第17話 反転した封印
クッカ車が止まったのは、夜明け前だった。
本街道を外れて木立へ入り、崩れかけた石屋根の下へ滑り込むと、車輪の軋みが止んだ。
古い街道休憩所らしく、水飲み場の縁石が半分土に埋もれている。
いつでも走り出せるように、エステルはクッカ車を休憩所の出口へ向けて止めた。
「ボレス、外を見てて」
「言われなくてもな」
ボレスは借りた片手斧を担ぎ、石柱の陰へ身体を寄せた。
夜気が青い髪を乱したが、外から目を離さなかった。
それを見届けて、エステルが荷台へ上がってきた。
「見せて」
毛布をめくり、包帯の上から指を這わせる。
肋骨を一本ずつ、指先でゆっくりと辿った。
「ゆっくり息をして」
「……はい」
言われたとおりに息を吐く。
途中で喉が引きつり、細く途切れた。
エステルの指が止まった。
「痛い?」
「動けます」
「動けるかどうかは聞いてないの」
エステルは包帯から手を離し、赤い外套の前を閉じて、その上から毛布を掛け直した。
「呼吸だけで痛むなら、術の加減もできない。次に何か出てきたとき、あなたは自分の身体すら守れないわ」
エレナリアは言い返さなかった。
「今は休んで。いいわね」
「……はい」
小さく頷く。
毛布の下では、指が荷袋の縁をなぞっていた。
兄は、まだあの街道のどこかにいるかもしれない。
あの身体を、これ以上誰かを傷つけるために使わせたくなかった。
できることなら、自分の手で止めたかった。
それでも、自分が倒れれば二人の足を止めることになる。
エレナリアは静かに目を閉じた。
◇
外が白み始めた頃、ボレスが車の後ろへ回った。
「おい。こいつを見ろ」
荷台後部の板に、新しい白い傷が走っていた。
後方から荷台の内側へ向かって、表面を浅く削った跡だった。
めくれたささくれは、荷台の内側へ反っている。
ボレスは指の腹で傷をなぞり、それから車体の下へ目をやった。
「車輪でも軸でもねえ。あいつは車を止めるより、荷台へ剣を入れようとした」
ボレスがエレナリアを見る。
「狙ってたのは、お前か」
「違います」
エレナリアは毛布の脇に置かれた荷袋へ目を落とした。
「あのとき、お兄様の目は私を見ていませんでした。ずっと、この荷袋を追っていたんです」
エステルの視線が、荷袋へ移る。
「……あなたを斬るより、プーラを奪うことを優先したのね」
「はい」
ボレスは荷台へ身を乗り出し、毛布の折り目に挟まっていた細い木片を拾い上げた。
親指ほどの長さの、薄い破片だった。
傷へ当てる。
裂けた面が、欠けた箇所へぴたりと重なった。
「間違いねえ。ここから飛んだやつだ」
ボレスは木片を荷台の床へ戻し、板の傷をもう一度睨んだ。
やがて、エステルが荷台の縁へ腰を下ろした。
「エレナ。私たちは、あの事件について噂しか知らない」
少し間を置いてから、続けた。
「あの夜、ヴァルキエル家が襲われた理由に、心当たりはある?」
「……ありません」
エレナリアは毛布の端へ目を落とした。
「夜中に、死人が屋敷へ押し寄せてきて……使用人の人たちが、次々に襲われていました」
言葉が、そこで一度切れた。
「お父様の研究棟の方から、赤黒い光が上がっていました。何の光かは、分かりません」
「あなたは?」
「お母様が、地下の通路へ逃がしてくださいました」
毛布を握る指に、力がこもった。
「最後に見たお兄様は、階段の前で死人を食い止めていました」
「誰がやったのかも分からねえのか」
ボレスが外を見たまま言った。
「はい。何のためだったのかも」
風が石屋根の下を抜けていく。
「あの剣の使い方も、兄貴のものなんだな」
「間違いありません」
エレナリアは即座に答えた。
「レオン・ヴァルキエル。私の兄です」
顔だけではない。
剣の柄へ手を掛ける前の、手首の返し方。
力に逆らわず、相手の勢いを利用する体捌き。
どれも、屋敷の中庭で何度も見たものだった。
「生きてるのか?」
「ボレス」
エステルの声が低くなった。
ボレスは外を見たまま、続けた。
「次に会ったとき、迷ってる暇はねえ。あいつは、こっちが考えるのを待っちゃくれねえ」
エレナリアは、すぐには答えられなかった。
兄が死ぬ場面を見ていない。
遺体も、確かめていない。
昨夜、月の光の中で見えたのは、関節を結ぶ糸と、その外へ伸びる線だけだった。
「……分かりません」
声が、思ったより小さく出た。
「お兄様の身体だということは分かります。でも、あの中にお兄様本人が残っているのかは、まだ……」
エステルはしばらくエレナリアを見つめた。
それから毛布の端を引き上げ、乱れた襟元を整えた。
「なら、今はどちらとも決めつけない」
「はい」
「肉食って元気出せ。分からねえなら、確かめるしかねえだろ」
「……どうして、そこでお肉なんですか」
「食わなきゃ、治るもんも治らねえ」
エレナリアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……はい。まず、お兄様に何が起きたのかを確かめます」
答えは、まだない。
けれど、昨夜見た糸の形だけは、瞼の裏に鮮明に残っていた。
◇
しばらく休んでから、エレナリアは身体を起こしたいと言った。
エステルが丸めた毛布を背中へ差し込み、荷袋を重ねて支えにする。
膝の上には、薄い板を一枚渡してもらった。
その上に紙を広げ、炭筆を握る。
「痛んだら、そこで終わりよ」
「はい」
俯くたび、ほどけた亜麻色の髪が紙の端を撫でた。
エレナリアは昨夜見た結び目を、一つずつ紙へ移していく。
指、手首、肘、肩。
背骨を下り、膝と足首へ。
結び目同士を線でつなぎ、最後に、背中側から外へ伸びていた幾筋もの線を描いた。
指が震えた。
線が歪み、意図しない方向へ流れる。
息を整えるために手を止め、また続きを描く。
最後の筋を引き終えたところで、炭筆が止まった。
この配置を、知っている。
ヴァルキエル家の古い封印図。
幼い頃から、写本の頁で何度も目にしてきた形だ。
「……封印図とは、線の閉じ方が逆です」
「封印図?」
エステルが紙を覗き込んだ。
黒髪が肩から落ち、紙の端へ影を作った。
「封印図は、外側から伸びた線を中央へ集めて、最後に円を閉じます。でも、お兄様の身体にあった糸は、関節を結んだまま背中側から外へ伸びていました」
「よく分かんねえけど……封じる術を、人の身体を動かすために使ってるってことか?」
「……そう見えます」
「じゃあ、ヴァルキエル家の術を知ってる奴がやったのか?」
「まだ分かりません」
エレナリアは首を振った。
「似た形を使っているだけかもしれません。家に伝わる封印術の原図と比べなければ、同じ術式だとは言い切れません」
「手に入るの?」
「……分かりません。でも、探します」
エステルはしばらく考えたあと、荷台の外へ目を向けた。
「本街道は避けるわ。小さな宿場をたどりながら、まずは身を隠せる場所を探しましょう。原図のことは、そこで考える」
目的地までは決まらなかった。
それでも、次に取るべき行動だけは定まった。
エレナリアは、もう一度紙へ目を落とした。
関節を結び、背中から外へ開いていく線。
その形を、以前にも見たことがあった。
記憶の中に、薄暗い部屋が浮かぶ。
背伸びをし、両腕で抱えた本を棚へ返しに入った部屋だった。
机の上には、大きな封印図が広げられていた。
正式な術式は、黒い墨で描かれていた。
その余白に、別の色の墨で、円を閉じず外へ伸びる小さな図が書き足されていた。
今、紙に描いたものと同じ形だった。
何を意味する図だったのかは、思い出せない。
誰が書き加えたのかも分からない。
紙の縁をつまむ指に、知らず力が入った。
父の名を口にするには、記憶はまだ曖昧すぎた。
エレナリアは何も告げず、紙を折り畳んだ。
ただ、あの図が置かれていた場所だけは、間違えようがなかった。
父の研究室だった。




