EP 8
バカな女と、狂った算盤
憲兵隊が血の海に沈んだ日比谷公園から離れ、義正が輝夜を連れて向かったのは、銀座の一角に建つ重厚な石造りのホテルだった。
当時、一般人には縁のない、選ばれた名士のみが宿泊を許される帝国ホテルの最上階。義正はその一室を、アメリカから電信で送らせた『ドル』の力で強引に借り切っていた。
「……義正さん、これは一体」
輝夜は、額の手当てを受けながら、豪華なシャンデリアの下で呆然と立ち尽くしていた。
つい数時間前まで、彼女はボロアパートで農民のために泣いていたはずだ。それが今は、ふかふかのソファに座らされ、上質なシルクの毛布に包まれている。
「驚くのは後にしろ。それより、あいつらの名前を言え」
義正は窓の外、帝都の夜景を見下ろしながら、赤マルの煙を吐き出した。
手元には、証券会社から届けさせたばかりの最新の企業名簿と、電信機の受話器がある。
「あいつら……とは?」
「決まっているだろ。お前の手を踏みつけ、理想を紙屑にしたゴミ共だ。……黒田重工の役員と、あの陸軍の中尉の上官、それから癒着している政治家のリスト。全員分、一文字も漏らさず吐きだせ」
義正の瞳は、昼間の戦闘の時よりも冷たく、無機質な「計算機」の光を宿していた。
輝夜は躊躇ったが、義正の有無を言わさぬ視線に圧され、ぽつりぽつりと名前を挙げた。
「……黒田重工の常務、黒田玄一郎。それから、陸軍省の佐藤少佐。彼らは財閥の資金を背景に、農村への予算を軍備拡張に流用しようとしています」
「黒田に佐藤か。……分かりやすくていい」
義正は受話器を取り上げ、英語で何処かへ指示を飛ばし始めた。
「……オーケー、ジェームズ。始めろ。ターゲットは日本の『黒田重工』。奴らがニューヨークの銀行に預けている外貨資産、それからロンドンで発行している外債。……全額、この瞬間に『空売り』を仕掛け、同時に債権を買い叩け」
輝夜には、その会話の意味が半分も理解できなかった。
だが、義正が受話器を置いた時、その顔に浮かんでいたのは、紛れもない「略奪者」の笑みだった。
「……何をしたのですか?」
「帳尻を合わせただけだ。あいつらは、お前の法案を『一円の得にもならない』と言って捨てたんだろう? だから俺は、あいつらの資産価値を、一円の価値もない『紙屑』に変えてやることにした」
義正は新しい飴玉を口に放り込んだ。
「世界恐慌の余波で、今、世界中の市場はパニック状態だ。誰もが資産を売りたがっている。そこに、俺が手に入れた『ドル』という名の爆弾を叩き込んだ。……明日、市場が開く頃には、黒田重工の株価は半分以下に落ち込み、資金繰りは完全に破綻する」
「そんな……。一晩で、そんなことが可能なのですか?」
「普通なら不可能だ。だが、俺は歴史を知っている。……輝夜、お前が救いたいと言った農民たちは、あいつらにとって『数字』だった。だから俺も、あいつらを『数字』として処理してやることにした。……公平な取引だろ?」
輝夜は、目の前の男の恐ろしさに身震いした。
この男は、憲兵を素手で引き裂いた時と同じ冷徹さで、巨大財閥の運命を指先一つで書き換えている。
だが、その指先が、彼女の額の傷跡をそっとなぞった時。
そこに宿っていたのは、狂気とは裏腹の、不器用なまでの優しさだった。
「……あなたは、本当に『外道』ですね。商社のエースというより、地獄の番犬です」
「光栄な褒め言葉だ」
義正はガリッ、と飴玉を噛み砕いた。
「俺は、無償の愛なんてものは信じない。だがな、輝夜。……お前の茶一杯の恩義を返すためなら、俺はこの国の経済ごと、あいつらを地獄へ引きずり落としてやる」
帝都の夜が更けていく中。
翌朝、新聞の一面を飾るのは「憲兵隊の不祥事」ではなく、「帝国最大級の財閥・黒田重工、謎の株価暴落による倒産の危機」という激震のニュースになる。
最強の資本主義者による、冷酷無比な「復讐」が、静かに、そして確実に始まった。




