EP 3
暗闇の帝都と、備前焼の茶
意識が、冬の海に沈んでいくように冷えていく。
左肩の傷口からは、どろりと熱い液体が溢れ続け、上質なスーツを重く汚していた。
(……出血多量か。計算が、少し甘かったな)
壁に背を預け、ずるずると地面に座り込む。
手放さなかった金塊入りの麻袋が、やけに重い。
路地裏の湿った空気、腐った生ゴミの匂い。
昭和四年の帝都は、きらびやかなモダンガールの影で、こうしたドブネズミのような死をいくらでも飲み込んできたのだろう。
「……もし」
その時、頭上から鈴を転がすような声が降ってきた。
暗闇に慣れた視界を上げると、そこには一人の女が立っていた。
アースカラーの地味ながら仕立ての良い洋装。肩にかけた風呂敷包み。
街灯の淡い光を背負った彼女の姿は、まるで夜空から零れ落ちた月光の化身のようだった。
「ひどい怪我ですね。……歩けますか?」
俺の返事も待たず、彼女は膝をついた。
血の匂い。返り血を浴びた男。
普通の女なら悲鳴を上げて逃げ出すような惨状だというのに、彼女の瞳には恐怖の欠片もなかった。
「……関わるな。死にたく、なければな」
「死なせるわけにはいきません。私が、見てしまったのですから」
彼女は俺の右腕を自分の肩に回し、細い体でぐいと引き上げた。
土と草の匂い。
都会の煤けた空気とは違う、どこか遠い故郷を思わせる清廉な香りが鼻をくすぐる。
*
連れて行かれたのは、古い洋館の一角にある、慎ましい下宿先だった。
部屋に入ると、電気もつけずに彼女は俺を古びたソファに横たえた。
「灯火を漏らすわけにはいきませんから。少しだけ、我慢してください」
暗闇の中で、彼女の手際よく動く気配がする。
手袋を脱ぎ、テキパキと傷口を洗い、清潔な布で縛り上げる。
その指先は、驚くほど温かかった。
「……名前は」
「日野、といいます。日野輝夜」
輝夜。月に還る姫の名か。
俺は痛みに耐えながら、部屋の隅にある棚を眺めた。
そこには、無骨ながらも力強い光沢を放つ茶器が並んでいる。
「……備前焼きか」
「お詳しいのですね。私の故郷には何もありませんでしたが、土と火だけは本物でした。これは、私が自分で焼いたものです」
彼女は、いびつな形のぐい呑みに、温かい茶を淹れて差し出した。
土の温もりが、指先から凍えた体へと伝わってくる。
「……俺を助けて、何の得がある。俺が何者かも、その袋に何が入っているかも分かっているはずだ」
俺は麻袋を指差した。
この中には、当時の日本を数回ひっくり返せるほどの軍資金が詰まっている。
彼女が内閣府の端くれなら、この「不穏なカネ」を報告するだけで、それなりの出世は望めるはずだ。
だが、輝夜は穏やかに月を見上げるような目で俺を見つめた。
「見返りなど、いりません。ただ、あなたが今夜死なずに、明日も月を見られたら……それで十分です」
脳内の算盤が、激しく音を立てて乱れた。
損得、等価交換、利益、リスク。
俺が二十五年間の人生で積み上げてきた「資本主義の論理」が、この女のたった一言で根底から否定される。
(……バカな。そんな人間が、この時代に、この場所に、いるはずがない)
だが、彼女の瞳は澄んでいた。
備前焼のように、高温で焼き締められた純粋な決意。
彼女は本気で、無償の愛を、この狂った世界に捧げようとしている。
「……日野輝夜。あんた、致命的にこの世界に向いてないぞ」
「ええ、よく言われます。でも、暗闇だからこそ、月は輝けるのだと信じているんです」
彼女はふわりと微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間。
俺の胸の奥で、カチリ、と何かの歯車が噛み合った。
「……分かった。あんたの淹れた茶のツケは、高くつくぞ」
俺は残った飴玉を口に放り込み、ガリリと噛み砕いた。
この女の「無償の愛」が、泥まみれの現実に踏みにじられるのは、どうにも計算が合わない。
ならば、俺の算盤と暴力で、この女の夢を無理やり「正解」に変えてやる。
「計算を合わせる準備は、できた」
外では、二週間後の「破滅」に向けて、世界がゆっくりと呼吸を止めていた。
だが、この六畳一間の暗闇の中で。
狂犬と月は、静かに血塗られた契約を交わした。




