第24話 神への供物
屍兵が、暗がりから一斉に踏み出した。
「来やがれ!」
ボレスが前へ出る。
汗で額に貼りついた青い髪が、明滅する灯りの中で揺れた。
長柄戦斧が重い風を切って横薙ぎに走り、先頭の一体を胴から断ち割る。
黒い血が石床にぶち撒けられた。
エレナリアは杖を構えたまま、広間の中央――操作盤の奥を見ていた。
アレクサンダーは動かない。
記録板を脇へ置き、盤面へ滑らかに指を走らせるだけ。
たったそれだけで、広間全体が彼の意志のままに動いていた。
重い駆動音とともに、外周の黒い金属枠が一斉にエレナリアへ向きを揃えた。
その外側では、屍兵がボレスとエステルへ刃を向ける。
同時に壁の刻線から赤黒い光が走り、二人の足元の石床を抉った。
そして、操作盤の背後には、人ひとりを縛りつけるための無機質な黒い椅子があった。
背もたれと肘掛けには固定具が備わり、胸と背へ向けて細い金属端子が並んでいる。
端子から伸びる細い導管は操作盤を経ず、封印深部へ沈む太い黒い導管へ直接つながっていた。
エレナリアの喉が鳴った。
自分を生きたまま中枢へ接続するための椅子だ。
アレクサンダーは、最初からそのつもりで用意していた。
「エレナ、右!」
エステルの鋭い声が響いた。
黒い金属枠が一つ、回転軸を鳴らしながら弧を描き、エレナリアの右から迫っていた。
エレナリアは杖先を石床へ下ろし、即座に家伝文字の第一画をなぞった。
だが、それが閉じるより早く、盤面の一枝が赤黒く灯った。
赤黒い線が杖先へ走り、伸びかけた金色の線へ割り込む。
描きかけの術式は、形を結ぶ前に内側から崩れた。
「幼い頃と、手順が変わっていないな」
責める声ではなかった。
書き上げた課題を採点している、あの頃の穏やかな声だった。
「杖の初動で分かる。何を描くつもりかも」
エレナリアの背筋が冷えた。
この人は術式だけではなく、エレナリア自身の癖まで知り尽くしている。
金属枠が、両側から挟み込みにかかった。
「嬢ちゃん!」
ボレスは迫る枠の下へ踏み込んだ。
その視線は、枠そのものではなく床へ向いている。
枠の根元。
石床へ太いボルトで固定された回転軸。
ボレスは長柄戦斧を振り下ろし、ボルトの際へ叩き込んだ。
鈍い破砕音が響く。
軸がひしゃげ、枠はエレナリアの肩先を外れて石床へ落ちた。
衝撃が上腕へ返り、包帯の赤が滲み広がる。
「術式なんぞ知るか。壊れりゃ止まるんだよ」
アレクサンダーの指が、盤面で一瞬止まった。
「……なるほど」
次の瞬間には、失われた枠の制御を切り捨て、別の線へ魔力を流していた。
床際の導管が、行き先を変えて不気味に脈を打ち始めた。
「屍兵へ回したわ」
エステルが、その切り替えの瞬間を見ていた。
痛む肩を上げず、腰の捻りだけで鞭を低く走らせる。
床際を這う導管へ、風をまとった鞭が蛇のように巻きついた。
エステルは片足を引き、腰を落として鞭を手前へ引き絞った。
留め具の隙間へ、楔のように細い風を押し込む。
肩に激痛が走り、一瞬だけ動きが鈍った。
それでも歯を食いしばり、導管を床から引き剝がした。
黒い導管が剝き出しになった。
「エレナ!」
「はい!」
エレナリアは杖を突き、太陽のプーラへ意識を集めた。
一呼吸。
脇腹の奥が鋭く軋み、息が詰まる。
それでも放たれた金色の細い光が、露出した経路を正確に焼き切った。
屍兵の刃が、ボレスへ振り下ろされる途中でピタリと止まった。
数体の身体が、糸を切られた人形のように石床へ崩れ落ちた。
エレナリアは、すぐに次の導管へ目を走らせた。
父へ向けて家伝文字を組むことは、もうしない。
二人が開いた経路へだけ、短い光を通す。
「ボレスさん、左の基部を!」
「おうよ!」
「エステルさん、その奥の枝です!」
「見えてるわ!」
やがて、盤面の灯が確実に減り始めた。
アレクサンダーの指運びが、わずかに速くなった。
「これは驚いた」
三本の黒い枝が、同時に赤黒く灯った。
互いに交差しながら外側の環へ伸び、どれが本線か見分けがつかない。
「まだ手があったのか」
ボレスが荒い息を吐きながら舌打ちした。
エレナリアは痛みを堪え、息を詰めた。
三本。
今のエレナリアが、一呼吸で断てるのは一本だけだ。
三本すべてを断つ必要はない。
二本を塞ぎ、本流を残る一本へ追い込む。
「ボレスさん、左を潰してください!」
「おりゃあ!」
ボレスが踏み込んだ。
斧が左枝の金属基部を砕き、上腕の包帯へさらに赤が滲む。
アレクサンダーの指が走る。
左枝から消えた赤黒い灯が、即座に右枝へ移った。
「右へ移ります!」
「そっちは通さないわ」
エステルの鞭が、右枝の根元にある回転継ぎ手へ巻きついた。
腰を落とし、継ぎ手が動かないよう手前へ引き絞る。
右へ移りかけた赤黒い灯が、途中で明滅した。
流れは押し戻され、残った中央の一本へ集中する。
「そこです」
エレナリアは杖を向けた。
一呼吸。
限界まで絞り込まれた金色の光が、中央の駆動経路を貫いた。
外側の巨大な環の回転が、不快な金属の軋みを上げながら遅くなっていく。
アレクサンダーの手が、盤面の上で完全に止まった。
「やめなさい、エレナ」
その声に、初めて焦りが滲んだ。
「お前は私の最高傑作になる」
エレナリアの亜麻色の髪が、止まりかけた環の風に揺れた。
「レオンとは違う。お前には、私の研究を完成させる資質がある」
エレナリアは足を止めなかった。
枝分かれした灯が消え失せた盤面に、黒い線が一本だけ残っていた。
アレクサンダーの掌から操作盤へ沈み、すべての指令を送り込んでいる太い線。
エレナリアは迷いなく、そこへ杖を向ける。
「私は、もう答えました」
一呼吸。
金色の光が、最後の線を焼き切った。
光が消えると同時に、エレナリアの膝が一度沈んだ。
杖へ体重を預けて持ちこたえ、それでも顔を上げた。
盤面の灯が、すべて消えた。
外側の環の逆回転が、ゆっくりと失速し、完全に動きを止めた。
残っていた黒い金属枠が、力を失って床へ垂れ下がった。
中心に近い、最後の白い一環。
それは、最初から動いていなかった。
広間は、静まり返った。
ただ、拘束椅子へつながる太い導管だけは、灯を失っていなかった。
操作盤を迂回して深部へ沈み、生き物のように低く脈打っている。
◇
アレクサンダーは、動かなくなった操作盤を静かに見下ろした。
冷たくなった盤面の縁を、指先で一度だけ撫でる。
それから、背後の拘束椅子へ手を伸ばした。
「お父様――」
エレナリアが声を上げた。
アレクサンダーは椅子の背から、一本の中枢接続端子を引き抜いた。
娘の胸へ、突き立てるはずだったもの。
「させるか!」
ボレスが踏み出した。
だが、間に合わなかった。
アレクサンダーは、祈りを捧げる者のように微笑んだ。
そして端子を、自らの胸骨の下へ深く突き立てた。
「我が神よ」
顔が上がる。
その目は、敗北を見ていなかった。
「この身も魂も、すべてあなたに捧げます」
端子の根元から黒い泥が滲み、血管のような筋となって皮膚の下を走り始めた。
「……ああ」
アレクサンダーの口元が緩む。
「聞こえる……ついに、御声が――」
恍惚だった。
長い研究の果てに、ようやく待ち望んだものへ届いたという顔だった。
黒い筋は、一息のうちに胸から喉元まで這い上がった。
アレクサンダーが、自らに刺した端子へ右手を持ち上げた。
だが、その手は途中で止まった。
肘から先が、ピクリとも動かない。
指先が、もう本人の命令を聞いていなかった。
緩んでいた口元が、引きつった。
「待て」
声から、歓喜が消えていた。
「私は、アレクサンダー・ヴァルキエル……」
そこで、言葉が不自然に途切れた。
碧い目がエレナリアへ向く。
そのとき。
その目から、娘を認識する色が抜き取られるように消えた。
「待て……私は、あなたの――」
選ばれた信徒であることを訴えようとした言葉は、最後まで続かなかった。
黒い筋が、顎を越え、頭部を覆う。
その目から、恐怖さえも消えた。
身体は、まだそこに立っている。
けれど、その内側には、もうアレクサンダーの反応が何一つ残っていなかった。
エレナリアは、杖を強く握ったまま動かなかった。
謝罪はなかった。
後悔もなかった。
父が最後に縋ったのは、娘ではなく、神だった。
◇
最後の白い環は、止まったままだった。
完全解放には至っていない。
それでも。
深部へ残った黒い導管を通じて、封印の内側から別の意志が流れ込んでくる。
濃密な死の魔力が広間を満たし、空気が重く冷えた。
エステルが鞭を握り直した。
黒髪の下で、その目が大きく見開かれる。
「……エレナ、下がって」
アレクサンダーだった身体が、ゆっくりと顔を上げた。
外形は、変わっていない。
顔立ちも、碧い瞳も、父のままだった。
引きつっていた口元が、かつて書斎で見た穏やかな形へ戻っている。
それでも、そこにアレクサンダーはいなかった。
同じ顔が、同じ声で告げた。
「エレナリア、私だ」




