めにしてやってくれ」
包み直された戦斧は、そのままクッカ車の荷台へ積み込まれた。
その夜、一行は領主館で休んだ。
本来なら、数日は動かずに休むべきだった。
だが、月のプーラを狙う者たちが、これで諦めるとは思えない。
「狙われているのは私たちよ。次は領民まで巻き込むわ」
エステルの言葉に、誰も異を唱えなかった。
医師からは、道中もできる限り横になっているよう念を押された。
それでも、一行は翌朝の出発を選んだ。
◇
翌朝。
出発の準備が進む中庭で、ファブリがエレナリアの前に立った。
ファブリに月のプーラを出すよう求められ、エレナリアは荷袋から布包みを取り出した。
ファブリはそれを受け取ると、包みを解かずに見下ろした。
「守護家の務めは、月のプーラを守ることだった。だが礼拝堂は失われた」
ファブリは、エレナリアの胸元へ目を向けた。
「この地に留めておくより、太陽と月を共鳴させた君に託した方がいい」
彼はそのまま、包みを差し出した。
「月のプーラは、君に託す」
エレナリアは、両手で布包みを受け取った。
指を通して、石のような冷たさが伝わってくる。
「……私が持っていて、よろしいのですか?」
「君なら碑文の警句を忘れないだろう」
「……はい。決して忘れません」
留めるは一時、縛るは咎。
エレナリアは荷袋の奥へ、月のプーラを丁寧に収めた。
クッカ車の支度が整う頃、エレナリアは荷台に横たわったまま、中庭を眺めていた。
少し離れた場所に、エステルが立っている。
その視線を追うと、玄関前でテオフィラと言葉を交わすファブリがいた。
妻が夫の外套の襟を直し、夫が何か言う。
テオフィラが小さく笑った。
エステルは、しばらくその光景を見ていた。
やがてファブリが一人になると、エステルは静かに歩み寄った。
二人は荷台からそう離れていなかった。声は、こちらまで届いた。
「ファブリ」
「なんだ」
「九年前、何も言わずに消えたことは……悪かったと思っているわ」
ファブリは一瞬だけ黙った。
「……九年越しに聞けた。それで十分だ」
「許してくれるの?」
「許すかどうかを考える時期は、もう過ぎた」
その声には、もうエステルを責める響きは残っていなかった。
エステルは何も言わず、小さく頷いた。
◇
クッカ車が動き出す直前。
ボレスが御者台へ座り、エステルが最後に踏み台へ足を掛けたとき、ファブリが声を掛けた。
「エステル」
「何?」
「今度は、何も言わずに消えるなよ」
エステルの眉が、わずかに上がった。
「戻るとは約束できないわ」
「違う」
ファブリは首を振った。
「仲間に行き先くらい伝えろという意味だ」
エステルは、クッカ車の中を見た。
荷台で毛布に包まれたエレナリアと、御者台で手綱を握るボレス。
ボレスは手綱から目を上げず、口を挟まなかった。
エレナリアも、毛布の中で黙っていた。
「……そうね。今は、そうするわ」
エステルは荷台へ乗り込み、扉を閉めた。
門の前で、テオフィラが深く頭を下げていた。
その隣で、ファブリが片手を挙げていた。
クッカ車は、湖畔領を後にした。
◇
地の底に、月の光は届かない。
冷たい石の広間の中央で、黒い鎧の影が跪いていた。
片腕は、肘から先がない。
胸当ては大きく割れ、その奥に覗く黒い核には、深い亀裂が走っている。
鎧の継ぎ目を這う黒い霧が、崩れかけた輪郭を辛うじてつなぎ止めていた。
片方の眼窩に灯る鬼火は、消えかけの蝋燭のように揺らいでいた。
広間の柱の陰に、もう一つの影が立っていた。
全身を黒い鎧と外套に包み、閉じた兜で顔を隠している。
闇の奥から、声が響いた。
「月はどうした」
「……ヴァルキエルの娘の手に」
白骨騎士の声は、骨が擦れるような音を伴っていた。
「太陽と月は共鳴し、私の核を暴きました」
短い沈黙が落ちた。
「そうか。二つは揃ったか」
その声は、怒鳴らなかった。
白骨騎士が、頭蓋を上げた。
「もう一度、機会を――」
「必要ない。お前の役目は終わった」
闇から、青白い糸が伸びた。
糸は白骨騎士の胸へ届き、割れた鎧の奥、亀裂の走る核へ絡みついた。
そして、引かれた。
眼窩の鬼火が、ふつりと消えた。
支えを失った黒い鎧と白い骨が、音を立てて石床へ崩れ落ちた。
引き抜かれた青白い光は、糸を伝って、そのまま闇の奥へ吸い戻されていった。
あとには、骨と鉄の山だけが残った。
その音にも、柱際の騎士は微動だにしなかった。
闇の奥の声が、今度は柱際の騎士へ向けられた。
「次は、お前が行け」
「月を奪え。ヴァルキエルの娘から」
「……承知した」
騎士は一礼した。
そして、闇の中へ歩み去っていった。
◇
クッカ車の荷台は、規則正しく揺れていた。
車輪が石を踏むたび、脇腹へ振動が届く。
エレナリアは毛布の下で息を浅くしながら、天井の板を見ていた。
窓の外では、いつのまにか日が暮れていた。
街道脇を流れていく木立が、濃い影へ沈んでいる。
そのとき、脇に置いた荷袋へ添えていた指先に、冷たい震えが伝わった。
一度。
エレナリアは荷袋へ目を向けた。
しばらくして、また一度。
今度は、布越しにもはっきりと分かった。
月のプーラが、荷袋の奥で脈打っている。
そして、クッカ車が進むほど、その間隔は短くなっていった。
胸元の太陽のプーラが宿す熱とは、まるで違う冷たさだった。
何かへ近づいているのだと、身体が先に理解していた。
「……エステルさん」
「どうしたの?」
「止めてください」
エステルが御者台へ声を投げた。
ボレスが手綱を引いた。
クッカ車が、街道の上で止まった。
◇
月が出ていた。
雲のない夜空から、青白い光が街道へ落ちている。
その光の中心に、一人の騎士が立っていた。
全身を覆う黒い鎧。
風のない道で、外套の裾だけがわずかに揺れている。
兜は閉じられ、顔は見えない。
エステルが先に降り、鞭を解いた。
「――誰?」
答えはない。
ボレスが借りた片手斧を構え、荷台の前へ回り込んだ。
「嬢ちゃん、寝てろ」
「……いえ」
エレナリアは毛布を押しのけ、荷台の縁へ手をついた。
起き上がろうとしただけで、脇腹が悲鳴を上げた。
それでも、目だけは騎士から離せなかった。
騎士が、剣の柄へ手を掛けた。
その動作を見た瞬間、エレナリアの背が冷えた。
立ち姿。
わずかに落ちた左肩の傾き。
柄へ指を掛ける前に、一度だけ手首を返す癖。
見たことがある。
何度も、何度も見た。
屋敷の中庭で。
稽古を終えた夕暮れの光の中で。
「……そんな」
騎士が、もう片方の手を兜へ掛けた。
留め具を外す音が、静かな街道に響いた。
そして、兜が持ち上げられた。
月光の下に、顔が現れた。
青白い肌。
血の気のない唇。
乱れた金の髪。
面影は、確かに残っていた。
記憶の中の顔より、少しだけ痩せている。
けれど、間違えるはずがなかった。
「……お兄様?」
エレナリアの声が、震えた。
男の表情は動かなかった。
その瞳には、驚きも、懐かしさも浮かばない。
ただ、月の光を映しているだけだった。
騎士は長剣を抜いた。
「月のプーラを渡せ」




