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EP 10

月夜の乾杯と、世界を狂わせる算盤


 スターリングの震える手が、万年筆を握りしめていた。

 彼が今、サインを強要されているのは、日本側にとって圧倒的に有利な『資源の長期安定供給協定』だ。

「……こんなもの、本国ワシントンが黙っちゃいないぞ。一介の民間企業が、国家の外交戦略を根底から覆すなど……」

「本国がどうした。政治家ポリティシャンの選挙資金を出してやってるのは、お前ら企業だろうが」

 義正は、スターリングの耳元で冷酷に囁いた。

「俺に油田を止められれば、お前らの会社は明日にも不渡りを出す。……サインしろ。それとも、ここで会社ごとあの世にいくか?」

 選択肢など、最初から存在しなかった。

 スターリングはギリリと奥歯を噛み締め、屈辱の涙を浮かべながら、協定書にサインを書き殴った。

 かつて世界を牛耳っていたアメリカの巨大資本が、極東の島国で完全に屈服した瞬間だった。

「ご苦労様でした、ミスター・スターリング。これで、両国の『対等な』友好関係が築けますね」

 輝夜は、完成した協定書を優雅に受け取り、ニコリと微笑んだ。

 その完璧な外交的勝利スマッシュに、周囲の日本側関係者たちは、まるで魔法でも見たかのように息を呑み、やがて割れんばかりの拍手を送った。

 武力でもなく、卑屈な土下座でもない。

 圧倒的な「経済的暴力」による、アメリカへの逆制圧。

 それは、資源を持たない日本が、歴史上初めて超大国の首根っこを掴んだ日として、決して表の歴史には載らない偉業だった。

     *

 数時間後。

 パーティーの喧騒から逃れるように、義正と輝夜は洋館の広いバルコニーに出ていた。

 見上げれば、帝都の夜空には煌々と輝く満月が浮かんでいる。

「……見事な手際だったな、輝夜。お前が政府の印鑑ハンコを即座に用意していたおかげで、あいつらに反撃の隙を与えずに済んだ」

 義正はネクタイを緩め、夜風に吹かれながら赤マルに火を点けた。

 輝夜はバルコニーの手すりに寄りかかり、手元に持っていた小さな風呂敷包みを解く。

 中から現れたのは、あのボロアパートで義正に茶を淹れた時と同じ、自作の備前焼のぐい呑みだった。

「今日は、お茶ではなくお酒にしましょう。私の故郷、長野の地酒です」

 輝夜は、二つのぐい呑みに、トクトクと澄んだ酒を注いだ。

 そして、その一つを義正に差し出す。

「お疲れ様でした、義正さん。……あなたが私の『盾』になってくれたおかげで、日本はアメリカの理不尽な要求を退けることができました」

「盾、ね」

 義正はぐい呑みを受け取り、鼻で笑った。

「俺はただ、自分の算盤の邪魔になる奴らを物理的と経済的にすり潰しただけだ。……だがまあ、悪くない気分だ」

 カチン、と。

 備前焼が軽くぶつかる音が、夜空に溶けていく。

 口に含んだ冷酒は、義正が元の世界で飲み慣れていた高級ワインよりも、ずっと深く、温かい味がした。

「軍部(牟田口・東條)を飼い慣らし、政治(近衛)を操り、アメリカから資源を確保した。これで、お前が夢見ていた『農村を救うための土台』は完成だ」

「ええ。……でも、これはまだ始まりに過ぎません」

 輝夜は、月を見上げた。

 その瞳の奥には、優しさだけではない、国家の未来を背負う者としての静かな覚悟が燃えている。

「スターリングはあくまで一企業です。アメリカという巨大な国家そのものが、いずれ必ず牙を剥いてきます。……本当の戦争(暗闇)は、これからです」

「分かってるよ。だから俺が、あいつらの牙を『経済』で全部へし折ってやるんだ」

 義正はポケットから黄金糖あめだまを取り出し、空に透かして満月と重ね合わせた。

 光を乱反射する、黄金色の甘い塊。

「世界中のカネを、俺の算盤システムで支配する。文句を言う奴は、国境を越えてすり潰す。……お前が望む、誰もが笑って酒を飲める平和な世界(お花畑)を守るためにな」

 ――ガリッ。

 奥歯で噛み砕かれた飴玉の音が、静かなバルコニーに響き渡る。

 それは、これから始まる全世界を巻き込んだ「狂気の経済戦争」の、宣戦布告の音だった。

「……はい。私も、あなたの『算盤』が狂わないように、月として、どこまでも照らし続けます」

 二人は夜風の中で、並んで同じ月を見上げた。

 最強の資本力を持つ冷酷な狂犬と、決して折れない信念を持つ霞が関の月。

 昭和五年。世界恐慌の泥沼の中で、この二人のバディが「大日本帝国」という国そのものを最強の株式会社へと作り変え、世界の歴史ルールを書き換えていく物語は、いよいよ太平洋を越えた激動のステージへと突入していく。


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