1-1-19 灰色の接触
湖の下には、太陽の光はあまり届かない。
そのため、自分がいつ寝ていつ起きたのかを知るには、時計を見るしかなかった。
ルティが目覚めたのは、いつもと同じくらい…すなわち九時過ぎだった。
毛布を畳んで隅に片付け、辺りを見回す。
ハルテアはまだ寝ているけれど、他の人がいない。
螺旋階段を上って上の階に向かう。昨日の夫婦は今日は留守なのか、人の気配はしなかった。
そのまま外に出ると、建物の横に小道があることに気づく。
砂利敷の小道を進むと、空き地に出てきた。下草があちこちに生えた、あまり手入れのされていない空間だ。
そこに、ガイルとエルテがいた。
ガイルは刀の素振りをしており、エルテがその近くで本を読んでいる。
「おはよう」
声をかけると、ガイルは素振りを中断し、エルテが本から顔を上げた。
「おはよう、よく寝れた?」
「うん、ばっちり。ガイルは?」
「俺は寝すぎたくらいだよ。普段日光に頼りすぎていたことに気付かされた。…いくつまでやったっけ?」
「八百六十二だったよ」
「あと百三十八回か」
ガイルが再び素振りを行う間、ルティはエルテのそばに座った。
「マルはいつ戻ってくるのかな」
「わたしが呼べばいつでも戻ってくるけど…作戦を実行するなら、自然にあの子が呼んでくれるまで待たなきゃいけないのがちょっともどかしいね」
「ねぇ、エルテ。…今回の作戦が成功して、マルが安心して暮らせる環境になったあとはさ…地上に戻ってくるつもりはある?」
「どうかな…わたし、仕方ないとはいえ、神聖な裁判に乱入したのは変わらないし。戻ることが許されないかも」
「トルテが会いたがっていたよ」
「…トルテもマルも、寂しがりやだから」
「あなたも、寂しかったんじゃない?」
ルティが言うと、エルテが驚いた。
ルティからすれば、エルテが寂しい思いをしていることは、肖像画を見たときから分かっていたことだった。具体的にどう寂しかったのかは当時のルティには分からなかったけれども、今ならよく分かる。
「寂しい気持ちって、頑張って隠そうとすると、雰囲気で伝わってくるの。ほとんどの人には分かりにくいことだけど、私もずっと寂しい思いをしているから、分かる」
「ずっと寂しいの?」
「そう。両親の不在ってだけじゃない、何か大きなものがぽっかりと欠けて寂しい、そんな感じが、ずっと」
幼い頃からずっと、隣りにいたはずの誰かが突然いなくなって帰ってこなかった、そんな感覚の寂しさを抱えていた。まだ母親と暮らしていた時からずっとだ。生まれる前に亡くなった父親を求めていたのだろうが、もしそうでなければ。
「一回くらいは、トルテに会いに行っても許してくれそうだけどな、あの人達なら」
「もしわたしが地上に戻れるなら…その時には、トルテにリボンをあげようかな」
「えー!かわいいリボン、あたしも一緒に探したーい!」
ドタドタと走る音がしたと思うと、寝起きのハルテアが飛び込んできた。顔は洗ったばかりのようで水滴が首につたっているし、寝癖もまだついたまま。本当に起きたてなのだろう。
「絶対似合うもん!トルテ、白い猫だから、赤も青も黄色も緑も、黒も茶色も紫もなんだって似合いそう!」
「トルテを飾り付けたいなら、作戦を成功させてエルテを地上に連れて行かないとな」
素振りを終えたガイルが汗をタオルで拭いながら言う。彼はいつも全体の盤面を見て的確なことを言うタイプだ。たまに脱線が激しい時などの軌道修正が上手い。
「そうだね、ひとまずマルからの連絡を待とう」
…………………………………………
時刻が午後一時をすぎる頃、マルからの連絡──魔素振動による音波の歌──が届き、ルティ達はエルテが読み取った場所へと走って向かうことになった。
街の大通りを抜け、いくつかの地区を通り過ぎ、来るときに見かけた高い尖塔のいくつかの横を走り去る。
幸いルティが魔法に詳しく敏感なため、残ったエルテと微弱に繋がりながらマルの居場所を探していた。
『もっと奥の方…深いところ…』
ルティ達の前には、罪人の街ノアラターンでも特に大きく背の高い建物がそびえ立っていた。メッセージが指しているのは、あの建物だ。
「どうやって中に入るの?」
「入口から入るのは…難しそうだね」
建物の入口には、門番が二人立っている。どちらも灰色の長衣を身につけており、鋭い視線で辺りを見張っていた。
「他の入口が無いか探そう」
東回りに建物をぐるりと一周する。入口の正反対にもう一つ出入り口があったが、そちらは鍵がかかっていて入れなかった。一度、ハルテアが自慢の拳で、というかナックルで扉を叩き壊そうとしたが、分厚い鉄の扉はびくともしなかった。
「塀の低いところがあった。あそこから侵入しよう」
ガイルが覚えていた塀の低いところに向かう。低いといっても、高さは四メートルくらいはある。
塀の上には開け放たれた出窓があり、そのため塀が低いのだった。
「あそこにこれを引っ掛ける」
「鉤縄?」
「いつ用意したの?」
「今朝、ガラクタ置き場に案内された時、そこで見つけた。何かの役に立つものもあるかも、だってさ」
ルティ達は、各々の武器以外の持ち込みはできない。だから、エルテがこっそり集めていたガラクタをいくつか借りていた。その一つだ。
ガイルは鉤縄を軽く振り回してから、出窓に向かって投げつける。が、鉤縄は窓のガラスにかつんと当たって落ちてきた。
「おかしいな…いつもはできるんだけど…」
「あたしやってみるー!」
ハルテアが投げてみると、今度は見当違いの方向に飛んでいった。
彼女がめげずにもう一回投げてようやく、鉤縄が出窓に引っかかる。
「できたよー!それじゃあ、あたしに続いてー!」
ハルテアがすいすいと壁を登り、出窓の向こうへと消える。続いてルティとガイルも同じように壁を登った。
出窓の向こうは、聖堂のような空間になっていた。
机が規則正しく並んだ天井の高い建物で、明るい蝋燭の灯りが部屋中を照らしている。
そこが聖堂でないことが分かるのは、部屋の中央に開かれた上げ扉があることと、その向こうが急な階段になっていることだ。
「罠の可能性が高いような…」
「それでも、先に進もうよ!いろんな人が困っているんだから!」
階段は両脇がガラス窓に覆われた場所で、左右どちらを見ても湖の中を見ることができる。この周囲には捨てられたボートはほとんど見かけず、白い泡が時折見えるだけだ。
蝋燭の灯りが少し懐かしくなる頃、階段が終わり、絨毯の敷かれた廊下に続く。カーブした廊下の奥には、シロウミギツネが彫り込まれた大きな扉があった。
「昔の信仰の名残なら良いが…そうでなければ趣味が悪いことになる」
「その扉、開きそう?」
「ちょっと待ってろ……よし、開いた」
扉の向こうは、聖堂と同じかそれより大きいくらいの開けた場所になっていた。背面の扉と、正面以外の壁や天井はガラス張りになっており、湖の中にいることを否応なしにも感じさせられる。
正面はといえば、魔法で作られた壁があり、湖の水が流れている。
一行が部屋の中を見渡していると、どこかから灰色の長衣を着た男性が現れた。
「所長の言うとおりに来ましたね。いやぁ、意外なことですが当たるとは」
「あんたは誰?」
「グラットという。あなたたちのことは知っていますよ」
「ただ者じゃなさそうだな」
「これでも下っ端のほうなんだがね。仕事はただの酒造り、偉大なる研究に直接関わることもできない身ですよ」
「酒造り?こんな場所で?」
「こんな場所じゃないとできないから困りものなんですよね、ほんと。ウミザケ造りには、湖の新鮮な水と、シロウミギツネの血液が必要なんです」
「ウミザケ…裁判で聞いたやつだ」
「まぁ、ウミザケの効果は抜群ですがね。どんな人にも、あるいはどんなものにでも、飲ませさえすれば、強い幻覚幻聴を引き起こし快楽と同時に激痛を与え、その感覚を癖にさせる、ドラッグみたいな酒ですよ。一杯いかが?」
「それを聞いて飲みたがると思うの?」
「いえいえ、あなたたちではありません。こっちです」
グラットが湖の奥を示す。
すると、遠くの方から白い物体が、マルがやってきた。
マルは昨日会った時とはまるで違う様子をしていた。
目は血走って大きく見開かれ、半開きの口からは牙が見えている。全身が細かく震えており、苦しそうだ。
それでもマルは、獲物を狩るような目でグラットの持つ酒に注目している。
「まさか…マルにそれを飲ませたのか!?」
「まる、とかいうのはこいつのことですかね?まぁそうですね、飲ませましたよ、そりゃたっぷりと。もう引き返すのが難しくなるところまで」
マルが吠え、遠い水面まで高く伸びる水と泡の柱がそびえ立つ。
そしてマルが、グラットの手元の酒にがっつき、飲み干した。
「さてそろそろ退散しましょう」
「待て!」
「待ちませんよ、どうぞそいつと遊んでいてください。こちとら、仕事が忙しいので。ああ、ただ」
グラットが振り返りながらルティを指さす。
「あなたのことは近いうちに回収させてもらいます、とだけ伝えておきますよ。では」
ルティには、彼が言い残したことの意味がよく分からなかった。
質問をしようとしたが、直後の衝撃に、それができなくなる。
シロウミギツネのマルが、本気で暴れていた。




