EP 4
狂乱の木曜日と絶対の算盤
昭和四年十月二十四日。
帝都・丸の内にある外資系証券会社の応接室には、上質な葉巻の香りが漂っていた。
「……ミスター・リキタケ。あなたが持ち込んだこの三万円相当の金塊と現金の出所は問いません。ですが、正気ですか?」
マホガニーのデスク越しに、英国人の支店長が呆れたような顔で俺を見た。
「米国市場(ウォール街)の株式を『空売り(ショート)』だと? 現在のダウ平均株価は歴史的最高値を更新し続けている。フーヴァー大統領も『アメリカの繁栄は永遠だ』と明言しているのですよ。今、売りを仕掛けるなど、自らドブに金を捨てるようなものだ」
支店長の背後では、日本人行員たちが「田舎者が調子に乗って」と嘲笑するような視線を向けてきている。
無理もない。この時代の人間にとって、アメリカの好景気は太陽が東から昇るのと同じくらい「絶対の真理」なのだから。
俺はソファに深く腰掛け、赤マルに火を点けた。
紫煙を細く吐き出し、支店長を冷たく見据える。
「証拠金はここに全額で積んである。レバレッジを限界まで効かせて、GMやRCAをはじめとする工業株を全て叩き売れ。……俺の算盤に、狂いはない」
凄みを利かせた声に、支店長は肩をすくめた。
「……忠告はしましたよ。破産しても知りませんからね」
*
時差の関係で、ウォール街の市場が開くのは日本時間の深夜だ。
俺は証券会社の電信室の片隅に陣取り、ブラックコーヒーを啜りながら『その時』を待っていた。
深夜零時を回った頃。
部屋の空気が、突如として変わった。
――カタカタカタカタッ!
株価を伝えるティッカー(自動受信機)が、突然、狂ったように印字を打ち出し始めたのだ。
それまで欠伸をしていた行員が、印字された紙テープを見て息を呑む。
「……ば、馬鹿なッ! GMが暴落している! RCAもだ! いや、全部だ! 市場全体がナイアガラの滝のように落ちていくぞッ!」
「おい、通信の故障じゃないのか!? ウォール街に確認を取れ!」
怒号。悲鳴。
電信室は一瞬にして、阿鼻叫喚の地獄へと変わった。
アメリカの永遠の繁栄という「神話」が、音を立てて崩壊していく歴史的瞬間。
投資家たちが我先にと株を投げ売り、株価がさらなる暴落を呼ぶ死の螺旋。
後に『ブラック・サーズデー(暗黒の木曜日)』と名付けられる大恐慌の幕開けだ。
青ざめた顔で駆け込んできた支店長が、信じられないものを見るような目で俺を見た。
「ミスター・リキタケ……あなたは、一体……何を知っていたんだ……?」
全員が破産と絶望の淵に立たされる中。
俺の仕込んだ『空売り』のポジションだけが、天文学的な速度で利益を膨らませていく。
当時の三万円。
それにレバレッジを掛け、底抜けの大暴落で得た利益の総額は――。
「決済だ。全てドル建ての現金と、金塊に換えろ」
俺は立ち上がり、ポケットから黄金糖を取り出した。
――ガリッ。
奥歯で噛み砕く。
口いっぱいに広がる強烈な甘みが、脳の報酬系をバチバチと焼き切るように刺激した。
「計算通りだ。これで、世界を買える」
一夜にして。
俺は、この時代の日本の国家予算すら凌駕するかもしれない、莫大な「外貨」という無敵の暴力を手に入れた。
ヤクザから奪ったちっぽけなタネ銭が、歴史のうねりを利用することで、アメリカ合衆国の首根っこを掴めるほどの刃へと進化したのだ。
窓の外。夜明け前の帝都の空に、白く細い月が浮かんでいた。
(待っていろ、輝夜)
血を流した俺に、無償で茶を淹れてくれたバカな女。
お前のその笑えるほど純粋な夢を阻む奴は、この『カネ』で一人残らずすり潰してやる。
最強の資本を手に入れた狂犬が、帝都の暗闇で静かに牙を剥いた。




