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第22話 半身の女

黒い導管を追って進むと、保管槽のない小さな部屋があった。


壁一面が棚で埋まり、綴じられた記録が並んでいる。

中央には机が一つ。

奥には閉ざされた鉄扉があり、その縁へ細い黒い導管が入り込んでいた。


「ここで少し休みましょう」


エステルが入口の扉を閉め、内側から閂を下ろした。

ボレスは入口の脇へ立ち、灯りを低く保ったまま、扉越しの物音に耳を澄ませた。

青い髪が、汗で額に貼りついたままだった。


「腕、出しなさい」


エステルが荷袋から布を引き出した。

ボレスの上腕に巻かれた包帯が、赤黒く染まっている。

二撃目を振り切ったときに、傷が開いたのだ。


「かすっただけだ」

「二度目よ、その台詞」


黒髪を耳へ掛け、エステルは血の滲んだ布を解いた。

新しい布を巻き、端を強く結ぶ。


「お前もだ」


ボレスが灯りを置き、エステルの肩へ手を伸ばした。

上着の襟を少し開くと、肩から鎖骨にかけて赤黒く腫れている。


「折れちゃいねえな」

「言ったでしょう」

「動かせば響く。肩を支えるぞ」


ボレスは布を肩から胸へ回し、関節が大きく動かないように結んだ。


エステルは腕を腰の高さで一度動かした。

肩より上には上がらない。

だが、この位置なら鞭は扱える。


エレナリアは壁際に座り込み、赤い外套の前を押さえていた。

脇腹の奥が、脈打つたびに軋む。

深く吸おうとすると、途中で息が止まった。


エステルが水袋を差し出す。


「ありがとうございます」


三人は、ほんの少しずつ水と携帯食を口へ運んだ。


治ったわけではない。

戦えるだけの状態へ、辛うじて戻しただけだった。



呼吸が落ち着くと、エレナリアは棚へ手を伸ばした。


背表紙に年号が振られている。

古い順に引き出し、机へ広げた。

最初の一冊は、封印の維持記録だった。


湿度。

温度。

石壁の亀裂の進行。


封印環の状態が、先ほどの作業記録と同じ父の筆跡で淡々と記されていた。

数冊進むと、記述が変わった。


――接触試験。


エレナリアの指が、頁の上で止まった。


「なんて書いてあるの?」

「封印の向こう側へ、呼びかけようとしています」


ボレスが眉を寄せた。


「何の封印だ?」


エレナリアは一度、言葉を詰まらせた。


「……屍神モルティヴァスを閉じ込めた封印です」

「モルティヴァス……?」

「古い神話に名だけが残る、死者の神です」


ボレスの眉間に、深い皺が刻まれた。


「その神が、本当にこの島の下にいるのか」

「……はい」


さらに数年分。


――死体媒体、十七体。適合率、低。

――解放経路、第三案。所要期間、短縮の見込み。


亜麻色の髪が、俯いた頬へ落ちた。

エレナリアはそれを払いもせず、頁をめくり続けた。


文字も、実験手順も、少しも乱れていなかった。

最初の頁と同じ、几帳面で端正な記録だった。


エステルが、初めの一冊と今の頁を見比べた。


「……取り乱して書いたものではないのね」

「はい。自分が何をしているのか理解したまま、続けています」


変わったのは、そこに書かれている中身だけだった。


――御声を賜る。

――神の器として、いかに整えるべきか。


エレナリアは息を詰めたまま、さらに先の頁をめくった。


終わりの方の頁に、身分だけが並んだ項目があった。


――現継承者。計画への理解なし。障害。処置対象。


その項目が指すのは、レオンだった。

そして、隣の頁。


――第二候補。生存運用。中枢接続値、良。


エレナリアは頁を押さえた。

指先が白くなるほど、紙の端を握っていた。


「エレナ」

「……大丈夫です」


大丈夫ではなかった。


兄も、自分も、父の記録の中では人間ですらなかった。

処置すべきものと、使えるものに分けられていただけだった。


赤い外套の下で、エレナリアは一度だけ肩を震わせた。

それから、次の頁をめくった。


そこには、未完成の理論が書かれていた。


――太陽と月は同時に起動しうる。

――だが、両者は互いに干渉する。

――別々の術式経路へ精密に導くには、両者を受け、それぞれへ送り出す第三の接続点が要る。


エレナリアの手が止まった。


四本の枝線へ広がった光。

背中の箱でつながっていたのだと、そう考えていた。


胸元へ手をやる。

布越しに、小さな石の輪郭があった。


だが、外したときには何も起こらなかった。

太陽のプーラも、単独ではまるで反応しなかった。

先ほど胸元に感じた温もりも、太陽の術式を使った直後のことだった。


視線を頁へ戻す。

同じ記録の下段に、こう記されていた。


――家伝銀白石。固有魔力反応なし。単独接続に失敗。第三媒体として不適。


父も調べ、第三媒体にはならないと結論している。

エレナリアは胸元から手を下ろした。

この石ではない。



奥の鉄扉の向こうで、金属が外れる音がした。


留め具が一つ。

また一つ。


「――下がって!」


エステルが叫んだ。

ボレスは答えず、長柄戦斧を構えた。


扉の縁へ入り込んだ黒い導管が、一斉に脈打ち始める。

内部を何かが流れる音が、壁越しに伝わってきた。


鉄扉が、内側から歪んだ。

蝶番が弾け飛び、扉が床へ倒れる。


その向こうに、縦型の乾式処置架が見えた。

拘束具は外れ、架は空になっていた。


そして、それが入ってきた。


エレナリアは息を呑んだ。


右半分は、人だった。

肌には血の気が残り、長い髪が肩へ垂れている。

纏った布の袖口には、手編みの模様があった。

顔は、美しかった。


だが、左半分は、そうではなかった。


肥大した骨格。

数の合わない指。

縦に裂けた口。

肩から腰にかけて、幾つもの死体と黒い導管が縫い合わされている。


「まだ、生きている」


女の右側の唇が動いた。


ボレスが戦斧を持ち上げた。

その瞬間、女の目がボレスへ向く。


「私を殺さないで」


ボレスの手が止まった。


エレナリアが杖を構える。


「左側だけを焼いて」


言葉が、こちらの動きに合っていた。


エステルが痛む肩を落とし、鞭を低く構え直しながら半歩下がると、女は再び同じ言葉を発した。


「まだ、生きている」


「……嬢ちゃん」


ボレスの声が掠れた。


「こいつは……」


エレナリアは、女の顔を見た。


「あなたのお名前は?」


静かに、はっきりと尋ねた。


女の唇が動く。


「私を殺さないで」

「お名前を教えてください」

「左側だけを焼いて」


エレナリアは杖を握り直した。


旧墓所で見た家族の姿を思い出す。

あれも、こちらの問いには答えなかった。


兄は違った。

問いに答え、問い返し、自分の意志を伝えた。


エレナリアは荷袋から月のプーラを取り出した。

広くは灯さない。

女の右半身だけへ、瞬きより短く、細い青白い光を当てる。


――魂の光は、なかった。


代わりに見えたのは、細い術式の網だった。


顔から喉、胸へと走り、いくつもの枝に分かれている。

こちらが動くたび、その一つへ力が流れ、保存された声や表情、言葉を選び出していた。


別の一本は、胸から中央の縫い目へ伸びている。

右半身の筋肉を収縮させ、融合部を固く閉じ続けていた。


エレナリアは光を消した。


途端、脇腹の奥が鋭く軋み、膝がわずかに落ちる。


杖を突き、身体を支えた。

それでも顔を上げ、二人へ告げた。


「……違います」


赤い外套の裾が、床の埃を掃いた。


「助けを求めている人は、もうここにはいません」


ボレスとエステルが、一瞬だけエレナリアを見た。

問い返しはしなかった。


ボレスは無言で長柄戦斧を握り直し、エステルも鞭を低く構え直した。


左半身が動いた。

肥大した腕が振り下ろされ、石床が砕ける。

裂けた口から、鼻を刺す黄色い霧が噴き出した。


「毒よ!」


エステルが鞭を低く払い、風を走らせた。

黄色い霧が横へ巻かれ、倒れた鉄扉の向こうへ押し戻されていく。


ボレスが正面へ出た。

伸びた肉の触手を、戦斧で断ち切る。


落ちた肉が石床で跳ねた。


だが、切断面から黒い糸が伸び、肉片を引き戻していく。

断たれた触手が、濡れた音を立ててつながった。


「切っても戻りやがる!」

「私を殺さないで」


右半身の顔がボレスへ向き、その唇が同じ言葉を繰り返した。

同時に、中央の縫い目が強く収縮した。


エレナリアは状況を組み立てた。


先ほど月の光で見た、右半身の術式網。

声を選ぶ枝と、融合部を閉じる枝。


目の前で黒い糸を走らせ、触手をつなぎ直す左半身の再生経路。


二つは術式として接続していない。

別々の経路が、同じ融合部を支えている。


左の再生を焼いても、右の枝が縫い目を閉じたままでは、太陽の光が尽きるまでに融合部を露出させられない。

右の枝だけを押さえても、その間に左半身が融合部を再生する。


一呼吸のうちに融合部を露出させるには、二つを同時に止めるしかない。


――なら、両方を同時に。


エレナリアは杖の石突を石床へ打ち据えた。

亜麻色の髪が、俯いた額へ落ちる。


胸元の太陽のプーラと、手の中の月のプーラ。

残された最後の一呼吸で、その両方を灯した。


脇腹が悲鳴を上げる。


金色と青白い光が、同時に杖先から走った。


本来なら二つの光は互いに乱れ、どちらの経路にも正確には届かないはずだった。


エレナリアの目が見開かれた。


――乱れない。


青白い光は右半身の術式網へ滑り込み、声を選ぶ枝と、融合部を閉じる枝を押さえた。

金色の光は左半身の導管へ流れ込み、屍術と再生の回路を焼いた。


女の唇が、言葉の途中で止まった。

左半身の触手が垂れ、裂けた口から霧が漏れなくなる。


二つの支えを同時に失い、中央の縫い目が緩んだ。


「エステルさん!」

「ボレス、左を!」


エステルが短く指示を飛ばした。


ボレスが戦斧の柄を左半身の胸へ押し当て、体重を掛けて動きを封じた。

エステルの鞭が右半身へ回り込み、中央の縫合部へ食い込む。

腰を捻り、風を重ねて横へ引いた。


左を押さえる力と、右を引く力。

逆方向の力を受け、中央の縫い目が裂けるように開いた。


「ボレスさん!」

「おうよ!」


ボレスが長柄を引き戻し、刃を返した。

露出した融合部へ、戦斧を叩き込む。


融合部が砕け、二つの半身が同時に崩れ落ちた。



エレナリアの膝が折れた。

杖では支えきれず、床へ倒れかける。


「おっと」


ボレスが無事な方の腕で、その身体を抱き止めた。


「無茶しすぎだ、嬢ちゃん」

「……すみません」


息が浅い。

指先まで冷えている。


エステルが屈み、残骸の縫い目を見た。


「術式の経路は、本当につながっていなかったのね」

「はい」


エレナリアは、ボレスに支えられながら言葉を継いだ。


「前の屍兵は、背中の金属器で四本の枝線がつながっていました。だから光が広がったのだと、そう思っていました。でも、今の二つの術式経路には、つながりがありませんでした」


「それなのに、光は別々に届いたわけね」


エレナリアは父の未完成理論を思い出す。


別々の経路へ精密に導くには、第三の接続点が要る。


「……この場所に、残っているのかもしれません」


エレナリアは天井を見上げた。


「千二百年前の封印回路が、まだどこかに残っていて。それが、一時的に第三の接続点として働いたのかも」


少なくとも今のエレナリアには、それ以外の説明を見つけられなかった。


胸元の小さな石は、布の下で、何も語らないままだった。



そのときだった。


床が、低く震えた。

腹の底へ響く、重い駆動音。

壁を、床を走る黒い導管が、一斉に脈打ち始めた。


奥へ、奥へと、何かが流れていく。


「動き出したわね」


エステルが立ち上がり、黒髪を後ろへ払った。

その目は、通路の先を見据えている。


「行きましょう」


ボレスがエレナリアを支えて立たせた。

エレナリアは杖を握り直す。


赤い外套の裾が、脈打つ導管の脇を掠めた。


三人は、駆動音の響く最奥へ向かって歩き出した。

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