EP 5
霞が関の月と、腐った現実
霞が関の一角。重厚な石造りの建物の奥にある応接室は、高級な葉巻の煙と、男たちの下卑た笑い声で満ちていた。
バサリ、と。
分厚い書類の束が、無造作に床の絨毯へと投げ捨てられた。
「……こんなくだらん紙屑を作るために、徹夜をしたのかね。日野くん」
ふんぞり返って葉巻を燻らせているのは、帝国有数の財閥である『黒田重工』の役員だ。
その隣では、軍服に身を包んだ陸軍の少佐が、小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
床に散らばったのは、輝夜が何日も徹夜して練り上げた『農村救済特別融資法案』の草案だった。
「紙屑ではありません。……昨晩、アメリカのウォール街で株価の大暴落が起きました。この余波は必ず日本にも届き、生糸の価格は暴落します。今すぐ農村に国の資金を注入しなければ、来年には娘の身売りや餓死者が続出するのです」
輝夜は床にひざまずき、散らばった書類を拾い集めながら、必死に声を絞り出した。
津田英学塾で学び、アメリカで最新の経済学を修めた彼女の頭脳は、数ヶ月後に訪れる『昭和農業恐慌』という地獄を正確に予測していた。
重臣の私設秘書という立場を最大限に利用し、なんとか軍部と財閥の重役を説得しようと試みたのだが――。
「だからどうした?」
黒田役員が、拾い集めようとした輝夜の手に、革靴の踵を乗せた。
「っ……」
「農民が飢えれば、我々の工場で安くコキ使える労働力が増える。娘が身売りに出されれば、遊郭が潤う。財閥にとっては利益しかないのだよ」
「その通りだ。農民など、国のために米を作り、軍隊に兵隊を送るだけの使い捨ての道具に過ぎん。女の浅知恵で、大日本帝国の国策に口を出すな」
少佐が冷酷に吐き捨てる。
これが、この国のトップに立つ男たちの本性だった。
血の通った人間を、ただの「数字」や「道具」としてしか見ていない。彼らの脳内にあるのは、己の権力と利益を拡張する算盤だけだ。
(……痛い)
靴で踏みつけられた手の甲が赤く腫れ上がる。
だが、それ以上に、彼らの冷酷な言葉が、輝夜の心を深く切り裂いていた。
長野の美しい山々。泥まみれになりながら、それでも笑顔で米を作っていた故郷の人々の顔が脳裏を過る。
彼らが、この男たちの肥え太った腹を満たすためにすり潰されていく。
そんな理不尽が、許されていいはずがない。
「……どきなさい、日野くん。いつまで這いつくばっているつもりだ。お前はただ、黙って美味い茶を淹れていればいいんだよ。それが『霞が関の月』の役割だろう?」
男たちの嘲笑が、応接室に響き渡る。
輝夜は唇を強く噛み締め、血のにじむ手で、泥に汚れた法案の紙を胸に抱きしめた。
暗闇だ。
この国の中枢は、完全に狂った暗闇に支配されている。
(……それでも)
廊下へ出た輝夜は、冷たい石の壁に背をもたれかけ、深く息を吐いた。
胸の奥で、決して消えない火種が熱く燻っている。
上の人間が腐っているなら。
もはや、手段は選べない。
輝夜は手帳の切れ端を取り出し、そこに殴り書きされた自らの『詩』を見つめた。
月は迷わない。暗闇の中で怯える人々に、進むべき道を照らすのだ。
「……直接、皆に伝えるしかない」
それは、女が政治を語ることなど許されないこの時代において、特高警察の弾圧を招く『自殺行為』に等しかった。
それでも、彼女の足は迷いなく、群衆の待つ帝都の広場へと向かっていた。




