第25話 封印されし屍霊
「エレナリア、私だ」
顔は、アレクサンダーそのものだった。
碧い目も、穏やかな声も、書斎で本を読んでいた頃と何一つ変わらない。
だが、エレナリアは杖を下ろさなかった。
「その杖を、父へ向けるのか」
父と同じ顔をしたものは、その場から動かず、エレナリアを見つめていた。
「第一画を描くとき、息を止める癖がある」
記憶をなぞるような、ひどく懐かしい語り口だった。
「幼い頃から、何度言っても変わらなかったな」
エレナリアの指に力が入った。
薄暗い書斎で、父から古文字を教わった日々。
差し出された本。
背後から聞こえる、頁をめくる音。
偽りの記憶ではない。
本物の記憶だからこそ、胸の奥が鋭く痛んだ。
それでも、杖は下げなかった。
アレクサンダーの眼差しから、父自身の応答が消える瞬間を、エレナリアは見ていた。
兄との別れでも知った。
魂の残響と、術式に保存された声や記憶は、同じものではない。
「あなたは、お父様ではありません」
エレナリアは、父と同じ顔を正面から見据えた。
「お父様の記憶を盗んでいるだけです」
沈黙が落ちた。
やがて、父の顔をしたものが、緩やかに唇を動かした。
「あれは、自ら望んだ」
その声に、アレクサンダーへの敬意も憐れみもなかった。
奪い取った記憶の一頁を、ただ読み上げているだけだった。
「人の身を捨て、私と一つになることを」
父と同じ口元が、わずかに歪む。
「妻も息子も、お前さえも、そのために差し出した」
その言葉を最後に、人間の輪郭が内側からほどけ始めた。
アレクサンダーの背が異様に伸びる。
肩が裂け、朽ちた祭服のような黒い膜が広がった。
顔の皮膚が崩れ、その奥から現れたのは、鳥の嘴とも骨の仮面とも断定できない長い白骨面だった。
深い眼窩には、光がない。
頭部からは、砕けた封印環を思わせる冠状の角が伸びていく。
骨片と呪物を縫いつけた外套の隙間を、黒い導管が血管のように走っていた。
ボレスの倍を超える高さの異形が、広間に立ち上がる。
裂けた祭服の胸奥には、人の顔が半ば埋まっていた。
目を閉じた、アレクサンダーの顔だった。
黒い膜と肋骨めいた枠に包まれ、声も表情も失ったまま、屍神の核として取り込まれている。
エレナリアの喉が震えた。
それでも杖先は下がらない。
ボレスが顔をしかめた。
「……悪趣味だぜ」
エステルは何も言わず、鞭を握り直した。
最後の白い環は、まだ動いていない。
異形の背後は、太い黒い導管で封印深部へつながったままだった。
モルティヴァスの白骨面が、三人を見下ろした。
骨の奥から響いた声は、もはやアレクサンダーのものではなかった。
「五英傑でさえ恐れたワシの力、存分に思い知れ」
ボレスが戦斧を構え直し、異形を見上げた。
「神話の五英傑でも倒せず、封じるしかなかった相手ってわけか」
「でも、すべてが出てきたわけじゃないわ」
エステルは、異形の背後へ伸びる太い黒い導管を睨んだ。
「あれは、まだ封印の奥につながっている?」
「はい」
エレナリアは杖を握り直した。
「目の前にいるのは、本体の一部だけです」
エレナリアは、異形の背後へ目を向けた。
「本体は、まだ封印の向こう側にいます」
黒い導管は、異形の背後から封印深部へ沈んだまま、脈打ち続けていた。
「あれを正面から倒す必要はありません」
エレナリアは、導管の先へ杖を向けた。
「狙うのは、深部へつながる黒い経路です」
ボレスとエステルの視線が、黒い導管へ集まった。
「なるほどな」
「押し返せばいいわけね」
「はい。本来の封印をつなぎ直します!」
二人はそれぞれの武器を構え直した。
◇
モルティヴァスが、祭具を思わせる巨大な骨杖を振り上げた。
骨杖が空気を裂き、エレナリアへ落ちてくる。
「させるかよ!」
ボレスが側面から戦斧を叩きつけた。
刃と骨杖が激突し、落下の軌道がエレナリアの横へずれた。
骨杖は石床を直撃した。
轟音とともに床が割れ、石片が広間へ飛び散る。
跳ね返った衝撃でボレスの膝が落ちた。
上腕の包帯から、赤い血が流れ出す。
それでも、骨杖はエレナリアへ届かなかった。
「嬢ちゃん、急げ!」
「はい!」
エレナリアは左手の月のプーラを灯した。
瞬きほどの青白い光が、広間の構造を浮かび上がらせる。
最初に見えたのは、アレクサンダーの肉体を核とした異形。
その胸奥から、太い黒い経路が封印深部へ伸びている。
黒い経路は複数の枝へ分かれ、白い古代回路へ食い込んでいた。
千二百年前の封印回路は、完全には失われていない。
だが、数か所で切断され、その傷口を黒い枝が埋めている。
白い刻線の上には、父が施した黒い汚染がこびりついていた。
長い骨腕が、横薙ぎに振るわれた。
「危ねえ!」
ボレスが傷のない方の手で赤い外套をつかみ、エレナリアを引き寄せる。
骨指が亜麻色の髪の先を掠め、背後の石壁を深く抉った。
青白い光が大きく揺れる。
消える寸前の残光の中で、エレナリアはさらに奥を見た。
黒い導管の下へ埋もれた、最後の白い環の基部。
そこに、白い操作輪がある。
操作輪から離れた位置には、ヴァルキエル家の継承命令を受ける白い刻線が残されていた。
一人では動かせない。
環を操作する者と、家伝命令を流す生きた継承者。
二つが同時に働かなければ、最後の白い環は動かない。
黒い経路の周囲には、青白い人影がいくつも絡みついていた。
父の実験に囚われた死者たちだった。
月の光が消える。
「エステルさん、右の黒い枝です!」
エレナリアは残像をたどって杖を向けた。
「白い刻線には触れないでください!」
「分かったわ!」
エステルは痛む肩を上げず、床際へ鞭を走らせた。
革鞭が黒い枝の留め具へ巻きつく。
片足を引き、腰を沈める。
留め具の隙間へ細い風を楔のように押し込み、腰と脚の力で一気に引いた。
黒い枝が、白い回路から剥がれる。
モルティヴァスの片腕が骨片となって崩れ落ちた。
「小賢しい」
だが、残る導管から黒い霧が流れ込み、欠けた腕の輪郭を再び形づくり始めた。
「まだ動くのかよ!」
ボレスが戦斧を支えに立ち上がる。
「なぜ足掻く」
モルティヴァスの空洞から、重い声が響いた。
「生きるほどに失い、最後には何も残らぬ。なぜ死を受け入れぬ」
「死ぬことと、てめえに喰われることを一緒にするな!」
ボレスが吐き捨てた。
「同じだ。死者は語らず、やがて忘れられる」
「だから奪っていいとでも?」
エステルが低く鞭を構える。
「死を受け入れることと、お前に明け渡すことは違うわ」
モルティヴァスの白骨面が、エレナリアへ向いた。
「小娘。お前は生を知ったつもりか」
「いいえ」
エレナリアは杖を向けたまま答えた。
「知りません。だから、生きて選び続けます」
「選んだ果てに、また失うぞ」
「それでも、私たちが選びます」
エレナリアの声は揺れなかった。
「あなたに決められることではありません」
モルティヴァスは黒い経路を組み替え、別の白い回路へ枝を伸ばした。
エレナリアは月の残光に浮かぶ流れを追った。
「奥の枝へ移ります!」
「見えてるわ!」
エステルの鞭が、切替用の回転継ぎ手へ巻きついた。
黒い枝の動きが止まる。
「そこだな!」
ボレスが踏み込み、黒い導管を床へ固定している金具へ斧を叩き込んだ。
固定具が砕け、導管が石床から浮く。
エステルが腰を引き、鞭ごと導管を引き剥がした。
残ったのは、中央の太い偽経路だけだった。
「お前の父は、ワシを受け入れた」
モルティヴァスの声が、白骨面の奥から響いた。
「違います」
エレナリアは中央の経路から目を逸らさなかった。
「お父様は、自分だけが選ばれると信じたのです」
「自ら身を差し出した。それを受容と言わずして、何と言う」
「お母様も、お兄様も、私まで差し出して、自分だけは残ろうとした人です。それを、死を受け入れたとは言いません」
白骨面が、わずかに傾いた。
「他者を捨てることも、人の選択だ」
「選んだから、正しいのではありません」
エレナリアは杖先を、最後に残った黒い経路へ向けた。
「その選択を止めるのも、私たちの選択です」
エレナリアは月のプーラを再び灯し、胸元の太陽のプーラへ意識を向けた。
金色の光が、中央の偽経路へ走る。
黒い汚染が焼け、父の反転術式が灰となって剥がれ落ちていく。
白い刻線は傷つかない。
だが、その先で二つの光が止まった。
白い回路そのものが、何か所も断ち切られている。
青白い光は構造を示し、金色の光は汚染を清める。
それでも、刻線が途切れた先へ術式を運ぶ道がなかった。
エレナリアはさらに力を通そうとした。
脇腹へ激痛が走る。
息が止まり、膝が石床へ落ちかけた。
杖へ全体重を預けて持ちこたえる。
「五英傑でさえ、ワシを封じることしかできなかった」
モルティヴァスの声が、白骨面の奥から広間を震わせた。
「ただの小娘であるお前に、ワシを封じることなどできん」
「……だから、封じられたのでしょう」
「何?」
エレナリアは、途切れた二つの光から目を逸らさなかった。
「倒すことだけが、勝つことではありません。あなたを、この世界から切り離したのです」
「言葉を飾ろうと、結果は同じだ。ワシは滅びず、こうして戻った」
「戻ったのは、本体の一部だけです」
「その一部にさえ、お前は膝をついている」
「はい。私一人では、あなたに勝てません」
モルティヴァスが、一瞬黙った。
「己の弱さを認めて、何ができる」
「二人に、頼めます」
エレナリアは、ボレスとエステルを見なかった。
見なくても、二人がまだ立っていることを知っていた。
「五英傑の遺したものを受け取り、私たち三人でつなぎ直します」
「死者の力へ縋るか」
「遺されたものを受け継ぐことは、縋ることではありません」
エレナリアは震える腕で杖を支え直した。
「あなたには、それが分からない。奪うことしかできないからです」
途切れた金色と青白い光が、行き場を失い、エレナリアの手元へ押し戻された。
二つの光が、胸元で触れ合った。
そのときだった。
布包みの内側から、細く澄んだ銀白色の光が漏れた。
「これは……」
エレナリアが息を呑む。
「何だ、その光は」
モルティヴァスの巨体が、一瞬動きを止めた。
銀白色の線が伸び、最初の断裂箇所の両端を結んだ。
その上を、金色の光と青白い光が、それぞれの色を保ったまま渡っていく。
胸元に残った、あの温もり。
四本の枝へ広がった太陽の光。
つながっていない二つの経路へ、乱れず届いた太陽と月。
――第三の接続点。
父は銀白石を単独で調べた。
だから、何も起きなかった。
この石は、力を生み出すものではない。
二つの力を受け、必要な道へ通すものだった。
完成したプーラではない。
太陽と月を結ぶために残された、核だった。
エレナリアは右手から杖を離さなかった。
左の掌に月のプーラを抱えたまま、指先を胸元の布包みへ差し入れる。
星形銀白石を引き出し、月のプーラと重ねて掌へ収めた。
胸元の太陽のプーラが、再び金色に灯る。
エレナリアは、銀白色に光る星形の石を見下ろした。
「太陽と月を結ぶ……星のプーラ」
エレナリアは、最後の白い環の基部を杖で示した。
「エステルさん。黒い導管の下に、白い操作輪があります」
息を継ぐたび、脇腹が軋む。
「私が家伝命令を流します。合図で、本来の向きへ引いてください」
エステルは短く頷いた。
床際から鞭を這わせ、白い操作輪の下側へ引っかける。
肩を上げず、腰を落とし、脚と体重で引ける姿勢を取った。
「させぬ……!」
モルティヴァスの眼窩が、二人へ向いた。
巨大な骨杖が持ち上がる。
「させるかよ!」
ボレスが二人の前へ入った。
倒れていた黒い金属枠を蹴り上げ、長柄戦斧と交差させる。
振り下ろされた骨杖が金属枠へ激突した。
黒い枠が砕け散る。
戦斧の柄から、乾いた軋みが響く。
走っていた亀裂が、さらに深くなった。
ボレスの膝が石床へ落ちた。
上腕の包帯から血が流れる。
それでも、骨杖の軌道は石床へ逸れた。
数瞬。
それだけで十分だった。
「今だ、嬢ちゃん!」
エステルが、白い操作輪へ巻いた鞭を張り詰めた。
「つなぎなさい、エレナ!」
◇
エレナリアは、杖の石突を石床へ据えた。
右手に杖。
左の掌に月と星。
胸元に太陽。
浅く息を吸った。
力を通せるのは、あと一度だけだった。
青白い月光が、白い封印回路と継承刻線、断裂箇所、最後の白い環を映し出す。
金色の光が、中央の偽経路と黒い汚染へ走った。
黒い残滓だけが燃え、白い刻線は傷ひとつなく残る。
銀白色の線が、切断された回路の両端を一本ずつ結んでいく。
「やめよ……ええい、やめぬか!」
初めて、屍神の声に苦悶が混じった。
モルティヴァスが長い骨指を振り払った。
指先から放たれた黒い塊が、エレナリアの胸元へ走る。
「嬢ちゃんには、触れさせねえ!」
膝をついていたボレスが身を起こし、亀裂の入った戦斧を割り込ませた。
黒い塊が斧の腹へ激突する。
ボレスの巨体が弾き飛ばされた。
背中から石壁へ激突し、広間が震える。
石壁に放射状の亀裂が走り、砕けた石片が降り注いだ。
それでも、黒い力はエレナリアへ届かなかった。
ボレスは石壁にもたれたまま、血の混じる息を吐いた。
「……続けろ、嬢ちゃん!」
エレナリアは、ヴァルキエル家の家伝命令を流した。
同時に、エステルが腰と脚で鞭を引いた。
白い操作輪が軋み、本来の位置へ回った。
輪の爪が、基部の留め具へ噛み合う。
次の瞬間、張り詰めていた鞭が乾いた音を立てて切れた。
反動で、エステルの身体が後ろへ倒れる。
「……最後まで、お願い」
白い操作輪は戻らなかった。
止まっていた最後の白い環が、ゆっくりと動き始める。
アレクサンダーが反転させようとした向きではない。
千二百年前の、本来の向きだった。
「待て、小娘!」
モルティヴァスの声に、初めて焦りが滲んだ。
「この環を閉じれば、お前の父もワシとともに封印の底へ沈むぞ!」
エレナリアは、胸奥に埋まったアレクサンダーの顔を見た。
「そこにいるのは、お父様の身体だけです」
「父の肉体を捨てておいて、何が娘だ!」
モルティヴァスが声を荒らげる。
「目的のためなら家族さえ切り捨てる。お前も、あれと同じではないか!」
「違います」
「何が違う!」
「お父様は、誰かを差し出して、自分だけ残ろうとしました」
エレナリアは、杖を握る右手へ力を込めた。
「私たちは、自分でここに立っています」
白い環の動きは止まらない。
「私が止めるのは、お父様ではありません」
エレナリアは、モルティヴァスを正面から見据えた。
「あなたです」
星の銀白線で結ばれた回路を、金色と青白い光が一斉に走った。
最後の白い環から、その外側へ。
さらに次の環へ。
内側から外側へ、本来の順番で白い刻線が灯っていく。
エレナリアの力が膨れ上がったのではない。
切れていた道が戻ったことで、五英傑の遺した封印そのものが再び動き出した。
黒い刻線が灰となる。
父の導管が、白い回路から一本ずつ剥がれ落ちた。
五英傑の封印が、モルティヴァスを捉える。
白骨面に亀裂が走った。
朽ちた祭服が黒い霧へ戻り、冠状の骨環が砕けていく。
長い骨腕が、封印深部へ引かれた。
背後の黒い導管が、一本ずつ封印深部へ引き込まれていく。
「おのれええええっ!」
モルティヴァスの咆哮が、父と死者と獣の声を重ねて広間を震わせた。
「勝ったつもりか、小娘!」
砕けた白骨面の奥で、光のない眼窩がエレナリアを睨む。
「人が死を恐れ、失った者を求める限り、ワシは何度でも呼び戻される!」
骨腕が封印の奥へ引きずり込まれていく。
「これは終わりではない! 次の愚か者が扉を開くまでの、わずかな眠りにすぎぬわ!」
胸奥に残っていたアレクサンダーの顔も、顕現体とともに深部へ沈んだ。
最後の白い環が、定位置へ収まる。
白い刻線が閉じた。
重なっていた咆哮は、封印の奥へ遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「もう、二度と開かせません」
◇
広間に、青白い光が残った。
黒い導管の周囲に囚われていた者たちの輪郭が、ゆっくりとほどけていく。
知らない女。
鎧を着た兵士。
痩せた老人。
それぞれが、淡い光となって天井へ昇り、静かに消えていった。
エレナリアは、月の残光の中を一度だけ見渡した。
父の姿はどこにもなかった。
エレナリアは目を伏せた。
それから、顔を上げた。
封印の再起動に呼応するように、アレクサンダーが後付けした設備が崩れ始めた。
反転用の操作盤が割れ、黒い拘束椅子が導管ごと倒れる。
死体処置設備の金属板が外れ、黒い枠が石床へ落下した。
一方で、白い封印環と古代刻線は、静かな光を保ったまま残っている。
定位置へ戻った最後の白い環から、中枢の基部へ白い線が走った。
石壁の一部が低い音を立てて開く。
封印作業者のための、非常用保守経路だった。
「行くぞ!」
ボレスが、傷のない方の腕でエレナリアを支えた。
エステルが反対側へ回り、傷めていない腕をエレナリアの腰へ添える。
エレナリアは杖を引きずりながらも、自分の足を動かした。
三人が開いた石扉の前へたどり着いたとき、開口部が閉じ始めた。
「先に行け!」
ボレスはエレナリアをエステルへ預けると、亀裂の入った長柄戦斧を、閉じていく扉と石枠の間へ差し込んだ。
長柄が大きくしなり、石扉の動きが止まる。
「今のうちだ!」
エステルはエレナリアを抱えるようにして、狭まりゆく開口部の向こうへ滑り込んだ。
二人が通り抜けたのを確かめ、ボレスも身体を横にして保守経路へ滑り込む。
直後、乾いた破断音が響いた。
長柄が折れ、戦斧は閉じる石扉の向こうへ呑み込まれた。
石扉が、重い音を立てて閉じ切る。
父の研究区画が崩れる音は、分厚い壁の向こうへ遠ざかっていった。
◇
長い保守経路を抜け、三人は地上へ出た。
白い日差しが、暗闇に慣れた目を刺す。
島を吹く冷たい海風が、地下とは異なる生きた空気を運んできた。
遠くから、絶え間ない海の音が聞こえる。
背後の石壁が低い音を立てて閉じた。
白い刻線が一度だけ光り、扉の継ぎ目は岩肌の中へ消えていく。
それを見届けた途端、ボレスが仰向けに倒れ込んだ。
「もう駄目だ。しばらく動けねえ」
エステルも傷めた肩をかばいながら、その場へ腰を下ろす。
エレナリアも杖を抱えたまま、その場へ座り込んだ。
「まさか、神話の中の化け物と戦うことになるなんてね……」
「俺が引き受けたのは、子供のお守りみたいな仕事だったはずなんだがな」
「誰が子供ですか」
エレナリアが、かすれた声で返した。
「そこに食いつく元気は残ってるのね」
エステルが呆れたように息を吐いた。
ボレスが空を見上げたまま、長く息を吐いた。
「今回ばかりは、本当に危なかったな」
「今回ばかり?」
エステルが横目を向ける。
「……いつも危なかったが、今回は特別だ」
「命がいくつあっても足りないわ」
「違いねえ」
二人の間から、力の抜けた笑い声が漏れた。
風が、エレナリアの亜麻色の髪と赤い外套を揺らした。
やがてボレスが上体を起こし、傷のない方の腕をエレナリアへ差し出した。
エステルも立ち上がり、反対側からエレナリアを支えた。
エレナリアは二人に支えられながら、閉ざされた封印施設の入口を振り返った。
「帰りましょう」
浅い息を一度整えた。
「ここを守り直すために、しなければならないことがあります」




