第18話 母の鍵
街道休憩所を離れた三人は、道沿いの廃礼拝所へ身を寄せていた。
廃礼拝所の床は、長年の埃で灰色に沈んでいた。
割れた天窓から差し込む朝の光が、石畳へ細長い帯を落としている。
その光の中に、白骨騎士から回収した長柄戦斧が横たえられていた。
エレナリアは膝をつき、赤い外套の裾を石床へ広げた。
俯くと、亜麻色の髪が肩から滑り落ちる。
片手で耳へ掛け、杖の先を刃へ向けた。
「始めます」
「痛んだら、そこで止めるわよ」
「はい」
簡易浄化の術式を、刃元から柄尻まで走らせた。
黒い霜のようなものが、刃の表面から浮き上がってきた。
「散らすわよ」
エステルが鞭を軽く振った。
起こった風が、浮いた黒い粒を割れた天窓から外へ押し流した。
一度終えるたびに杖を下ろし、浅い呼吸を整えた。
脇腹には鈍い痛みが残ったが、息が途切れるほどではない。
時間を置きながら三度繰り返すと、刃はもう何も吐き出さなくなった。
ボレスが布で刃を拭う。
「染みが残らねえな」
「もう大丈夫です。残っていた死の魔力は取り除きました」
「そいつは助かる。斧を振るたびに恨み言を言われちゃ、落ち着いて飯も食えねえからな」
「武器を持ちながら食べないでください」
ボレスは笑って戦斧を肩へ担ぎ上げた。
長い柄が、天窓の光を横切っていく。
◇
浄化を終えたあと、エレナリアは荷物の底から古い木箱を取り出した。
母に持たされた箱だった。
金貨と、ヴァルキエル家の印章と、家に伝わる記録の一部。
そして、家紋の刻まれた黒鉄の鍵。
何度も開けた箱だ。
中身も、とうに覚えている。
思い返せば、父の研究室で見た封印図の余白にも、小さな書き込みがあった。
何を意味するものだったのかは、まだ思い出せない。
見慣れたものの中にも、気づいていない何かがあるかもしれない。
その思いが、母の箱をもう一度調べさせた。
エレナリアは中身を取り出し、傍らに広げた布の上へ順に並べた。
空になった箱を、割れた天窓の光へ傾ける。
斜めに差した光が、箱底の木目に沿って細く反射する。
その一部だけが、不自然な輪郭を描いていた。
指で埃を拭う。
木目に紛れていた、浅い窪みが現れた。
印章と同じ形だった。
息を詰めて、印章をその窪みへ押し当てる。
かちり、と乾いた音がした。
箱底の薄い板が浮き上がり、下から細長い紙が現れる。
「隠し底……」
古い家伝の書式で、短い一文が記されていた。
――本邸喪失の際は、印章を用いて旧墓所西側より入り、非常継承箱に納めた保守副鍵を使用すること。
「非常継承箱って、この木箱のこと?」
エステルが、エレナリアの手元を覗き込んだ。
「はい。この箱の名前です。ずっと、母が持たせてくれた木箱だとしか思っていませんでした」
「旧墓所って?」
「シケリウム島西部にある、一族の古い墓所です。ヴァルキエル家が本土へ移る前は、その地下で封印の状態を監視していました」
エレナリアは黒鉄の鍵を摘まみ上げた。
「日常の監視設備が本邸へ移されてからも、旧墓所は古い監視施設と研究区画へ入るための非常時の保守口として残されていたはずです」
言葉にしてから、胸の奥が冷えた。
本邸は、もうない。
エレナリアはそれ以上考えず、黒鉄の鍵を握り直した。
「閉鎖された場所の鍵を、なんで持たせるんだ」
ボレスの問いに、エレナリアは少し黙った。
閉鎖されたはずのその区画へ、父はたびたび一人で出かけていた。
理由を尋ねても、いつも曖昧に笑って答えなかった。
「……お母様は、この場所へ行けという意味で箱を渡したのでしょうか」
「そこまでは分からないわ。でも、あなたにこの箱を持たせたこと自体には、理由があったはずよ」
「……はい。まずは、旧墓所を確かめます」
◇
二日後、三人は定期船で海峡を渡り、シケリウム島西岸の港へ着いた。
島の西部に残された旧墓所は、森と岩山の間に沈んでいた。
崩れた礼拝堂の壁が、蔦に覆われて傾いている。
参道の石像はどれも風雨に削られ、表情は分からなかった。
その礼拝堂の西側、露出した岩肌に、地下へ続く鉄扉があった。
苔をこそげ落とすと、ヴァルキエル家の紋章が現れた。
その中央には、印章と同じ形の窪みがあった。
「鍵ではないんだな」
「はい。ここは印章です」
エレナリアは印章を押し当てた。
窪みの縁から淡い光が走り、紋章の線をなぞっていく。
印章に刻まれた家伝の術式が扉の封印と噛み合い、内部で留め金が外れるような音が続いた。
重い軋みとともに、鉄扉が内側へ開く。
冷たい空気が流れ出してきた。
印章を外した直後、扉の内側から淡い線が走った。
光はエレナリアたちの足元を抜け、地下の奥へ消えていった。
「今のは?」
「古い照明術式かもしれません」
赤い外套の裾が、流れ出す風にわずかに揺れる。
エレナリアは、手の中の黒鉄の鍵を見つめた。
生き延びるための金貨。
家名を証明する印章。
地下設備を開く副鍵。
そして、行き先を示す指示書。
母が渡したのは、逃げるための道具だけではなかった。
◇
地下は暗く、灯りの届く範囲だけが浮かんでいた。
廊下を三十歩ほど進んだところで、前を歩いていたボレスが足を止めた。
「おい」
灯りの先に、人の姿があった。
ボレスが長柄戦斧を前へ出す。
エステルも腰の鞭を解き、エレナリアの半歩前へ出た。
「待ってください」
エレナリアは杖を持ち上げ、二人を制した。
灯火を掲げた女性。
その隣で、机に向かって本を読む男。
そして、少し離れた場所に、手を差し伸べている青年がいた。
「……お母様」
エレナリアの喉が鳴った。
「お父様。お兄様」
三人とも、記憶のままの姿だった。
「走りなさい、エレナ」
母の唇が動いた。
あの夜と、同じ声だった。
「お母様、私は――」
「走りなさい、エレナ」
同じ言葉が、同じ抑揚で繰り返される。
父は、エレナリアが幼い頃に借りた本の頁をめくっていた。
「本を読み終えたのか」
「お父様。聞きたいことがあります」
父は顔を上げず、また同じ頁をめくった。
エレナリアは、レオンの方を向いた。
差し出された手は、屋敷の中庭で何度も見たものだった。
稽古のあと、座り込んだ自分を引き起こしてくれた、あの手だ。
「お兄様」
「すぐに追いつく」
一歩、近づきかけた。
背後から、エステルの声が飛んだ。
「エレナ、近づかないで」
エレナリアは答えず、差し出された手を見つめた。
指先が届きそうな距離で、レオンがもう一度言った。
「すぐに追いつく」
エレナリアの足が止まった。
こちらを見ていない。
呼びかけても、何ひとつ変わらない。
目を伏せる。
「……行きましょう」
「エレナ」
「先へ進みます」
エレナリアは杖を握り直し、歩き出した。
差し伸べられた手へ踏み込み、そのままレオンの像をすり抜けた。
赤い外套の裾が、その姿を横切った。
振り返らなかった。
ボレスとエステルが、無言でその後に続いた。
◇
廊下の突き当たりは、円形の広間だった。
床の中央に、大きな石盤が据えられている。
灯りを近づけて、エレナリアは息を呑んだ。
刻まれていたのは、あの図だった。
中央へ集まらず、外へ向かって開いていく線。
自分が紙に写し取ったものと、同じ形だった。
原図そのものではない。
それでも、あの形がヴァルキエル家の設備に実在していたことは分かる。
石盤の縁からは、黒ずんだ金属の導管が何本も伸び、壁の内部へ潜り込んでいる。
古い石造りの設備に、明らかに年代の新しい金属が継ぎ足されていた。
石盤の脇に、綴じられた記録が置かれていた。
埃を払い、頁を開く。
導管の交換日。
調整した数値。
短い注記。
その文字を見た瞬間、エレナリアの指が止まった。
見間違えようがない。
父の筆跡だった。
「エレナ?」
「……お父様が、ここへ来ていました」
父が古い設備へ手を加えていたことだけは、疑いようがなかった。
だが、何のために改造し、何を動かそうとしていたのかまでは、この記録から読み取れない。
背後で、床を擦る音がした。
振り返ると、廊下にいた家族の姿が、広間の入口まで来ていた。
母が灯火を掲げている。
父が本を読んでいる。
レオンが手を差し伸べている。
同じ言葉を、同じ抑揚で繰り返しながら。
エレナリアは荷袋から月のプーラを取り出した。
「一度だけです」
「……本当に一度だけよ。痛みが出たら、すぐ止めなさい」
青白い波紋が、広間へ広がった。
その光の中で、家族の姿が透けた。
魂の光はない。
身体もない。
エレナリアの身体へつながる糸はなかった。
代わりに、石盤から広がる薄い膜が床一面を覆い、三人が通ってきた廊下まで続いていた。
膜の中を、見覚えのある言葉と光景の断片が、石盤へ向かって流れていた。
「残留思念ではありません」
「じゃあ、これは何?」
「扉を開けたとき、この術式に触れたんです。そこで拾われた私の記憶が、空間へ像として映されている……」
だから、問いに答えない。
だから、覚えている言葉しか喋らない。
エレナリアはレオンの像へ向き直った。
「違います。これは、お兄様ではありません」
そして、石盤へ目を戻す。
黒い線が、石盤の中央から幾筋にも分かれていた。
壁を抜け、施設の奥と、外側へ向かって伸びている。
見覚えのある分かれ方だった。
街道で見た、兄の背中から闇へ続いていた線と同じだ。
「もういい。止めなさい」
エステルの声で、エレナリアは光を消した。
途端に、脇腹の奥が鋭く痛んだ。
思わず身体を折り、赤い外套の上から傷を押さえる。
「もう使わないで」
「……はい」
肩で息をしながら、エレナリアは顔を上げた。
「これは、お兄様へ命令を送るための中継装置です」
「壊せば、兄貴は自由になるのか」
「いいえ」
はっきりと首を振った。
「これを壊しても、お兄様の身体を縛る糸は消えません。でも、外から命令を送っている経路は減らせます」
「何本もある道を、一本に絞るってこと?」
エステルの黒い瞳が、石盤の線を辿っていた。
「うまくいけば。残った道をたどれば、術の根元へ近づけるかもしれません」
保守記録の後ろの方に、設備図が挟まっていた。
床の一部が、円形の保守蓋になっていた。
エレナリアが指した場所を、ボレスが足で探る。
石畳の中に、縁の見える丸い蓋があった。
「鍵穴があるぞ」
「そこです」
黒鉄の副鍵を差し込み、回した。
錆びた音を立てて、留め金が外れた。
ボレスが蓋の縁へ指を掛け、持ち上げた。
下は、思ったより深い縦穴だった。
手を伸ばしても、導管には届かなかった。
その穴を横切るように、太い金属導管が一本走っていた。
表面には、黒い筋が幾重にも絡みついていた。
「腕じゃ届かねえな」
ボレスが長柄戦斧を下ろした。
刃を穴へ差し入れ、導管の裏側へ引っ掛ける。
それから、長い柄を石床の縁へ当てた。
「振り回すより、こっちの方が向いてそうだな」
「絡みつく方は私が止めるわ」
エステルの鞭が風を纏い、穴の縁で低く旋回した。
ボレスが柄へ体重を掛けた。
導管が壁から浮きかける。
だが、黒い筋が、浮き上がった導管と壁の隙間へ集まり、元の位置へ引き戻そうとした。
長柄が跳ね上がり、ボレスの足が半歩滑る。
「勝手に戻ろうとしてるわ!」
エステルが鞭を振り抜いた。
風が黒い筋を導管から引き離し、穴の壁へ押さえつける。
「今のうちに!」
「任せろ」
ボレスが再び柄へ全身を乗せた。
軋み。
石壁の中で、固定具が一本ずつ外れていく音がした。
「もう一息だ」
導管が壁から引き剝がされ、縦穴の中へ傾いた。
露出した接続部へ、ボレスは刃を叩き込んだ。
金属が裂ける音が、広間に反響する。
石盤の上で、変化が起きた。
刻まれた黒い線が、端から順に薄れていく。
外側へ分かれていた筋が、一本、また一本と消えていった。
床を覆っていた薄い膜も、乾いた紙のように縮んで消える。
家族の姿が、輪郭を崩し、闇へ溶けた。
ほかの線が消えると、残った一本だけが黒い脈動として浮かび上がっていた。
線が、強く脈打った。
同時に、床が低く震えた。
腹に響く、重い振動だった。
「なんだ、今のは」
「……装置が壊れたことを、奥へ伝えたんだと思います」
「なら、気づかれたわね。ここを離れましょう。出口へ戻るわよ」
「はい」
三人は来た道を急いで引き返した。
エステルに腕を支えられ、エレナリアは脇腹の痛みをこらえながら歩を速めた。
◇
出口の鉄扉が見えたとき、エレナリアの足が止まった。
鉄扉の脇で、先ほどは石壁にしか見えなかった細い保守扉が開いていた。
その奥には、さらに地下深くへ続く狭い通路が見えた。
扉の前に、人影が立っている。
黒い鎧。
黒い外套。
長剣の柄頭で、小さな星形の銀白石が、暗闇の中で一度だけ光を返した。
「お兄様……」
レオンが歩み出した。
最初の一歩だけ、足運びがわずかに遅れ、剣先が低く揺れた。
――効いている。
だが、レオンの背から伸びた最後の一本が張ると、乱れは消えた。
剣が、正しい位置へ構え直される。
「出口は塞がれたわね。エレナは下がって。私たちで止めるわ」
エステルが鞭を構え直した。
エレナリアは、背後の暗い廊下を振り返った。
下がれば、ここよりは安全だ。
だが今、兄へ届く命令経路は一本しかない。
まだ、それを断つ方法は分からない。
けれど、街道で兄から逃げるしかなかった時とは違った。
エレナリアは杖を握り直した。
「いいえ」
一歩、兄の前へ出る。
赤い外套の裾が、灯りの中で静かに揺れた。
エレナリアは、兄から目をそらさなかった。
「今度は、逃げません」




