EP 7
空っぽの御輿
翌日の昼下がり。
帝都の中心に位置する、近衛家の豪奢な本邸。その応接室には、怒号と悲鳴が入り混じっていた。
「……どういうことだ! 今日の夕刊に掲載されるはずだった私の大演説が、全て差し替えられただと!?」
近衛文麿は、美しい顔を夜叉のように歪め、秘書に向かってインク瓶を投げつけた。
ガチャン、と壁でガラスが砕け、黒いインクが高級な壁紙を汚す。
「も、申し訳ありません、公爵閣下! 帝都の大手新聞三社が、突如として『近衛公爵に関する一切の報道を自粛する』と通達してきたのです! 輪転機を回すためのインクと紙の卸売業者が、全て謎の外資に買収され、『近衛の記事を載せるなら紙を下ろさない』と……!」
「馬鹿な……! 新聞社には私が直々に便宜を図ってやっていたはずだぞ! ならばラジオだ! ラジオ局を使って、私の声を直接国民に届ける!」
しかし、秘書は絶望的な顔で首を横に振った。
「そ、それも不可能です……。閣下の政治活動を支援していた『帝都紡績』や『関西財閥』のスポンサーたちが、今朝から次々と倒産、あるいは外資の敵対的買収に遭い……閣下への政治献金が『ゼロ』になりました。ラジオの放送枠を買う資金が、一円もありません!」
「なっ……!?」
近衛はよろめき、マホガニーのデスクに手をついた。
彼の「大衆からの熱狂的な人気」は、メディアによる連日の提灯記事と、金で雇われたサクラたちが作り上げた『作られた熱狂』だった。
資金源と発信源を同時に絶たれた今、彼はただの「金のないイケメンの貴族」でしかない。
「……あの、商人の仕業か。たかが一介の成金が、歴史あるこの私を……ッ!」
ギリリ、と歯を食いしばった時だった。
本邸の重厚な両開きの扉が、執事の制止を振り切って乱暴に開かれた。
「随分と静かになったじゃないか、貴族サマ」
現れたのは、三つ揃えのスーツを纏い、悠然と赤マルを吹かす力武義正だった。
その後ろには、アースカラーの洋装に身を包んだ輝夜が、静かな瞳で近衛を見つめている。
「き、貴様らぁ……! 不法侵入だぞ! 警察を、いや憲兵を呼べ!」
「無駄だ。お前の後ろ盾になっていた警察幹部への『付け届け』も、俺が今朝、全部ストップさせておいた。今頃あいつら、手のひらを返してお前のスキャンダルを喜んで探してる頃だぜ」
義正はソファにどっかりと腰を下ろし、呆然とする近衛を見上げた。
「お前は昨日、大衆を救うだの、輝夜の理想を叶えるだのと偉そうに吠えていたな。だが、フタを開けてみればどうだ」
義正は、テーブルの上に『一枚の書類』を放り投げた。
「お前のその豪奢な屋敷。……銀行からの借金(抵当)に入ってたんだな。政治活動費の穴埋めか?」
「あ……」
「その債権(借金)、俺がさっき全額買い取った。つまり、この屋敷の持ち主は今、俺だ。お前は今から、俺の屋敷に不法侵入しているホームレスってことになる」
近衛の顔から、完全に血の気が引いた。
彼を覆っていた「公爵」という絶対的な鎧が、資本主義の冷酷なルールによって、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。
「他人のカネと他人の言葉で飾り立てられた、ただの空っぽの『御輿』。……それがお前の正体だ、近衛文麿」
義正の言葉は、物理的な暴力よりも遥かに鋭く、近衛の自尊心をズタズタに引き裂いた。
「わ、私は……私は、選ばれた人間だ……! 大衆を導く、高貴な血筋……っ!」
「血筋で、明日のメシが食えるか? 血筋で、農村の借金がチャラになるか?」
義正は立ち上がり、近衛の胸ぐらを軽く掴んだ。
「理想を語るなら、自分のカネと血でリスクを背負え。それができないなら、一生、俺の算盤の隅で震えてろ」
義正が手を離すと、近衛は糸が切れた操り人形のように、床にへたり込んだ。
華族の誇りも、大衆からの熱狂も、全てを経済の力で奪われた男の、完全なる敗北だった。
「……義正さん、もう十分です」
輝夜が静かに歩み寄り、義正の腕に触れた。
彼女は、床で震える近衛を見下ろし、冷たく、だが悲しげに告げた。
「近衛公爵。あなたの言葉には、本物の『痛み』がありませんでした。だから、誰の心も本当の意味では救えないのです。……さようなら」
それは、霞が関の月からの、政治家・近衛文麿に対する冷酷な「死刑宣告」だった。
「さて、と」
義正は懐から時計を取り出し、時間を確認した。
「狂犬(牟田口)、カミソリ(東條)、そして空っぽの御輿(近衛)。……帝国の腐ったガン細胞たちは、これで全員、綺麗にまな板の上に乗ったな」
義正はニヤリと、捕食者の笑みを深めた。
「今夜、帝都の料亭で『仕上げ』だ。この国の首根っこに、外れない首輪を嵌めてやる」
軍の武闘派、官僚派、そして政界のカリスマ。
未来の日本を破滅に導くはずだった「戦犯」たちを、一介の商人が『算盤』一つで完全支配する。
歴史のターニングポイントとなる狂宴の夜が、すぐそこまで迫っていた。




