EP 2
神の掟(口座凍結)
その朝、帝国ホテルのスイートルームは、かつてないほどのけたたましい電信機の音と、鳴り止まない電話のベルに包まれていた。
「……ボス! ボス、聞いてますか!? ニューヨークの連邦捜査局(FBI)が、うちのダミー会社に踏み込んできました! 帳簿も、金庫も、全部持っていかれました!」
受話器の向こうから響く、ニューヨークの仲買人の悲鳴。
義正は眉間に皺を寄せ、赤マルの火を揉み消した。
「落ち着け、ジェームズ。連邦法違反でっち上げのガサ入れなら、雇ってある弁護士団を動かせ。違法な捜査なら保釈金ですぐに――」
『違います! 裁判所を通した令状じゃない! 大統領令です!』
ジェームズの声が、裏返っていた。
『昨日深夜、ルーズベルト新大統領が「国家非常事態法」を適用しました。合衆国の安全保障を脅かす外国資本として、ボスが持っている全口座、全資産の『無期限凍結』が宣言されたんです!』
「……なんだと?」
義正の思考が、一瞬停止した。
市場での株価暴落ではない。取引での敗北でもない。
『国家』という名の絶対的な暴力が、資本主義の盤面そのものを強引にひっくり返したのだ。
バンッ!
部屋の扉が弾け飛び、血の気を失った輝夜が飛び込んできた。
その手には、内閣府に届いたばかりの外交電報が握りしめられている。
「……義正さん! アメリカ大使館から、日本政府へ通達がありました! ウォール街のあなたの資産だけでなく、ロンドン、スイスの銀行にある『力武ファンド』の口座も、全てアメリカの圧力によって凍結されました……!」
「被害額は」
「……全額、です。私たちが確保していた外貨準備金も、スターリング社から巻き上げた油田の権利も、名義変更の手続きを法的に差し止められました。現在、私たちが自由に動かせる資金は……」
輝夜は、震える唇を噛み締めた。
「ゼロ、です」
沈黙が、部屋を支配した。
窓の外では、何も知らない帝都の街並みが平和に朝日を浴びている。だが、この部屋の中の「算盤」は、完全に破壊されていた。
「……やりやがったな、車椅子のバケモノ」
義正は受話器を置き、天井を仰いだ。
資本主義とは、国家という絶対的な『神』が保証する法律の上でしか成り立たないゲームだ。
神が「お前の金は今日から使えない」とルールを書き換えれば、天文学的な数字も、ただの液晶のバグ――いや、この時代においては「一円の価値もないただのインクの染み」へと変わる。
「義正さん……どうしましょう。このままでは、農村への第二期融資がストップしてしまいます。それに、資金の裏付けが消えたと知れれば、アメリカの資源会社も一斉に協定を破棄してきます!」
輝夜の声には、かつてないほどの焦燥が滲んでいた。
それだけではない。彼女が最も恐れているのは「国内」だった。
「……何より厄介なのは、カミソリ(東條)と狂犬(牟田口)です。彼らは『あなたの莫大な外貨』という首輪があったからこそ大人しく従っていた。もし、首輪の鎖が断ち切られたと知れれば……!」
輝夜の懸念は、最悪の形で的中することになる。
ジリリリリリリッ!
再び鳴り響いた電話。
義正が受話器を取るより早く、輝夜がそれを取り上げた。
「……はい、日野です」
電話の主の言葉を聞いた瞬間、輝夜の顔からスッと表情が消え去った。
備前焼のように静かで強固だった彼女の心が、ピシリとひび割れる音がした。
「……どうした、輝夜」
「……特高警察の、内部通報者からです」
輝夜は、受話器を握りしめたまま、義正を見た。
「陸軍省の東條が、動きました。私たちの口座がアメリカによって凍結されたという情報を、どこからか手に入れたようです。……『外貨を持たない詐欺師を、国家反逆罪で直ちに拘束せよ』と、特高の一個中隊が、このホテルに向かっています」
義正は、スッと目を細めた。
資金が尽きた主人を、番犬が真っ先に噛み殺しに来たのだ。
それも、合法的な『国家権力』という牙を剥き出しにして。
「さらに……満州にいる陸軍の急進派が、独断で軍を動かし始めたという報告が入りました。指揮官は、石原莞爾」
その名を聞いた瞬間、義正の背筋に冷たいものが走った。
石原莞爾。
牟田口のような無能とは次元が違う、日本陸軍きっての「狂気の天才」。
義正の「カネの支配」を嫌悪していた彼が、この空白の瞬間に、歴史の歯車を強引に回そうと『満州事変』の引き金を引こうとしている。
口座残高、ゼロ。
特高警察の包囲網。
そして、天才軍略家による暴走。
最強の武器(算盤)を失った瞬間に襲いかかる、物理的・政治的な致死量の絶望。
ルーズベルトの放った「ルール変更」という魔法は、たった半日で、義正と輝夜を天国から地獄の底へと蹴り落としたのだった。
「……義正さん、逃げましょう。裏口ならまだ間に合います」
輝夜が義正の手を引こうとする。
だが、義正はその場から一歩も動かず、懐から最後の黄金糖を取り出した。
「……ルールが変わったなら、仕方ない」
包みを開き、口の中へ。
――ガリッ。
甘い破片が砕ける音が、絶望の淵に立つ部屋に響く。
だが、その顔に浮かんでいたのは、諦めではなかった。
スーツのネクタイを乱暴に引き剥がし、商社のエースは野獣のように目をギラつかせた。
「綺麗な金融(数字)の遊びはここまでだ。……これからは、泥に塗れた『現物』で算盤を弾くぞ」
無敵のチートを剥奪された主人公が、這い上がるための「商社の泥臭い原点」へと立ち返る。
国家権力という絶対の理不尽に対する、狂犬の反逆が始まろうとしていた。




