第23話 父との再会
駆動音は、進むほどに大きくなっていった。
床を伝う振動が、杖を握る手にまで届く。
エレナリアはボレスの腕に支えられ、一歩ずつ足を運んでいた。
左手には、荷袋へ戻す間もなかった月のプーラが握られたままだった。
脇腹の奥は、まだ脈打つたびに軋んでいる。
浅い呼吸を重ねても、太陽と月を同時に灯せるほどには戻らない。
「無理はするなよ、嬢ちゃん」
ボレスの上腕では、包帯の赤黒い染みが広がったままだった。
エステルが半歩先を行く。
肩を布で支えたまま、低い位置で鞭の柄を握っている。
黒髪の下の目が、通路の先を測っていた。
やがて、通路が終わった。
その先にあったのは、天井の見えない広間だった。
広間の中央に、巨大な石の環があった。
幾重にも重なった環が、太い金属の軸に支えられ、天球儀のように組み上がっている。
外側の環は黒い導管に侵され、刻まれた線とは逆の向きに、重い音を立てて回り続けていた。
ただ一つ。
中心に近い最後の一環だけが、古い白い刻線を保ったまま止まっていた。
環の基部には、古い石造りの設備へ金属部品を継ぎ足した操作盤がある。
その前に、人影が立っていた。
背を向けたまま、操作盤の傍らに置かれた記録板へ数値を書き込んでいる。
囚われてはいない。
苦しんでもいない。
千二百年の設備を、理知をもって作り替えている背中だった。
エレナリアの喉が、音もなく動いた。
「……お父様」
人影が振り返った。
アレクサンダー・ヴァルキエル。
記憶のままの顔だった。
書斎で本を読んでいた、あの穏やかな目元。
乱れひとつない身なり。
狂った様子は、どこにもなかった。
「よくここまで来た」
父は静かにそう言った。
「やはり、お前には資格があった」
再会を喜ぶ声だった。
けれど、エレナリアは気づいた。
その目に映っているのは、娘ではない。
記録の頁にあった、あの記号だった。
――第二候補。生存運用。中枢接続値、良。
父の視線が、エレナリアの胸元へ落ちた。
赤い外套の下に収めた、太陽のプーラ。
次いで、左手に握られた月のプーラへ移る。
「月はレオンに持ち帰らせるつもりだったが……」
アレクサンダーは淡々と続けた。
「お前自身が、太陽と月の両方をここまで運んだか」
予定が狂ったことへの苛立ちは、声のどこにもなかった。
「結果としては、こちらの方が都合がいい」
エレナリアの背筋が冷えた。
外れた計画を、この人はその場で組み直している。
兄の失敗さえも、材料の一つとして。
アレクサンダーの目が、もう一か所で止まった。
戦闘で結び目の緩んだ布包みから、星形銀白石の尖った一角が外套の合わせ目に覗いている。
「レオンの剣から外したのか」
アレクサンダーは銀白石へ目を細めた。
「後継者の証としては相応しい。だが、それに術式上の価値はない。すでに調べた」
それだけだった。
アレクサンダーの視線は、すぐに石から離れた。
父が、魔力を持たない儀礼の品だと判じた石。
自ら検査し、不適と結論づけたもの。
アレクサンダーにとってそれは、もう見る価値のないものだった。
エレナリアは杖を握り直した。
聞かなければならないことがあった。
記録で読んだ。
兄の口から聞いた。
それでも、この人の口から聞くまでは、終わらせられなかった。
「お兄様を殺したのは、お父様なのですか?」
駆動音の中で、その声は細く、けれどはっきりと届いた。
「そうだ」
アレクサンダーは隠さなかった。
「レオンは理解しなかった」
詫びもしなかった。
「あれは私を止めようとした」
言い訳もしなかった。
「第二候補のお前が残っている以上、危険な第一候補を生かしておく理由はない。必要な処置をしたまでだ」
背後で、ボレスの肩が動いた。
エレナリアは支えられたまま、その前腕へ手を置いた。
「まだです、ボレスさん。私が聞きます」
ボレスの腕が止まった。
エレナリアは、もう一つの問いを口にした。
「あの夜、屋敷を襲わせたのも……お父様なのですか?」
「そうだ」
アレクサンダーの返答には、ためらいがなかった。
「封印の使命に固執する者も、私を止めようとする者も、残しておく理由はない」
「お母様も?」
「エミリアは、お前を逃がした」
それは妻を悼む声ではなかった。
「だから、あれも処置した」
その一言で、エレナリアの呼吸が止まった。
母の最期を語る言葉が、それだけだった。
その声には、妻を失った痛みも、娘から母を奪った悔恨もなかった。
計画を妨げた対象を処理した。それだけだった。
エレナリアは唇を強く噛んだ。
杖を握る手が震える。
それでも視線だけは逸らさなかった。
「……『第二候補』とは、何ですか?」
エレナリアは、記録にあった言葉を口にした。
「お兄様とお母様を殺して、私だけを残したのは……何に使うためですか?」
アレクサンダーは、白い刻線を保った最後の環を指した。
「最後の一環は、一人では動かせないよう造られている」
「……二人、要るのですね」
「環を操作する者とは別に、ヴァルキエルの継承術式を持つ生者が、家伝命令を流し続けなければならない」
先祖が遺した、最後の錠だった。
執行と継承を分けることで、一人の意志だけでは封印の中枢を動かせないようにしている。
アレクサンダーは、その安全のための仕組みを反転へ利用するつもりだった。
「私がその構造を反転へ利用し、お前が経路を保つ」
アレクサンダーの指が、停止した環からエレナリアへ向いた。
「解放の後は、お前がそのまま儀式の制御核となる」
アレクサンダーの声には、疑いがなかった。
自分の理論が正しいと信じきっている。
「それが、お前を生かしておいた理由だ」
アレクサンダーが手を差し伸べた。
「お前もこちらへ来なさい」
書斎で本を勧めてくれた、あの頃と同じ仕草だった。
「父と娘で、神の目覚めを見届けよう」
エレナリアは、ボレスの腕から離れた。
対話の間に、浅い呼吸を何度か整えていた。
痛みが消えたわけではない。
それでも、自分の足で立った。
杖へ体重を預ける。
脇腹の奥が鋭く軋み、膝が一度だけ揺れた。
亜麻色の髪が、震える肩から滑り落ちる。
「ヴァルキエル家の使命は、封印を守ることです」
アレクサンダーの差し出した手が、わずかに止まった。
「その使命を、あなたの狂信には渡しません」
エレナリアはアレクサンダーの目を見た。
「私は、あなたを止めます」
赤い外套の裾が、回転する環の起こす風に揺れた。
アレクサンダーは、小さく目を伏せた。
その表情に浮かんだのは怒りではない。
「……お前も、レオンと同じか」
期待していた結果が得られなかった者の、静かな落胆だった。
ボレスが長柄戦斧を構え直した。
「嬢ちゃん……あいつぁ、もう人間の理屈で話してねぇ」
「いいえ」
エステルは痛む肩を落としたまま、アレクサンダーを見据え、低く鞭を構えた。
「理屈だけは、人間のままよ」
ボレスとエステルが、エレナリアを守るように左右へ並んだ。
「……まだ人間という尺度で、私を測るのか?」
アレクサンダーが初めて、小さく笑った。
「だから、お前たちは理解できない」
落胆は、すぐに消えた。
計算の切り替わる音が、聞こえるようだった。
「不要なのは、その二人だけだ」
アレクサンダーは操作盤へ手を置いた。
「お前は殺さない。生きたまま中枢へ接続する」
外側の封印環が、回転を速めた。
環の外周に並んだ黒い金属枠が、軸を軋ませながら、一斉に三人の側へ向きを変える。
壁の金属蓋が、次々と開いた。
暗がりの中で、防衛用の屍兵たちが身を起こす。
黒い導管へ、赤黒い灯が走った。
エレナリアは杖へ体重を預けたまま、父を見据えた。
「来るぞ!」
ボレスが低く叫ぶ。
「……ええ」
エステルが短く応え、鞭を握る手に力を込めた。
重い駆動音が、決裂の沈黙を呑み込んだ。




