表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/16

EP 8

バカな女と、狂った算盤

 憲兵隊が血の海に沈んだ日比谷公園から離れ、義正が輝夜を連れて向かったのは、銀座の一角に建つ重厚な石造りのホテルだった。

 当時、一般人には縁のない、選ばれた名士のみが宿泊を許される帝国ホテルの最上階。義正はその一室を、アメリカから電信で送らせた『ドル』の力で強引に借り切っていた。

「……義正さん、これは一体」

 輝夜は、額の手当てを受けながら、豪華なシャンデリアの下で呆然と立ち尽くしていた。

 つい数時間前まで、彼女はボロアパートで農民のために泣いていたはずだ。それが今は、ふかふかのソファに座らされ、上質なシルクの毛布に包まれている。

「驚くのは後にしろ。それより、あいつらの名前を言え」

 義正は窓の外、帝都の夜景を見下ろしながら、赤マルの煙を吐き出した。

 手元には、証券会社から届けさせたばかりの最新の企業名簿と、電信機の受話器がある。

「あいつら……とは?」

「決まっているだろ。お前の手を踏みつけ、理想ゆめを紙屑にしたゴミ共だ。……黒田重工の役員と、あの陸軍の中尉の上官、それから癒着している政治家のリスト。全員分、一文字も漏らさず吐きだせ」

 義正の瞳は、昼間の戦闘の時よりも冷たく、無機質な「計算機」の光を宿していた。

 輝夜は躊躇ったが、義正の有無を言わさぬ視線に圧され、ぽつりぽつりと名前を挙げた。

「……黒田重工の常務、黒田玄一郎。それから、陸軍省の佐藤少佐。彼らは財閥の資金を背景に、農村への予算を軍備拡張に流用しようとしています」

「黒田に佐藤か。……分かりやすくていい」

 義正は受話器を取り上げ、英語で何処かへ指示を飛ばし始めた。

「……オーケー、ジェームズ。始めろ。ターゲットは日本の『黒田重工』。奴らがニューヨークの銀行に預けている外貨資産、それからロンドンで発行している外債。……全額、この瞬間に『空売り』を仕掛け、同時に債権を買い叩け」

 輝夜には、その会話の意味が半分も理解できなかった。

 だが、義正が受話器を置いた時、その顔に浮かんでいたのは、紛れもない「略奪者」の笑みだった。

「……何をしたのですか?」

「帳尻を合わせただけだ。あいつらは、お前の法案を『一円の得にもならない』と言って捨てたんだろう? だから俺は、あいつらの資産価値を、一円の価値もない『紙屑』に変えてやることにした」

 義正は新しい飴玉を口に放り込んだ。

世界恐慌ブラック・サーズデーの余波で、今、世界中の市場はパニック状態だ。誰もが資産を売りたがっている。そこに、俺が手に入れた『ドル』という名の爆弾を叩き込んだ。……明日、市場が開く頃には、黒田重工の株価は半分以下に落ち込み、資金繰りは完全に破綻する」

「そんな……。一晩で、そんなことが可能なのですか?」

「普通なら不可能だ。だが、俺は歴史ルールを知っている。……輝夜、お前が救いたいと言った農民たちは、あいつらにとって『数字』だった。だから俺も、あいつらを『数字』として処理してやることにした。……公平フェアな取引だろ?」

 輝夜は、目の前の男の恐ろしさに身震いした。

 この男は、憲兵を素手で引き裂いた時と同じ冷徹さで、巨大財閥の運命を指先一つで書き換えている。

 だが、その指先が、彼女の額の傷跡をそっとなぞった時。

 そこに宿っていたのは、狂気とは裏腹の、不器用なまでの優しさだった。

「……あなたは、本当に『外道』ですね。商社のエースというより、地獄の番犬です」

「光栄な褒め言葉だ」

 義正はガリッ、と飴玉を噛み砕いた。

「俺は、無償の愛なんてものは信じない。だがな、輝夜。……お前の茶一杯の恩義を返すためなら、俺はこの国の経済ごと、あいつらを地獄へ引きずり落としてやる」

 帝都の夜が更けていく中。

 翌朝、新聞の一面を飾るのは「憲兵隊の不祥事」ではなく、「帝国最大級の財閥・黒田重工、謎の株価暴落による倒産の危機」という激震のニュースになる。

 最強の資本主義者による、冷酷無比な「復讐」が、静かに、そして確実に始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ