EP 6
月は迷わない(演説と弾圧)
吹きすさぶ冷たい秋風の中。
日比谷公園の広場に、粗末な木箱が一つ置かれていた。
その上に立ち、輝夜は声を張り上げていた。
「どうか、聞いてください! 海の向こうの経済が崩壊しました。もうすぐ、この国にもかつてない恐慌が押し寄せます! 農村には食料が届かず、工場は閉鎖され、皆さんの生活は根底から壊されてしまう!」
集まってきたのは、煤けた作業着の労働者や、地方から出稼ぎに来ている農民たちだ。
彼らの顔には、日々の過酷な労働による疲労と、諦めの色が濃く張り付いている。
「だからこそ、今、国は一部の財閥や軍備ではなく、皆さんの命を守るために金を使うべきなのです! 私は、朝起きて働き、夜には皆で月を見上げながら、笑って酒を飲める……そんな当たり前の国にしたい!」
それは、輝夜の魂からの叫びだった。
暗闇の中で怯える人々を照らす、月の光でありたいという祈り。
だが。
現実は、彼女の純粋な祈りよりも遥かに残酷だった。
「――うるせえぞ、女の分際で政治を語ってんじゃねえッ!」
群衆の中から、野次が飛んだ。
黒田重工と軍部が紛れ込ませた、金で買われた『サクラ』たちだ。
「どうせ内閣府の偉いサンに股を開いて、いい生活してんだろ!」
「お高くとまったお嬢様が、俺たちの貧乏が分かってたまるか!」
悪意に満ちた言葉が、波のように広がる。
そのヤジに煽られ、日々の鬱憤を溜め込んでいた一般の群衆たちまでもが、輝夜に向かって嘲笑の声を上げ始めた。
「そうだそうだ! 引っ込め!」
「女は家で飯でも作ってろ!」
――バシッ!
誰かが投げた小石が、輝夜の額を打った。
白い肌が裂け、一筋の赤い血が頬を伝う。
それでも、彼女は逃げなかった。足を踏ん張り、まっすぐに群衆を見つめ返す。
「私は……逃げません! あなたたちがどんなに絶望しても、私は決して――」
「そこまでだ、危険思想の売国奴め」
野次を切り裂くように、軍靴の足音が響き渡った。
広場を囲むように現れたのは、カーキ色の軍服に身を包んだ『憲兵隊』だった。腕には「特高」の腕章。思想犯を取り締まる、当時の泣く子も黙る国家の暴力装置だ。
「日野輝夜。治安維持法違反、ならびに帝国軍に対する造言飛語の流布により拘束する」
憲兵を率いる中尉が、冷酷な笑みを浮かべて警棒を抜いた。
群衆が怯え、波が引くように道を空ける。
「……っ。私は、本当のことを言っているだけです!」
「黙れ。貴様のような女は、特高の地下室でたっぷり可愛がって、その腐った性根を叩き直してやる」
屈強な憲兵たちが、木箱の上に立つ輝夜に群がり、その細い腕を乱暴に捻り上げようと手を伸ばす。
(……ここまで、なの?)
抵抗することもできず、輝夜はギュッと目を閉じた。
どれだけ正しいことを叫んでも、暴力と権力の前に、個人の祈りなどあまりにも無力だ。
誰も助けてはくれない。
群衆はただ、遠巻きに見て嘲笑うか、目を逸らすだけ。
これが、この狂った時代の「正解」なのだ。
冷たい警棒が、彼女の肩に振り下ろされようとした、その瞬間だった。
「……あーあ。相変わらず、バカな女だ」
冷たく、だが確かな熱を帯びた男の声が。
絶望の広場に、呆れたように響き渡った。




