EP 9
報復のインフレーション(経済ざまぁ)
翌朝。
丸の内にある『黒田重工』の本社ビル最上階。役員室には、けたたましい電話のベルの音と、男たちの怒号が飛び交っていた。
「どういうことだ! 我が社の株が、紙屑同然に売り叩かれているだと!?」
昨日、輝夜の法案を靴で踏みつけた黒田常務は、受話器を床に叩きつけた。
顔面は蒼白を通り越し、土気色に変色している。
隣のソファに座る陸軍の佐藤少佐も、軍服の襟元を乱し、額に大量の脂汗を浮かべていた。
「黒田常務! 我が軍への裏金の振り込みはどうなっている! 貴様の会社の口座が『凍結』されたという連絡が、メインバンクから来ているぞ!」
「わ、私にも分からん! 昨晩からニューヨークとロンドンの市場で、正体不明の巨大資本が我が社の株と社債を底値で『空売り』し続けているんだ! どこかの外資系銀行が、意図的にウチを潰しにきているとしか思えん!」
数時間。
たった数時間で、帝国有数の財閥である黒田重工の資産価値は、八割近くも蒸発していた。
もはや倒産は免れない。いや、それどころか、役員である黒田自身が背負うことになる負債額は、首を括っても到底払いきれない天文学的な数字に膨れ上がっている。
「常務! 常務ゥッ!」
そこへ、血相を変えた秘書が部屋に転がり込んできた。
「銀行団から通達です! 我が社が発行していた手形の全てが『不渡り』になりました! それと……我が社の債権(借金)を全て買い取ったという、新しい『筆頭株主』が、いま面会に――」
「面会だと? そいつを通せ! どこの馬の骨か知らんが、特高を使ってでも吐き出させてやる!」
黒田が叫んだ、その直後だった。
「――馬の骨は、お前らの方だぞ。三流」
重厚なマホガニーの扉が開き。
冷たい声と共に、一人の男が悠然と役員室に足を踏み入れた。
上質な三つ揃えのスーツ。口元には、ふかしたばかりの赤マル。
昨日、日比谷公園で十人の憲兵をたった数秒でスクラップに変えた、あの「バケモノ」だった。
「き、貴様は……あの時の!」
佐藤少佐が弾かれたように立ち上がり、腰の軍刀に手をかける。
だが、義正は全く動じることなく、黒田のデスクに『一枚の紙』を無造作に放り投げた。
「な、なんだこれは……」
震える手で黒田がその紙を手に取る。
それは、昨日の夕方、彼自身が靴で踏み躙り、ゴミ箱に捨てた輝夜の『農村救済特別融資法案』だった。泥と靴の跡が、くっきりと残っている。
「お前らは昨日、この法案を『一円の得にもならない』と言って捨てたな」
義正はソファに深く腰掛け、足を組んだ。
「だから、俺の持っている『外貨』で、お前らの会社を丸ごと買い叩いてやった。現在、黒田重工の経営権と、お前個人の全財産は、俺の管理下にある」
「ば、馬鹿なッ! 我が財閥の総資産を一夜で買い取るなど、国家予算レベルの金が必要だぞ! 貴様ごとき一介のゴロツキに――」
「ゴロツキで結構だ。だがな、算盤の弾き方も知らない豚は、大人しく屠殺場へ行け」
義正は冷酷な目で、黒田と佐藤を射抜いた。
「黒田。お前は今日付けで常務を解任だ。会社の資産は全て農村の救済資金として『適正』に再分配する。お前には天文学的な借金だけが残るが……まあ、せいぜいタコ部屋で一生労働して返せ」
「ひっ……!」
黒田の膝から力が抜け、その場にへたり込む。
「佐藤少佐と言ったな。お前が黒田から受け取っていた『裏金』の帳簿。今朝一番で、お前の政敵である軍本部の派閥に送りつけておいた。今頃、憲兵隊がお前を『逆賊』として連行しにくる頃だ」
「な……貴様、自分が何をやっているのか分かっているのか!? 軍を敵に回して、この帝都で生きていけると思うなよ!」
佐藤が半狂乱になって軍刀を抜こうとした。
しかし、義正は手元の灰皿に煙草を押し付けながら、氷のように冷たく言い放った。
「軍? 国策? 笑わせるな」
義正は立ち上がり、佐藤の胸ぐらを片手で掴み上げ、壁に叩きつけた。
「俺は、俺の淹れてもらった茶の『ツケ』を取り立てに来ただけだ。あの女(輝夜)の邪魔をする奴は、軍だろうが財閥だろうが、まとめて俺の『算盤』ですり潰す」
遠くから、けたたましいサイレンの音が近づいてくる。
佐藤を捕縛するための、軍部の車列だ。
全てを失い、絶望に顔を歪める男たちを見下ろし、義正は懐から新しい黄金糖を取り出した。
――ガリッ。
甘い破片を噛み砕き、スーツの襟を正す。
「取引完了だ。地獄の底で、等価交換の基本から学び直してこい」
最強の資本力による、完全無欠の社会的抹殺。
悪徳財閥をたった一晩で解体した狂犬は、背後で泣き喚く男たちを放置し、輝夜の待つホテルへと静かに帰還していった。




