第二章 兵站を知らぬ愚者
兵站を知らぬ狂信者
黒田重工の解体から数日が過ぎた。
帝都は、突如として巻き起こった巨大財閥の崩壊劇に揺れに揺れていたが、その震源地である義正と輝夜は、帝国ホテルのスイートルームで静かな朝を迎えていた。
「……信じられません。これだけの資金があれば、全国の農村に無利子で融資する特別組合が作れます」
輝夜は、テーブルの上に広げられた莫大な権利書と現金を見つめ、震える声で言った。
彼女の目の下には少し隈ができているが、その瞳は、ついに手が届いた「理想」に向けて熱く輝いている。
「喜ぶのは早いぞ、輝夜。カネってのは、持っているだけじゃただの紙切れだ。どう使うか、誰から守るかが重要になる」
義正は淹れたてのブラックコーヒーを啜りながら、最新の新聞記事に目を通した。
ウォール街の暴落の余波は、すでに日本の市場にも黒い影を落とし始めている。
「アメリカ本体を買い叩くための仕込みは、すでにニューヨークのダミー会社を通じて始めている。だが……その前に、この国に巣食う『内部のガン』をいくつか切除しておく必要があるな」
「内部の、ガン……?」
「ああ。黒田みたいな三流の金持ちは可愛いもんだ。本当に厄介なのは、カネの価値も、兵站の意味も理解していないくせに、デカい顔をして国を動かそうとしている連中だ」
義正が新聞をテーブルに放り投げた、その時だった。
――ドガンッ!
ホテルの頑丈な扉が、乱暴に蹴り開けられた。
輝夜が小さく悲鳴を上げて身構える。
「……どこの田舎者かと思えば、随分と良いご身分じゃないか」
土足のまま、スイートルームの絨毯を踏み躙って入ってきたのは、カーキ色の軍服を着た数名の男たちだった。
先頭に立つのは、立派な髭を蓄え、狂信的な光を瞳に宿した恰幅の良い男だ。
襟元の階級章は、陸軍少佐を示している。
「特高の報告で、黒田財閥の資産を不当に買い占めた不逞の輩がいると聞いて来てみれば……。女を侍らせて、帝国の富を私物化する国賊が」
「……陸軍省の、牟田口少佐ですね。何の権限があってここに踏み込んできたのですか!」
輝夜が、内閣府の職員として毅然とした声で前に出た。
だが、牟田口と呼ばれたその男は、輝夜を鼻で笑い飛ばした。
「女は引っ込んでいろ! 我が帝国陸軍は今、大陸での権益を拡大するための『聖戦』を準備している! 貴様らが不当に得たその外貨と資産は、全て軍に供出してもらう。それが帝国臣民としての義務だ!」
牟田口の背後に立つ兵士たちが、一斉に小銃を構える。
明らかな、国家権力を笠に着た『強盗』だった。
(……牟田口、だと)
義正はコーヒーカップを静かにテーブルに置き、目を細めた。
牟田口廉也。
現代の歴史を知る義正にとって、その名前は「無能」と「精神論」の代名詞として強烈に記憶に刻まれている。
のちにインパール作戦という地獄を引き起こし、数万の日本兵を餓死・病死させることになる、最悪の軍人。
「……供出して、どうするつもりだ?」
「決まっている! 大砲と弾薬を買い、大日本帝国の威信を世界に示すのだ! 貴様らのような商人の腐ったカネも、軍の栄誉のために使われるなら本望だろう!」
義正は、呆れ果てて小さく息を吐いた。
「弾薬を買う? 大砲を買う? ……おい、ヒゲ。戦争ってのはな、前線でドンパチやるのが仕事じゃない。その前線に、どうやって食料と弾を『運び続ける』か。兵站こそが戦争の全てだ。そのためのカネの計算は、どうなってる?」
義正の冷ややかな指摘に、牟田口は顔を真っ赤にして激昂した。
「兵站だと!? 商人風情が、帝国の軍人に偉そうに口を叩くな! 大和魂さえあれば、物資など問題ではない! 日本兵はな、補給が絶たれてもその辺の草を食ってでも戦い抜く、世界最強の軍隊なのだッ!」
――草を食って、戦う。
その言葉を聞いた瞬間。
義正の脳内で、カチリ、と冷たく重いスイッチが入った。
輝夜が守ろうとしている農民たちを、この男たちは「草を食わせて戦わせる道具」としか思っていないのだ。
「……なるほどな」
義正はゆっくりと立ち上がり、懐からセロハンに包まれた飴玉を取り出した。
「お前みたいな『精神論』で数字を無視する無能が上にいるから、現場の人間が死ぬんだ。俺の元いた世界でも、同じだったよ」
――ガリッ。
奥歯で、黄金糖を噛み砕く。
甘い味が、怒りで焼け焦げそうな脳の報酬系を冷たく満たしていく。
「貴様、何を言っている! おい、この非国民を引っ立てろ! 資産は全て押収だ!」
「俺の算盤を無視する奴は」
兵士たちが飛びかかってくるよりも早く。
義正は、テーブルの上の権利書の束を掴み、空中にばら撒いた。
「俺が、経済ですり潰す」
舞い散る紙片の向こう側で、狂犬の瞳が牟田口を絶対的な『獲物』として捉えていた。
アメリカを喰う前の、最高の前菜。
歴史上最も兵站を軽視した男への、商社エースによる「兵站処刑」が、今、始まろうとしていた。




