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EP 3

首輪を噛み千切る犬たち

 ――ドガンッ!

 帝国ホテル最上階の重厚な扉が、特高警察の容赦ないブーツの蹴りによって打ち破られた。

「特高だ! 国家反逆および詐欺の容疑で、力武義正と日野輝夜を拘束する! 抵抗すれば射殺も辞さない!」

 黒いコートに身を包んだ十数名の捜査員たちが、拳銃と警棒を構えてスイートルームになだれ込む。

 だが、彼らが踏み込んだ部屋は、すでにもぬけの殻だった。

 開け放たれた窓から、秋の冷たい風が吹き込んでいるだけだ。

「……チッ。逃げ足の速いネズミめ。陸軍省の東條閣下からの厳命だ、帝都中をひっくり返してでも見つけ出せ!」

     *

 その頃。

 帝都の裏路地、暗く湿った下水道の点検通路を、二つの影が走っていた。

「ハァッ……ハァッ……まさか、本当に特高を動かしてくるなんて……ッ!」

「息を整えろ、輝夜。カミソリ(東條)は官僚だ。俺という『絶対的な金庫』が消えた瞬間に、自分の裏帳簿をもみ消すために全力で殺しにくることくらい、計算通りだ」

 義正は、輝夜の手を引いて暗闇を進みながら、舌打ちをした。

 先ほど、ホテルを取り囲む特高の先陣数名を柳生心眼流で文字通り「壁のシミ」に変えて突破してきたが、国家権力を正面から殴り倒し続ければ、いずれ軍隊が出動する。今は身を潜めるのが最優先だった。

 陸軍省、東條英機の執務室。

「……逃げられただと? 無能どもが」

 報告を受けた東條は、受話器をガチャンと乱暴に置いた。

 だが、その顔には隠しきれない歓喜の笑みが浮かんでいる。

「力武の口座がアメリカに凍結された以上、奴はもはや一文無しのただのゴロツキだ。私が握られていた『裏帳簿』の証拠も、奴のダミー会社ごと吹き飛んだ。……ハハハッ! 見たか、これが国家の力だ!」

 東條は、義正に付けられていた「首輪」を自らの手で引きちぎる幻影を見ていた。

 カネの裏付けがなくなった商人の脅迫など、権力の前では犬の遠吠えにも劣る。

 同じ頃、近衛文麿の邸宅でも、祝杯が上げられていた。

「素晴らしい……! ついにあの忌々しい成金が没落したか!」

 近衛は、最高級のワイングラスを揺らしながら、狂喜の声を上げた。

「力武が消えれば、彼が構築した『農村救済のシステム』は宙に浮く。それをそっくりそのまま、私(貴族)の実績として接収してしまえばいい。輝夜くんも、カネのないゴロツキより、次期首相候補である私の元へ必ず泣きついてくるはずだ!」

 かつて義正の算盤にすり潰され、恐怖で地に這いつくばった犬たちが、飼い主の財布が空になったと知るや否や、一斉に牙を剥き、その遺産を食い荒らそうと群がり始めていた。

     *

 だが。

 義正にとって、東條や近衛の裏切りなど、所詮は「想定内のバグ」に過ぎなかった。

 彼が今、最も警戒しているのは、帝都から遠く離れた大陸――満州で動いている『本物のバケモノ』だった。

 満州・奉天。

 凍てつくような大陸の風が吹く関東軍の司令部。

「……力武の資産凍結。やはりな。他国のカネ(数字)に依存した平和など、薄氷の上の戯れ言に過ぎん」

 軍の作戦図板マップを見下ろしながら、一人の男が静かに呟いた。

 丸眼鏡の奥に、狂気と天才の光を宿した男――関東軍作戦主任参謀、石原莞爾いしわらかんじ中佐。

 彼は、牟田口のような精神論者ではない。

 未来を見通す圧倒的な軍略と、「世界最終戦論」という狂気的なビジョンを持った、帝国陸軍最高の頭脳だ。

「大佐殿。帝都の東條から、『力武の影響力は消えた。軍の行動制限を解除する』との暗号電文が届きました」

 副官の報告に、石原はフッと冷たく笑った。

「馬鹿め。あの商人が、カネを失ったくらいで死ぬタマか。だが……盤面が動いたのは事実だ」

 石原は、作戦図板の『奉天』の文字に、赤いピンを突き立てた。

「商人の算盤は狂った。ならばここからは、我々軍人の『剣』で大日本帝国の生命線(満州)を切り拓く。……鉄道を爆破しろ。それを張学良の仕業とし、全軍をもって満州を武力占領する」

「なっ……! し、しかしそれは、完全な軍の独断専行クーデターに当たります! 帝都の政府が黙っていません!」

「政府など後から黙らせればいい。カネがないなら、現地で略奪し、現地で経済圏を作ればいいのだ。……戦争とは、最高の芸術だよ」

 石原莞爾の瞳には、一切の迷いがなかった。

 義正の「経済的平和」を真っ向から否定し、暴力による領土拡大(満州事変)の引き金が、いま天才の手によって強引に引かれようとしていた。

     *

 帝都の隠れ家。

 輝夜のツテで用意した、古びた町工場の一室。

 義正は、輝夜が持ってきた最新の情報を聞き、ギリッと奥歯を鳴らした。

「……石原の野郎、俺の資金がショートした隙を突いて、満州でドンパチ始める気か」

「はい……このままでは、日本は国際社会から完全に孤立し、アメリカのブロック経済の罠に真っ逆さまに落ちてしまいます。……私たちの理想は、これで終わりなのでしょうか」

 輝夜の震える声。

 カネを失い、国に追われ、天才が暴走する。

 四面楚歌。完全な詰み(チェックメイト)だ。

 だが。

 義正は、暗い部屋の中で、獰猛な狼のように笑った。

「終わり? 冗談言うな。カネ(数字)が使えないなら、モノ(現物)で算盤を弾くだけだ。……ここからが、総合商社ウチらの本当の得意分野だぞ」

 義正は、一枚の地図をテーブルに広げた。

 それは金融のネットワークではない。アジア全土を結ぶ、裏の『密輸と物々交換の流通ルート』の図面だった。

「石原が満州で暴れるには、燃料と弾が要る。アメリカが強気でいられるのも、資源の買い手がいるからだ。……俺たちが、その『モノ』の動きを全部、裏から支配してやる」

 凍結された口座の代わりに、現物経済という泥沼の戦場へ。

 全てを失った最強の商社マンと、共に地獄へ落ちる覚悟を決めた月。

 二人の本当の「反逆」が、今、産声を上げた。

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