第16話 届かない呼び声
街道は木立の間を縫うように続き、少し先から緩やかな下りになっていた。
右手には浅い排水溝が走り、左手には木々の生えた斜面が迫っている。
クッカ車がその場で向きを変えられるほどの幅はない。
月明かりの下で、止まった車輪が小さく軋んだ。
クッカの荒い鼻息と、木々の葉が擦れる音だけが、張り詰めた街道に残っている。
エレナリアの脇には荷袋が置かれ、杖は荷台の内壁に沿って寝かされていた。
「……お兄様。私です。エレナリアです」
レオンは答えなかった。
月光を映す瞳は、エレナリアの顔へ向けられていない。
その視線は、彼女の脇に置かれた荷袋へ落ちていた。
呼び方を変えれば届くのではないか。
もっと大きな声なら、こちらを見てくれるのではないか。
そんな考えが喉元までせり上がったが、エレナリアは二度目の呼びかけを飲み込んだ。
荷台とレオンの間に立つボレスが、片手斧を肩の高さまで持ち上げた。
「来るぞ」
レオンの膝が沈み、爪先が石を蹴った。
長剣の柄頭に埋め込まれた、小さな星形の銀白石が月光を返す。
長剣と斧が噛み合い、鋭い金属音が街道へ響いた。
だが、レオンは押し込まなかった。
斧の側面へ刃を寝かせ、そのまま滑らせる。
弾かれた斧が外へ流れ、レオンの肩がボレスの脇へ入り込んだ。
ボレスが片足を横へずらし、身体ごと進路へ立ちはだかる。
「行かせないわよ!」
エステルの手首がしなり、風を纏った鞭が伸びた。
革の先端がレオンの剣腕へ二重に巻きつき、エステルが体重をかけて引く。
黒い籠手が、わずかに外へ引きずられた。
しかし、レオンは引き戻さなかった。
腰から先に半身を返し、鞭の張りに乗って身体を回す。
回転の勢いがそのまま剣先へ乗り、返した刃がボレスの斧を外側へ跳ね上げた。
不意に手応えが消え、エステルの上体が前へよろける。
斧につられたボレスの肩も、大きく流れた。
一瞬だけ、ボレスの脇腹が無防備になる。
長剣は届く位置にあった。
それでも刃は振るわれなかった。
レオンは開いた脇へ足を差し入れ、荷台へ踏み出そうとする。
「行かせるかよ、そこは通行止めだ!」
流された斧を引き戻したボレスが、柄を横に倒して胸の前へ構え、その進路を塞いだ。
「あんたの相手は私たちよ!」
エステルも巻きついたままの鞭を両手で握り直し、体重を後ろへ預けて引く。
前へ出ようとする鎧の足が、石の上で止まった。
力へ逆らわず、相手の勢いを利用する。
それは、エレナリアが何度も見た兄の剣だった。
かつて彼女を背に庇い、稽古相手の剣を退けた技だった。
その同じ動きが、今は月のプーラへ近づくためだけに使われている。
エレナリアは横たわったまま腕を伸ばし、荷袋の口へ指を差し入れた。
布越しに冷たい丸みを探り、月のプーラを引き出す。
光を広げた途端、脇腹が内側から締めつけられた。
息が浅くなる。
耐えられない痛みではない。
だが、長く続けられるものでもなかった。
青白い波紋が、二人に阻まれたレオンの身体を通り抜けた。
指。
手首。
肘。
肩。
背骨に沿って走る糸。
膝と足首へ伸びる糸。
無数の細い糸が関節を結び、身体の動きを支えていた。
だが、胸部には何もない。
白骨騎士の黒い核に当たる一点が、どこにも見当たらなかった。
さらに糸は背中側から身体の外へ伸びている。
外へ出た後も一つには集まらず、幾筋にも分かれたまま街道の闇へ溶けていた。
「核が、ありません」
エレナリアは痛みを押し込み、声を張った。
「糸が身体の外へ伸びて、いくつにも分かれています」
「なら、どうやって止める!」
ボレスが斧の柄を胸元に構え、全身で押し返しながら叫ぶ。
靴底が石の上を擦り、じりじりと後ろへ削られていた。
「今は、支配を断てません。離れます!」
エレナリアは光を消し、月のプーラを袋へ押し戻した。
その瞬間、レオンが鞭の張りに合わせて膝を折り、身を沈めた。
剣腕を鞭の輪から引き抜き、長剣の腹で斧の柄を押し上げる。
生まれた隙間へ、肩から潜り込んだ。
エレナリアが袋を脇へ引き寄せたときには、黒い鎧はもう荷台のすぐ下まで来ていた。
抜かれたボレスも斧を引き戻し、その背後へ追いすがる。
左の籠手が荷台の縁をつかむ。
指が板へ食い込み、木が軋んだ。
続いて、右手の長剣が荷台へ差し込まれる。
柄頭に埋め込まれた小さな星形の銀白石が、エレナリアの目の前で淡く月光を返した。
その刃は、エレナリアの首にも胸にも向かわなかった。
剣の腹が、荷袋を押さえる彼女の前腕の下へ滑り込む。
冷たい鉄が腕を持ち上げ、抱えていた袋が胸元から浮いた。
縁をつかんでいたレオンの左手が板を離れ、袋の口へ伸びた。
エレナリアは反対の手を後ろへ回し、杖の柄をつかんだ。
引き寄せ、石突を床板と側板の角へ押し当てる。
震える腕で、その一点へ体重を預けた。
胸元の太陽のプーラが熱を放った。
深く息は吸えない。
長くは保たない。
エレナリアは金色の光を細く絞った。
狙うのは、レオンの右肩から剣腕へ伸びる一本だけ。
一度目の浅い呼吸。
光が糸へ重なった。
糸は切れない。
ただ、強く張っていたものがわずかにたわむ。
二度目の呼吸。
糸がさらにたわんだ。
レオンの剣腕から一瞬だけ力が抜け、剣の腹がエレナリアの腕から滑り落ちる。
エレナリアは金色の光を切った。
脇腹の奥へ鋭い痛みが走る。
すぐに腕を引き戻し、荷袋を胸の下へ抱え込んだ。
伸びていたレオンの左手が、袋の口を掠めて空をつかむ。
その隙を、エステルは見逃さなかった。
鞭を跳ね上げ、革の先を低く走らせる。
レオンの足首に一巻きした瞬間、纏った風を路肩へ向けて叩きつけた。
同時に、ボレスが斧の柄を横に構え、肩から体重をぶつけた。
黒い鎧が横へ押し出される。
片足が排水溝の縁を踏み外し、そのまま溝底へ落ちた。
上体が大きく傾ぐ。
「エステルさん、御者台へ!」
エステルは鞭を手元へ巻き取りながら走り、踏み台へ飛びついた。
「ボレス、乗って!」
「先に出せ!」
手綱が鳴り、クッカ車が走り出した。
ボレスはレオンを押していた位置から身を引き、動き始めた車体後部へ手を掛けて跳んだ。
荷台の縁へ胸から乗り上げ、片膝で体勢を立て直す。
その直後、レオンが溝から足を抜き、街道を走り始めた。
籠手が車体後部へ伸びる。
指先が縁へ届くより早く、クッカ車は下り坂へ入り、さらに速度を上げた。
長剣が荷台の入口へ滑り込んだ。
ボレスが上体を後ろへ倒す。
切っ先だけが後部の板を掠め、乾いた音とともに木を削った。
細い木片が、エレナリアの毛布の脇へ転がってくる。
車輪が石を連続して踏み、荷台が激しく揺れた。
そのたびに脇腹へ痛みが突き上げる。
それでも、レオンの姿はすぐには消えなかった。
月明かりの街道を、黒い影が一定の速さで追ってくる。
溝へ落としたことで短い遅れは生じたが、追跡開始後は痛みも疲労も見せない。
エレナリアは荷台の縁へ指を掛け、その姿から目を離せなかった。
兄の顔はもう見分けられない。
それでも、黒い輪郭だけはいつまでも月の下に残っていた。
やがて道が大きく曲がった。
木立が間へ入り、レオンの姿が視界から消える。
距離が開いたのか。
ただ木々に遮られただけなのか。
エレナリアには分からなかった。
エステルは速度を緩めなかった。
ボレスも荷台後部に身を伏せたまま、曲がり角の向こうを見張っている。
全身を支えていた緊張が途切れた途端、押し込めていた痛みが脇腹の奥で大きく弾けた。
指から杖が離れ、床板の上へ倒れる。
エレナリアはそのまま荷台へ身体を沈めた。
浅く息をするだけで、傷んだ骨の辺りが軋んだ。
脇へ戻した荷袋の中で、月のプーラは沈黙していた。
先ほどの波紋も、冷たい震えも起こらない。
しばらくして、ボレスが後方を見たまま口を開いた。
「嬢ちゃん」
短い間があった。
「あれは、自分で動いてたのか?」
エレナリアはすぐには答えられなかった。
剣の運びも、重心の移し方も、兄が身につけたものだった。
それでも、あの身体を動かす糸は、兄の外へ続いていた。
「……いいえ」
エレナリアは荷袋へ手を置いた。
「あれは、お兄様の意思ではありません」
指先の下で、月のプーラは何も返さない。
「誰かが、お兄様の身体を動かしています」
車輪の音だけが、夜の街道に続いていた。
レオンがなお背後を走っているのか、確かめる術はなかった。




