EP 9
摩天楼の幽霊(ウォール街の支配者)
昭和五年、春。
世界恐慌の嵐が吹き荒れる中、帝都・東京の華やかな洋館で、日米合同の「経済親善パーティー」が開かれていた。
だが、その『親善』という名の裏側では、血で血を洗うような冷酷な交渉が繰り広げられている。
「……ミスター・スターリング。この『関税自主権の放棄』に等しい協定案には、到底サインできません。我が国は、貴国から輸入する石油と鉄鋼の価格を、適正な国際価格で取引することを望んでいます」
シャンデリアの下。
アースカラーのドレスに身を包んだ輝夜は、流暢な英語で、目の前の巨漢のアメリカ人を真っ直ぐに見据えていた。
ジョン・スターリング。
アメリカの石油と鉄鋼を牛耳る巨大コングロマリットの極東責任者であり、ウォール街にも太いパイプを持つ男だ。
「ハハハ! ミス・ヒノ。あなたのそのドレスは美しいが、頭の中はお花畑のようだ」
スターリングは、葉巻の煙を輝夜の顔に無遠慮に吹きかけた。
「世界恐慌で、今やどこの国も自国の産業を守るのに必死だ。資源を持たない哀れな島国が、我々アメリカ様から石油と鉄を買いたければ、言い値の『三倍』を払うのが当然のルールだろう?」
「それは、単なる搾取です」
「搾取? ビジネスと言ってくれたまえ。嫌なら、明日からおたくの海軍の船は、一隻も動けなくなるがね。……さあ、大人しくこの不平等条約にサインしなさい」
周囲を取り囲むアメリカの外交官やビジネスマンたちが、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる。
強大な資源と資本を背景にした、絶対的な大国からの「恫喝」。
だが、輝夜は一歩も引かなかった。
彼女の背後には、かつてのように足を引っ張る無能な軍人(牟田口)も、腐敗した官僚(東條)もいない。彼らは今や、義正の「算盤」によって完璧に統制され、輝夜の交渉を後押しする強固な『盾』として機能しているのだから。
「……サインはしません。それに、あなたのその強気な態度も、今日までですよ」
輝夜が静かに微笑んだ、その時だった。
「その通りだ。他人の庭でデカい顔すんのも、大概にしておけよ」
群衆を掻き分け、一人の男が歩み出てきた。
上質な三つ揃えのスーツ。口元には赤マル。
力武義正だ。
「なんだお前は? 私は今、日本政府の代理人であるミス・ヒノと話しているんだ。ビジネスの場に、汚い商人を入れ――」
「ビジネス? 笑わせるな」
義正はスターリングの胸ぐらを片手で掴み、強引に引き寄せた。
巨漢のアメリカ人が、義正の異常な腕力(柳生心眼流)の前に、まるで子供のようにバランスを崩す。
「お前らが吹っかけてきた石油の価格。三倍だっけか? ……悪くない数字だが、少し計算が甘いな」
義正はスターリングを突き飛ばすと、懐から一枚の書類を取り出し、テーブルの上に叩きつけた。
「な、なんだこれは……?」
「お前の会社が、テキサスに持っている最大の油田群。それから、オランダ領東インド(インドネシア)で採掘権を持っている油田の……『譲渡証明書』だ」
スターリングの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「ば、馬鹿な! 我が社の心臓部である油田の権利が、なぜ極東の猿の手に……ッ!」
「お前ら、去年の『ブラック・サーズデー』で死ぬほど株価を落として、資金繰りに詰まってただろ? その時、匿名で融資を申し出てきたスイスの投資ファンドがあったはずだ」
義正の言葉に、スターリングはガクガクと震え始めた。
そうだ。倒産寸前だった自社を救ってくれた、あの巨大な救済ファンド。その担保として、油田の権利を一時的に預けたはずだ。
「そのファンドのオーナー(持ち主)が、俺だ」
義正は、懐からセロハンに包まれた飴玉を取り出した。
「お前らは、俺がウォール街から『空売り』で巻き上げたカネを、命綱だと思って嬉しそうに啜ってたんだよ。……そして今日、その返済期限が『偶然』切れた」
――ガリッ。
黄金糖を奥歯で噛み砕く音が、静まり返ったパーティー会場に響き渡る。
「てめえの会社の心臓(油田)は、今日から俺のモノだ。お前らに、日本の相棒(輝夜)に偉そうに条件を突きつける権利なんて、一ミリも残っちゃいねえんだよ」
「あ、あ、ああ……っ!」
スターリングは膝から崩れ落ち、頭を抱えた。
アメリカの資源で日本を支配しようとしていた男は、その根源である「アメリカの資源」そのものを、日本の商人に合法的に奪われていたのだ。
周囲のアメリカ人たちも、幽霊でも見るかのように義正に怯えきっている。
彼らは理解した。この男こそが、ウォール街を崩壊させ、天文学的なドルを一夜にして強奪した『摩天楼の幽霊』の正体であると。
「……さあ、再交渉の時間だ」
義正は、輝夜の隣に並び立ち、震えるアメリカ人たちを見下ろした。
「今度は俺がルールを決める。石油も、鉄も、全て俺たちが適正価格(タダ同然)で買い叩いてやる。……文句がある奴は、明日会社が倒産する覚悟をしておけ」
かつて日本を苦しめた「ABCD包囲網」による資源封鎖。
それが形成されるよりも遥か前、昭和五年の春。
最強の商社マンの算盤と莫大な外貨によって、アメリカの巨大資本は、物理的にも経済的にも完全に「降伏」の二文字を突きつけられたのだった。




