第20話 父への扉
腕の中に、もう兄はいなかった。
黒い鎧と、石床に散った灰。
そして、跳ねて転がった長剣だけが、そこに残っていた。
誰も、口を開かなかった。
やがて、エステルが荷袋から布を取り出した。
「腕、出しなさい」
「かすり傷だ」
「血が止まってないわ」
黒髪を肩へ払い、エステルはボレスの上腕へ布を巻いていく。
自分の肩も痛むのか、動かすたびに眉を寄せた。
だが、骨には届いていないらしい。
エレナリアはその場で上体を起こし、浅く息を吐いた。
脇腹の奥が、まだ熱を持っている。
呼吸が落ち着くまで、しばらくかかった。
処置を終えると、エステルは開いたままの保守扉へ歩いた。
扉の脇へ身を寄せ、石壁を遮蔽にして、奥の暗がりを見張る。
ボレスが無言で立ち上がった。
先ほど自分が叩き割った右の壁へ歩き、崩れた石を拾い集める。
青い髪が、汗で額に貼りついたままだった。
抱えた瓦礫を、そっと床へ下ろす。
エレナリアは赤い外套の裾を石床へ広げたまま、灰の前へ身を寄せた。
灰は、鎧の内側に多く残っていた。
両手でそっと寄せ集める。
通路を吹き抜ける風が、灰の縁を撫でようとした。
「動かさないわ」
エステルが扉から目を離さないまま、片手で鞭を振った。
起こった風が、通路の流れを壁際へ逸らす。
灰の周りだけが、静かになった。
ボレスが石を運び、エレナリアが積んでいく。
一つ、また一つ。
亜麻色の髪が肩から滑り落ち、そのたびに耳へ掛け直す。
小さな石塚が、通路の隅に出来上がった。
エレナリアが最後の一つを置く。
それから、黒い鎧と長剣を石塚の前へ横たえた。
月のプーラは、まだ手の中にあった。
灯せば、まだ何か見えるのかもしれない。
けれど、エレナリアは荷袋の口を開け、月のプーラをその奥へ戻した。
もう一度、術式を開くことはしなかった。
◇
石塚の前に横たえた長剣。
その柄頭で、星形の銀白石が、灯りを鈍く受けていた。
ヴァルキエル家に代々伝わる銀白石だった。
兄が長剣を佩くようになったとき、後継者の証として柄頭へ取り付けられた。
兄が剣を振り上げるたび、握る手の下で陽を返していた。
エレナリアは柄頭へ手を伸ばした。
石を留めているのは、小さな留め具だった。
指をかけ、押し上げる。
かちり、と軽い音を立てて、星形の銀白石が掌へ落ちた。
冷たくもない。
温かくもない。
光りもしなければ、胸元の太陽のプーラが反応することもなかった。
ただの、小さな石だった。
エレナリアはそれを布へ包み、胸元へしまった。
長剣と鎧は、石塚の前に残す。
エレナリアは石床に落ちていた杖を拾い、赤い外套の裾を払って立ち上がる。
「行きましょう」
エレナリアは、エステルの見張る保守扉へ目を向けた。
兄が現れた、あの細い扉。
その奥には、さらに地下深くへ続く狭い通路が見えている。
耳の奥に、兄の言葉が残っていた。
『父上を止めようとして、研究棟へ入った』
研究棟。
エレナリアは荷袋から、母の箱に入っていた指示書を取り出した。
――本邸喪失の際は、印章を用いて旧墓所西側より入り、非常継承箱に納めた保守副鍵を使用すること。
紙に書かれているのは、それだけだ。
配置図はない。
だが、旧墓所が何のための保守口なのかは、家に伝わる知識として知っている。
古い監視施設と、その奥にある研究区画。
その両方へ入るための、非常時の入口。
そして、もう一つ。
広間の中継装置を壊したあと、消えずに残った一本の命令経路。
あの黒い線は、施設の奥へ向かって伸びていた。
兄の言葉。
研究区画へ通じる旧墓所の保守口。
そして、施設の奥へ伸びていた最後の命令経路。
三つの事実が、父の研究へとつながっている。
「研究区画は、この先です」
エステルが扉から目を離さずに頷いた。
「なら、行くわよ」
エレナリアは指示書を畳んで荷袋へ戻し、杖を握り直した。
三人は、保守扉の前へ集まった。
◇
保守扉をくぐると、狭い石段が下へ続いていた。
分岐はない。
一本道だった。
灯りを掲げたボレスが先を行く。
「息が詰まるな。こういうのは苦手だ」
「何か出てきそうね」
最後尾を進むエステルは、鞭の柄へ手を添えたまま、ときおり背後を振り返っている。
「この先の造りは分かるの?」
その二人の間で、エレナリアは杖をつきながら石段を下りた。
灯りの届かない先へ目を凝らす。
「いいえ。私も、入ったのは初めてです」
しばらく下ると、通路の様子が変わり始めた。
最初は、古い石造りだけだった。
やがて、壁沿いに黒い導管が現れる。
天井から金属の枠が吊られ、その支柱が古い石壁へ乱暴に打ち込まれていた。
千二百年前の封印施設へ、新しい設備が継ぎ足されている。
エレナリアは足を止め、荷袋から一枚の紙を取り出した。
街道の休憩所で、震える指で描いた図だった。
「ボレスさん、灯りをこちらへ」
ボレスが、壁沿いの導管へ灯りを寄せる。
紙には、指から手首、肘、肩へと続き、背骨を下って脚へ至る線が描かれていた。
兄を縛っていた術式の形だ。
エステルが紙と導管を見比べた。
「同じなの?」
「はい。線の分かれる角度も、結び目の形も一致しています」
導管の接続部には、紙に描いたものと一致する線が刻まれていた。
エレナリアの指が止まる。
この型の導管を交換し、調整した記録を、つい先ほど広間で読んだばかりだった。
父の筆跡で。
「……お父様が手を加えていた設備と、お兄様を操っていた術は、同じ術式体系に基づいています」
ボレスが低く唸った。
「じゃあ、親父さんが兄貴を――」
「まだ、そこまでは分かりません」
エレナリアは首を振った。
「設備の構造が一致していても、誰が術を施したのかまでは断定できません」
「けど、あんたの父親がこの仕組みを扱っていたのは確かね」
エレナリアは答えなかった。
紙を持つ指先が、冷えていく。
◇
一本道の突き当たりに、それはあった。
巨大な扉だった。
石ではない。黒い金属に覆われている。
「ボレスさん、灯りを上へお願いします」
ボレスが灯りを掲げた。
扉の表面に、二重の環と古い家伝文字が浮かび上がる。
外側の環には、太陽の紋。
内側の環には、月の紋。
エレナリアは、露出した刻線を指でなぞった。
「外側は、封を張る術式です。内側は、通す道を定めています」
ボレスが二重の環を見上げた。
「二つで一つってことか」
「はい。どちらか一方では、扉は動きません」
エレナリアは二つの紋を順に見た。
「開けられます。ただし、太陽と月を同時に使います」
「両方って、あんた」
エステルが眉を寄せた。
「片方でも痛がってたじゃない」
「一呼吸だけです。扉が動けば、すぐに術式を閉じます」
「それで済むの?」
「済ませます」
エレナリアは、二つの紋を結ぶ刻線へ目を落とした。
「これは、旧墓所側の非常用内門です。本邸から入る正規の経路とは別です」
非常時にしか使わない門だからこそ、通す者を厳しく選ぶ必要がある。
「だから、こんな鍵が掛かっているんだと思います」
ボレスが、扉の表面を見つめたまま眉を寄せた。
「嬢ちゃん。それ、鍵ってより――」
言葉を選ぶように、一度止まる。
「嬢ちゃんが来たことを、奥に知らせる仕掛けじゃねえのか?」
エレナリアは、答えられなかった。
否定する根拠が、どこにもない。
エステルが鞭を握り直した。
黒髪の下で、その目が扉と通路を交互に測っている。
「引き返すなら、ここが最後よ」
エレナリアは胸元へ手を当てた。
布越しに、小さな石の輪郭が指へ触れる。
光りもしない、ただの形見。
父を取り戻すために、ここへ来たのではない。
兄を縛っていた術。
湖で死者を操っていた糸。
目の前を走る、黒い導管。
すべてが同じ体系につながっている。
少なくとも、兄へ命令を送っていた根は、この先にある。
止めなければ、また誰かが同じ目に遭う。
エレナリアは杖を構えた。
「進みます」
胸元の太陽のプーラと、荷袋から取り出した月のプーラ。
その両方を、同時に灯した。
途端、脇腹の奥が軋んだ。
息が詰まる。
金色と青白い光が、二重の環へ流れ込んでいく。
外側の環が輝き、内側の環がそれに応えた。
噛み合う音がした。
エレナリアはそこで、両方の術式を閉じた。
一呼吸。
それだけだった。
杖に体重を預け、荒く息を吐く。
古い機構が、地の底で動き始めた。
重い駆動音が、通路の石を震わせていく。
巨大な扉が、ゆっくりと開いた。
◇
その先にあったのは、通路でも部屋でもなかった。
天井の高い、広大な空間だった。
灯りが届かないほどの奥へ向かって、黒い導管が何本も走っている。
古い封印施設の中央を、後から貫くように。
壁にも、床にも、無数の術式が刻まれていた。
そのすべてが、遠くの一点へ向かって流れている。
研究施設であり、儀式場でもある場所。
三人が扉を越えた。
最後尾のエステルが敷居を踏み越えた直後、足元の刻線が赤黒く明滅した。
低い鐘のような音が、一度だけ空間に響く。
続いて、扉の奥で幾つもの歯車が噛み合った。
石床を伝う振動とともに、重い駆動音が背後から迫る。
ボレスが振り返った。
巨大な扉が、開いたときよりも速く閉じ始めている。
「……戻り道は、なさそうだな」
エレナリアは、振り返らなかった。
重い音を立てて、扉が閉じきる。
その響きが、空間の奥まで転がっていった。
亜麻色の髪が、空間の奥から流れてくる冷気に揺れた。
エレナリアは杖を握り直した。
父の記録と同じ型の黒い導管は、すべて空間の奥へ続いていた。
「お父様は、この先にいる」




