1-3-36 結界
次の日は、かなり特殊な日であったと言えるだろう。
午前中は書物の解読作業をしていた。途中、一時間ほどであったが、謎の悲鳴が聞こえてきた点以外は、特別なことなど何もない普通の時間だった。
午後になって、部屋にルグテースがやって来た。
「実は少しルティの力を借りたい案件ができてね」
「私の力を…?」
「そうだ。ルティ、君は、魔法が得意だったね?」
「はい」
「なら、ちょっと強い防護結界を作ることもできるかな?」
「できるとは思いますけど…何から護るんですか?」
「ネズミだよ」
「ネズミ…?」
まさか本当に小動物のネズミなわけなどない。
ルティはこっそりバレないように、ポケットに手を触れた。魔法をかけているので他の人には見えないが、ここにはガイルと繋がる銀の栞と、ハルテアと繋がる赤のペンが入っている。どちらもわずかに熱を持ち、持ち主が近くに来ていることを示していた。
が、それをバレるわけにはいかない。
「わかりました。ただ、集中したいので、書物の解読のほうは中断しても良いですか?」
「あぁ、構わないとも。さて、ついて来なさい。入口まで案内しよう」
ルグテースの案内で部屋の外に出る。背後には三人の大人がついてきており、ルティが逃げないように見張っていた。
彼が案内したのは、階段を三つ登った上の扉だった。
「ちょっと大変だろうけどね、この扉を起点にして、一つ階段を降りるごとに結界を張ってほしいんだ。できるかな?ただし、このフロアに出入りするメンバーは除外してくれ」
「やってみます」
とは言ったが、百パーセント素直に従うわけではない。
術を編み上げながら、浮かび上がってくる像──信頼できる少年、心を許せる少女、賢くも仲間を導こうとする白猫──についても除外対象にする。
なんとなく、彼らはすぐ近くに来ているような、そんな気がしたのだ。
「これで大丈夫だと思います」
「そうか。少し待っていてくれたまえ、人を呼ぶから」
無線のようなものを使って、ルグテースが誰かを呼びつける。
しばらくしてやって来た灰色の長衣の男性は、何も知らぬままルグテースのもとに小走りで近づいた。
そして、見えない壁に激突した。
「あの…これは…?」
「結界だ。この子が張った」
「そうですか…せめて説明してくださいよ、全く…」
男は鼻先を痛めたのか、しきりにそこを触っている。
何となく気になったので、痛み止め効果のある魔法をかけようとした時だった。
「ルティ、それは必要ないよ」
ルグテースがルティの手を掴み、来た道を戻る。
「特に問題点が見つからなければ、結界はあのまま維持してくれ。では、部屋に戻って解読の続きをするといい」
ルグテースはフロアの入口で掴んでいたルティの手を話すや否や、すぐに階段を登ってどこかへ向かってしまった。
部屋に戻り、解読作業を続ける。
時間はただ流れ、やがて夜になった。
寝室の扉が施錠され、薄暗がりの中、ルティはオークルの姿を探した。
二段ベッドの上にいるかと思ったが、どこにも見当たらない。
隣の部屋の扉も施錠されているため見ることはできないが、そっちにいるのだろうか。
不安になりながら、一人の夜を過ごした。
翌日になっても、三日目になっても、オークルの姿を見ることなく、日々が過ぎていった。
部屋の外の動きらしいものは何もなく、銀の栞も、赤のペンも、まるで輝かない。
世界に取り残された、あるいは、見捨てられたか。
ルティの心の中は、わずかな希望のみ残した暗闇になりかけていた。
…………………………………………………
結界を張ってから四日目、ルグテースが部屋にやって来た。
「実は、結界の件で少々問題が発生したみたいでね。ついてきてくれるだろう?」
怒りを隠そうとしているような雰囲気すら感じて、ルティは何も言わず彼について行った。
向かったのは、この間訪れたのと同じ場所──三つ上の階の扉の前だ。
「今日は特別ゲストを呼んでいる。まぁ、どちらもルティの知っている者だがね」
「私の、知っている…?」
嫌な予感がした。
ルグテースが無線を使って、誰かを呼びつける。
しばらくして、人がやって来た。
「やぁ、ルティ。久しぶり」
そう言ってやって来たのは、四日ぶりに顔を合わせた、オークルだった。
オークルの顔はどこか疲れた表情をしていて、覇気があまり無い。
ただ淡々と、言われたことだけを行う、諦めた人の顔をしていた。
「オークル、どうしたの…?」
「それについては、直接後で聞くといい。オークルはわけあって、しばらくここを離れていたんだよ。今日からまた部屋に戻すから、その時に話せば良いさ。毎晩、話していただろう?」
ルグテースは知っていたのだ。ルティとオークルが親しくしていたことを。
いや、知らなくても予想できた事柄なのかもしれない。慣れない環境の中、年が近くて明るい性格の人物が近くにいれば、その人と親しくなることなど容易に想像できる話だ。
「それで、私は何をすれば…?」
「話が早くて助かるよ。実は、この結界には綻びがあってね。見てもらったほうが早いと思うんだが、簡単に言えば、抜け道があった」
ルグテースが合図し、オークルが何かを腕に抱えてこちらにやって来る。
白くて、滑らかな毛の生えたそれは、ぐったりとしていて。
そして、大切な仲間だった。
「ト…ルテ……?」
「やぁ、ルティ」
声だけは頑張って元気にしているようだが、身体は泥だらけだ。
会いたいと思っていた仲間が、こんなにも見たくない姿で再会するとは。
「ではオークル、それをしっかり抱いたままこちらに」
「はい」
オークルはトルテを抱いたまま、結界を乗り越える。
はじめからオークルは結界の除外対象に含まれていたので普通に通れるが、本来ルティがしっかり術を編み上げていれば通れないはずのトルテも、結界を乗り越えた。
「君は、仲間が助けに来ると思っていたのだろう?残念ながら、この組織に歯向かうことはつまり、命を捨てることに等しいんだよ。
前にわたしがなぜここにいるのか訊いたね。それは、ここを離れればわたし以外の者が傷つけられることが分かっていたからだ。
そして、この組織をめちゃくちゃにしようとした者もこうして傷つけられる」
ルグテースがそう話すが、言葉はルティの右耳から左耳へ流れてゆく。
「もう少ししっかり結界を張り直しなさい。これは、君のためであり、君の仲間のためでもあるんだ」
「他の…人は……?」
「すでに捕まっているだろう。まだ生きてはいるだろうが、五体満足である保証は無い」
ルティの目の前は、真っ暗になった。
…………………………………………………
それからのことはよく覚えていなかった。
ルティはいつの間にか部屋に戻っていて、なぜか今日の解読作業は免除…というか禁止され。
寝室に戻ってオークルのいる隣の部屋の扉を眺めていた。オークルはまだ寝室には来ない。
もう、希望は潰えていた。ガイルも、ハルテアも、捕まっているだろう。
もしかしたら、三日前には捕まっていたのかもしれない。あの悲鳴が、拷問を受ける仲間の声だったのかもしれない。
涙はいつの間にか枯れていた。
扉がノックされ、隣の部屋から、オークルがやって来る。なぜかオークルは、泥だらけのトルテを連れていた。
「トルテ……」
「ルティ、大丈夫…とはいえないかな。身体は問題無い?」
「…………」
トルテのほうがボロボロなのに、ルティの身体の心配をするなんて。
それでも、なんとか言葉を振り絞って、言った。
「トルテ、生きてて良かった……」
トルテがにゃー、と鳴く。ルティの膝の上に登り、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「ルティ、その…ごめん。逆らえなくて…つい、やりすぎた」
「ううん、大丈夫。連れてきてくれてありがとう」
「疲れているでしょ、ルティは。少し、休むといいよ」
たしかに疲れていた。身体ではなく心が、安心と休息を求めていた。
横になったところで取れる疲れは身体的な表面のものでしかないだろうが、オークルの言葉に甘えて寝る体勢になる。
微睡み、意識が遠のく中、トルテとオークルの声がした気がした。
「作戦成功だね」
「このまま進めよう。ルティには悪いけど」




