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EP 10

月と狂犬の契約

 帝国ホテルのスイートルーム。

 窓から差し込む朝の光が、重厚な絨毯を白く切り取っていた。

 ガチャリ、と扉が開く。

 振り返った輝夜の目に飛び込んできたのは、少しだけ疲れた顔で赤マルを咥えた義正の姿だった。

「……義正さん」

 義正は無言のまま部屋に入ると、テーブルの上に分厚い革張りの『通帳』と、権利書の束を放り投げた。

 ドサリ、という重い音が響く。

「終わったぞ。黒田重工は今朝をもって事実上の解体だ。佐藤のバカも特高に連行されていった」

「……え?」

 輝夜は震える手で、テーブルの上の通帳を開いた。

 そこに印字されていた数字を見て、息を呑む。

 当時の国家予算の数分の一にも匹敵する、天文学的な金額。

「黒田の隠し資産と、会社をバラ売りして得た現金だ。お前の言う『農村救済』とやらには、十分すぎる額だろう」

 義正はソファに身を沈め、深く紫煙を吐き出した。

 輝夜は、その通帳を抱きしめた。

 これがどれほど血に塗れた金か、彼女には分かる。義正がたった一晩で、どれほどの人間を地獄へ蹴り落とし、どれほどの罪を被ってこの金をもぎ取ってきたのか。

 全ては、彼女が昨日、広場で泣きながら訴えた「理想」のために。

「……どうして、ここまで」

「言ったはずだ。俺は、計算ソロバンを合わせに来ただけだと」

 義正は目を閉じ、首を後ろに傾けた。

「俺が元いた世界では、お前みたいなバカな善人は、必ずシステムに搾取されて死ぬ運命にあった。俺はそれが……心底、気に食わなかっただけだ」

 彼の脳裏に浮かぶのは、ビルの屋上から飛び降りた先輩の背中か。

 輝夜には分からない。だが、この冷酷な男の奥底にある「傷」の深さだけは、確かに伝わってきた。

 輝夜は通帳をテーブルに置き、義正の前に静かにひざまずいた。

 そして、彼の土と血に汚れた大きな手を、両手でそっと包み込む。

「……私のために、修羅に落ちてくださって、ありがとうございます」

 備前焼のような、揺るぎない熱を持った瞳。

 彼女は、義正の犯した罪から目を逸らさなかった。その罪の重さを共に背負い、それでもなお、この金で国を救うというごうを受け入れたのだ。

「だが、この程度で満足されては困る」

 義正は目を開き、輝夜の顔を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳に宿るのは、冷徹な資本主義の怪物としての、底知れぬ野心。

「お前が救いたいのは、この国の農民だけか?」

「え……?」

「今の恐慌の震源地は、海の向こうだ。これから世界はブロック経済に入り、持たざる国である日本は、必ずアメリカに首根っこを掴まれて戦争に引きずり込まれる」

 義正は立ち上がり、窓の外――はるか遠く、太平洋の先にある巨大な大陸の方角を睨みつけた。

「お前が『皆で月を見上げて酒を飲める世界』を作りたいなら。この国を裏で操るチンピラ(財閥)を潰したくらいじゃ、到底足りない」

 ポケットから、最後の黄金糖あめだまを取り出す。

 包みを開き、口の中へ。

 ――ガリッ。

 甘い破片を噛み砕く音が、新しい契約の合図だった。

「アメリカを、買い叩くぞ」

 義正の言葉に、輝夜は一瞬目を見開いたが、すぐにふわりと、月光のような美しい笑みを浮かべた。

 もう、迷いはなかった。

「……ええ。あなたの算盤が弾き出す未来なら、私はどこまでも共に行きます」

 最強の外道たる商社マンと、世界を照らす純粋な月。

 二人の歪で強固な契約が結ばれたこの朝。

 歴史の歯車は、本来の軌道を大きく外れ、誰も見たことのない未知の未来へと爆音を立てて回り始めた。

【第1章『月と狂犬の契約』・完】

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