第19話 届いた声
レオンが踏み込んだ。
ボレスが長柄戦斧を横に構え、狭い通路を塞ぐ。
「来い!」
レオンは止まらなかった。
斧刃へ鎧の肩を押しつけるように踏み込み、その内側へ入ってくる。
刃が鎧を削った。
それでも、速度は落ちなかった。
エレナリアは息を呑む。
傷を負わないのではない。
傷を負うことを、判断材料にしていないのだ。
「そこっ!」
エステルの鞭が伸び、レオンの右腕へ巻きついた。
黒髪を跳ねさせながら、体重をかけて引く。
腕の関節が軋む角度まで捻られても、レオンは止まらなかった。
逆に、鞭ごとエステルを引き寄せる。
「――っ!」
エステルの肩が石壁へ叩きつけられ、体勢が崩れた。
レオンが鞭を振りほどく。
そのまま、倒れかけたエステルへ剣を振り下ろした。
「させるかよ!」
ボレスが横から割り込み、長柄を立てて斬撃を受けた。
長柄で受け止めた刃が、その表面を滑る。
逸らしきれなかった切っ先が、上腕を浅く裂く。
ボレスが歯を食いしばった。
エレナリアは杖を握ったまま、動けずにいた。
胸元の太陽のプーラは熱を放っている。
けれど、光を撃てない。
兄の背中から伸びる最後の一本は、背骨に沿って身体へ入り込み、関節を縛る糸と密着していた。
強い光を当てれば、支配だけでは済まない。
死んだ兄の身体を、かろうじて形づくっている魔力まで崩しかねない。
負傷したこの身では、光を細く絞り、正確に断ち切れる自信がなかった。
「嬢ちゃん!」
ボレスが血の滲む腕で、長柄を押し返した。
「あいつを傷つけたくねえなら、覚悟を決めろ!」
杖を握るエレナリアの指が震えた。
躊躇している間も、兄の身体は削られ続けている。
そのうえ、兄の身体に、仲間を斬らせている。
――違う。
守っていたのは、兄ではない。
兄を傷つける決断から逃げていた、自分だった。
◇
エレナリアは杖の石突を、石床へ突き立てた。
太陽のプーラへ意識を集める。
断つほどの光は当てられない。
出力を絞り、命令経路にわずかな歪みを生じさせるだけに留めた。
金色の細い線が、黒い経路へ重なる。
レオンの動きが、ほんの少しだけ鈍る。
命令そのものは、止まらなかった。
それでいい。
エレナリアは荷袋から月のプーラを引き出した。
「エレナ、二つ同時は――」
「やめません!」
エレナリアは顔を上げた。
「お兄様に声を届けます。私が、この支配を終わらせます」
青白い波紋が、通路を渡っていった。
太陽の光が、最後の命令経路に髪の毛ほどの隙間を開けた。
そこから、月の光が兄の身体の奥へ入り込んだ。
脇腹が鋭く軋んだ。
それでも、二つの光を切らなかった。
絡み合う黒い糸の、さらに向こう。
微かな光があった。
エレナリアの意識が、そこへ引き込まれた。
◇
暗く、音のない場所だった。
底も、天井もない。
その中央に、一人の青年が立っていた。
鎧はない。
屋敷にいた頃の、あの服だった。
『お兄様』
青年が、ゆっくりと振り返った。
『……エレナ?』
届いた。
街道では届かなかった呼び声が、今、初めて兄へ届いた。
『そこにいるのか?』
『はい。私です。エレナリアです』
レオンは、声のする方を探すように顔を動かした。
けれど、その瞳はエレナリアを捉えていない。
『声だけが聞こえる。姿は見えない』
『お兄様は、何も見えていないのですか?』
『ああ』
短い沈黙のあと、レオンは続けた。
『父上を止めようとして、研究棟へ入った。そこで、何者かに背後から刃を受けた』
一度、言葉を切る。
『それから、ずっと何もない。見えない。聞こえない。時間がどれだけ過ぎたのかも分からない』
エレナリアの胸が締めつけられた。
『外の身体が立っているのか、倒れているのか。それさえ分からないんだ』
『お屋敷は、襲われました』
声が震えないよう、ゆっくりと告げる。
『お母様が、私を地下へ逃がしてくださいました』
それでも、言葉を止めずに続けた。
『お兄様は……あのとき、亡くなっています。今は身体だけが、外から操られています』
長い沈黙が落ちた。
『僕の身体は、今どこにある?』
『私の目の前です』
『僕は……お前に何をしている?』
エレナリアは、すぐには答えられなかった。
外では、兄の身体が、ボレスの長柄を押し込んでいた。
『……私たちに、剣を向けています』
レオンの顔から、表情が消えた。
『お兄様の意思ではありません』
『それでも、僕の身体が動いているんだな』
『はい』
『誰かを殺したか?』
誤魔化さなかった。
『……分かりません』
これまで兄の身体が何をしてきたのか、確かめる術はなかった。
『そうか』
レオンは、それ以上聞かなかった。
『エレナ。止めてくれ』
『でも、お兄様は――』
『僕はもう、あの身体には戻れない』
その声には、迷いがなかった。
『僕の身体に、これ以上誰かを傷つけさせるな』
先ほどのボレスの言葉が、胸の内で重なった。
エレナリアはすぐに返事ができなかった。
『時間が、ないんだろう?』
レオンは、静かに妹を促した。
『行け、エレナ』
暗闇が、崩れた。
◇
現実へ戻った瞬間、エレナリアは石床へ膝をついた。
脇腹の奥が、鋭く軋む。
目の前では、レオンの剣がボレスの長柄をさらに押し込み、切っ先が少しずつ肩へ迫っていた。
青白い光は大きく弱まり、糸のような残光だけが視界の端に残っていた。
その残光の中で、見えた。
一本の命令経路が、レオンの背から右側の石壁へ伸びていた。
黒い線は石の継ぎ目へ潜り、その奥に埋め込まれた黒い金属へ接続されていた。
旧墓所の広間で見た、あの石盤と同じ系統。
命令を受け取り、支配された身体へ渡すための、末端の装置だ。
「エステルさん、右腕を引いてください! 足は風で壁際へ!」
「分かったわ!」
エステルは鞭を再びレオンの右腕へ巻きつけ、強く引いた。
同時に風をレオンの足元へ叩きつけ、両脚を壁際へ押さえ込んだ。
黒い鎧が横へずれる。
背後の石壁、その継ぎ目が露出した。
「ボレスさん、右の壁です! 石の継ぎ目を壊してください!」
「そこだな!」
ボレスが長柄戦斧の刃を、継ぎ目へ打ち込んだ。
石は割れなかった。
血の滲む腕で柄を握り直し、二撃目を叩き込む。
石が砕け、内側から黒い金属端子が現れた。
レオンが風の拘束を破り、踏み出しかける。
「まだよ!」
エステルがさらに風を叩きつけた。
ボレスが斧を引き、露出した端子へ叩きつける。
金属が砕ける音が、通路に反響した。
命令経路が、大きく波打った。
ぴんと張っていた黒い線が緩み、レオンの背から剝がれるように浮き上がった。
今なら。
身体に触れずに、あの一本だけを狙える。
エレナリアは太陽の光を、細く、鋭く絞った。
「お兄様――今、止めます」
金色の光が、黒い命令経路を焼き切った。
外部からの命令が途絶えた。
指、手首、肘、肩。
背骨を下り、膝と足首へ。
身体を縛っていた糸が、張力を失い、一つずつ消えていく。
レオンの右腕から、力が抜けた。
◇
黒い鎧が、前へ傾いた。
エレナリアは杖を石床へ落とし、倒れかけた身体を受け止めた。
思っていたより、軽かった。
支配の糸は、もうなかった。
けれど、死んだ身体を形づくっていた魔力の残滓が、まだ数瞬だけ残っている。
月の残光が、二人の輪郭を淡く縁取っていた。
焦点の合わなかった瞳が、ゆっくりと動いた。
そして初めて、自分の意志で妹を捉えた。
「……エレナ」
「お兄様」
その声が、初めて震えた。
涙が一筋、エレナリアの頬を伝った。
長剣が、レオンの右手から滑り落ちた。
石床で跳ね、柄頭の星形の銀白石が、月の光を一度だけ返す。
エレナリアは涙を拭うこともせず、兄の顔から目をそらさなかった。
手の中で、月のプーラが強く脈打っていた。
分かっていた。
この光が拾っているのは、命ではない。
身体から離れていく、兄の意識の最後の残響だ。
このまま術式を閉じずにいれば、もう少しだけ……その声を留められるかもしれない。
もう一度、名前を呼んでもらえるかもしれない。
――留めるは一時、縛るは咎。
碑文の一節が、胸の内に浮かんだ。
兄が望んだのは、ここに残ることではない。
エレナリアは月のプーラを胸元へ押し当てた。
自分の意志で、術式を閉じた。
二人の輪郭を縁取っていた青白い光が消えた。
レオンの瞳に残っていた最後の光も、ゆっくりと薄れていった。
鎧の隙間から、灰が零れ始めた。
亜麻色の髪が、兄の肩へ落ちた。
赤い外套が、崩れていく身体を包んでいた。
エレナリアは兄を抱いたまま、最後まで目をそらさなかった。
その涙が、兄の鎧へ落ちた。
エレナリアは震える息を吐いた。
「今度こそ、おやすみなさい。お兄様」




