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第三章 神の掟(ルール)と密輸商の算盤

束の間の月見酒と、迫る暗雲

 昭和五年、秋。

 スターリングとの『資源の長期安定供給協定』締結から数ヶ月が経過し、日本国内にはかつてないほどの穏やかな風が吹いていた。

 義正がウォール街から巻き上げた天文学的な「ドル」と、輝夜が緻密に組み上げた「農村救済特別融資法案」。

 この二つが噛み合ったことで、疲弊しきっていた地方の農村には無利子の資金が血液のように行き渡り、娘たちの身売りや餓死という地獄は、見事に回避されていた。

「……信じられません。長野の村から、今年の豊作を知らせる手紙が届きました。皆、あなたの融資のおかげでトラクターを買い、新しい苗を植えられたと……」

 帝国ホテルのバルコニー。

 手紙を胸に抱きしめ、輝夜は月の光の下で涙ぐんでいた。

「俺はカネを回して、利子リターンの代わりにこの国の経済基盤を強化しただけだ。……泣くほどのことじゃない」

 義正は、バルコニーの手すりに寄りかかりながら、無造作に赤マルの煙を吐き出した。

 言葉とは裏腹に、その横顔はどこか満ち足りているように見えた。

「義正さん……本当に、ありがとうございます」

 輝夜は備前焼のぐい呑みに冷酒を注ぎ、義正に差し出した。

 カチン、と。

 土と土が触れ合う、温かい音が響く。

「軍部もおとなしくなり、資源の供給も安定しました。……あなたが作ってくれたこの平和な盤面を、私が政治の力で必ず守り抜いてみせます」

「ああ。だが、兜の緒は締めておけよ。俺がアメリカ(あいつら)から奪ったカネとプライドは、ちょっとやそっとで諦めがつくようなスケールじゃない」

 義正はぐい呑みを干し、暗く沈む太平洋の彼方を見つめた。

 資本主義の化け物である彼の本能が、奇妙な「静けさ」に微かな警鐘を鳴らしていた。

     *

 同じ頃。

 海を隔てた遥か彼方、アメリカ合衆国・ワシントンD.C.。

 ホワイトハウスの大統領執務室オーバルオフィスは、分厚い葉巻の煙と、重苦しい沈黙に包まれていた。

「……これが、極東の島国ジャパンで起きている現実か」

 車椅子に深く腰掛けた大男が、報告書をデスクに放り投げた。

 新たに就任したばかりのアメリカ合衆国大統領――フランクリン・デラノ・ルーズベルト。

 恐慌のどん底に喘ぐアメリカを救うため、前例のない強権を発動する『怪物』である。

「はい、ミスター・プレジデント。我が国の資源コングロマリットであるスターリング社が、事実上、日本の一民間人の支配下に置かれました。さらに、ウォール街から流出した莫大なドル資金が、彼らの国力を異常な速度で肥大化させています」

 CIAの前身である情報局の長官が、冷や汗を拭いながら報告する。

「その男の名前は?」

「『ヨシマサ・リキタケ』。元商社マンを名乗る正体不明の男です。彼が握る金融の『算盤システム』により、現在、太平洋のパワーバランスは完全に日本へと傾きつつあります」

 ルーズベルトは、車椅子の肘掛けを指先でトントンと叩いた。

 その瞳に宿るのは、一介の商人に国益を蹂躙された怒りではない。

 自らの庭を荒らす害獣を、いかにして最も効率的に駆除するかという、絶対的権力者の冷徹な計算だった。

「……面白い。たった一人の東洋の商人が、神のアメリカの経済を牛耳ろうというのか」

 大統領は、執務机の引き出しから一枚の『書類』を取り出した。

「資本主義のルール(カネ)で彼が勝者となったのなら。我々は、そのルールそのものを『書き換えれ』ばいい」

「ミスター・プレジデント、それは……」

大統領令エグゼクティブ・オーダーを発動する」

 ルーズベルトは、万年筆のキャップを外し、力強い筆跡で書類にサインを書き殴った。

「国家安全保障の特例措置だ。本日この瞬間をもって、アメリカ合衆国および同盟国に存在する『リキタケ』およびそのダミー会社の全資産・全口座を――完全に凍結フリーズする」

「……ッ! しかし、それは明らかな国際法違反……私有財産の不当な没収に当たります! 世界の金融市場がパニックに陥りますぞ!」

「構わん。アメリカの国において、法とは私が決めるものだ。ルールを破られたくなければ、海を渡って私の首を取りに来いと言え」

 ルーズベルトが不敵に笑い、サインされた書類が長官に手渡される。

 アメリカ合衆国という、世界最大の『暴力機関(国家)』による、理不尽極まりないルールの書き換え。

 義正の持つ最強の武器――ウォール街から奪い取った天文学的なドル資金が、大統領のサイン一つで、一瞬にしてただの「紙切れ」へと変わった瞬間だった。

 帝都で月を見上げる狂犬は、自分に迫り来る「絶対的な絶望」の足音に、まだ気づいていなかった。

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