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EP 7

俺が帳尻を合わせてやる

 群衆が、まるで海が割れるように左右へ道を空けた。

 人垣の奥から歩み出てきたのは、一人の男だった。

 仕立ての良い三つ揃えのスーツ。

 無造作にポケットに突っ込まれた両手。

 そして、獲物を品定めするような、絶対的な強者の双眸。

「……義正、さん?」

 輝夜の口から、掠れた声が漏れる。

 数日前、路地裏で血塗れになっていた男。あの時淹れた一杯の茶を最後に、忽然と姿を消していた彼が、なぜここに。

「誰だ貴様は! この女の同類か!?」

 憲兵の中尉が、鋭い声で怒鳴りつけた。

 だが、義正は中尉の存在など路傍の石ころのように完全に無視し、木箱の上の輝夜だけを見つめた。

「あの夜、俺は言ったはずだぞ。あんたは致命的にこの世界に向いていない、と」

「……でも、私は」

「だがな」

 義正は、スッと目を細めた。

「お前のその、損得を完全に無視したイカレた算盤そろばん。……嫌いじゃない」

 彼は懐から、セロハンに包まれた黄金糖あめだまを取り出した。

 包みを開け、口の中に放り込む。

「ええい、構わん! その男も反逆罪でひっ捕らえろ!」

 中尉の号令と共に、十名近い屈強な憲兵たちが、一斉に警棒を振りかざして義正へと殺到する。

 輝夜は思わず「逃げて!」と叫ぼうとした。

 ――ガリッ。

 だがその瞬間。

 義正が奥歯で甘い塊を噛み砕く鈍い音が、広場の空気を完全に支配した。

「お前のそのバカげた喧嘩――俺が買った」

 パチリ、と。

 義正の脳内で、暴力の算盤が弾かれた。

 先頭の憲兵が、必殺の勢いで警棒を振り下ろす。

 だが、義正は避けることすらしない。

 半身になり、極限まで無駄を削ぎ落とした歩法すりあしで、警棒が到達するより早く憲兵の懐へと『消失』するように潜り込んだ。

「なっ――」

 ドンッ!

 重い破裂音。

 義正の右の掌底が、憲兵の鳩尾みぞおちを正確に打ち抜いていた。

 防具の上から内臓を直接破壊された大柄な男は、白目を剥いてくの字に折れ曲がり、泡を吹いて吹き飛んだ。

「き、貴様ァッ!」

 背後から二人の憲兵が組み付こうとする。

 義正は振り返りもせず、背面に回した両手で男たちの軍服の襟首を掴んだ。

 柳生心眼流・柔術。

 そのまま自らの体を沈み込ませ、二人の顔面同士を正面から激突させる。

 ゴチャッ、と嫌な音が鳴り、二人が崩れ落ちる。

「ヒィッ……! 銃だ、銃を抜けェッ!」

 残りの憲兵たちが、パニックに陥りながら腰の南部十四年式拳銃に手を伸ばす。

 遅い。あまりにも遅すぎる。

商談中システム・エラーだ。黙ってろ」

 地を蹴った義正が、銃を抜こうとした男の手首を真下から蹴り上げる。

 空を舞う拳銃。

 義正はそれを空中で掴み取ると、引き金を引くのではなく、鋼鉄の銃把グリップで次々と憲兵たちの顎やこめかみを冷酷に叩き割っていった。

 メキリ。ゴッ。バキッ。

 骨が砕け、肉が弾ける音だけが、静まり返った広場に響き渡る。

 十秒。

 たった十秒の出来事だった。

 十名いた帝国自慢の憲兵隊が、たった一人、素手のスーツの男によって、全員が床に転がり血の海に沈んでいた。

「あ……あ……ば、化け物……ッ!」

 唯一立っていた中尉が、腰を抜かして後ずさる。

 義正は血のついた拳銃をゴミのように放り捨て、懐からハンカチを取り出して手を拭いながら、中尉を見下ろした。

「覚えておけ。この女に指一本でも触れれば、次は貴様らの軍本部ごと『更地』にしてやる」

 恐怖で顔を歪ませた中尉は、部下も見捨てて無様に逃げ出していった。

 先程まで輝夜を嘲笑っていた群衆も、圧倒的な暴力の前に声すら発することができず、道端の石像のように硬直している。

 静寂の中。

 義正は、木箱の上で呆然としている輝夜の前に立った。

 ドクン、ドクンと。

 輝夜の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされている。

 恐怖ではない。圧倒的な安堵と、理解を超えた熱が、全身を駆け巡っていた。

「……どうして」

「美味い茶のツケを払いに来ただけだ」

 義正は血の匂いを纏ったまま、スッと右手を差し出した。

「お前の描いた『月夜の世界』とやら。……俺の算盤カネと暴力で、現実にしてやる」

 冷徹な資本主義のバケモノが、不器用なほど純粋な笑みを浮かべていた。

 輝夜は震える手を伸ばし、その大きく、温かい手を取った。

 昭和四年、十月。

 世界が最も深い暗闇に沈もうとするその時。

 最強の外道と、霞が関の月の、世界をひっくり返す反逆が幕を開けた。

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