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EP 6

若き貴族の甘い罠

 帝都の政治と軍事の中枢が、突如として奇妙な「沈黙」に包まれていた。

 狂犬のように吠え猛っていた武闘派の牟田口連隊はおとなしくなり、カミソリと恐れられた東條率いる官僚派も、一切の強硬な法案を取り下げたのだ。

 政治記者たちが「軍部になにか凄まじい圧力がかかったのでは」と嗅ぎ回る中。

 華族(貴族)たちが集う、鹿鳴館の面影を残す豪奢な洋館のサロンにて、一つの夜会が開かれていた。

「……素晴らしい。実に素晴らしい理想です、日野輝夜くん」

 シャンデリアの眩い光の下。

 燕尾服を優雅に着こなし、輝夜に甘く熱い視線を向けているのは、時の寵児――近衛文麿このえふみまろだった。

 公爵という日本最高の家格。端正な顔立ちと、大衆の心を掴む天性の演説ポピュリズムの才能。

 後に内閣総理大臣となるこの若きカリスマは、会場の令嬢たちの熱視線を一身に集めながら、輝夜の手を仰々しく取った。

「君が日比谷公園で叫んだ『月夜の理想』。……ええ、届いていますとも。農村を救い、格差をなくす。その崇高な祈りに、私は酷く胸を打たれました」

「近衛、公爵……」

 輝夜は少し困惑したように、半歩だけ距離を取った。

 今日、この場に彼女が呼ばれたのは、内閣府のブレーンとしての立場から「政界のホープ」である近衛の意見を聞くためだったのだが。

「今の腐敗した政治では、君の理想は実現できない。だから、私と共に新しい『国民のための政治体制』を作りませんか? 君が私の隣で微笑んでくれれば、大衆は必ず我々を支持する。共に、この国を救いましょう」

 まるで舞台俳優のような、完璧な口説き文句。

 並の女性であれば、この「貴公子」からの熱烈なオファーに頬を染め、平伏していただろう。

 だが。

 輝夜の心は、備前焼のように冷たく、静かに透き通っていた。

(……この人は、言葉だけだ)

 輝夜には、はっきりと見えていた。

 近衛の瞳の奥にあるのは「農村への本気の哀れみ」ではない。自分の人気取りのために、輝夜の『美談』を利用しようとする、薄っぺらな野心だけだ。

「……お断りします」

 凛とした声が、サロンに響いた。

 近衛の甘い笑顔が、ピクリと凍りつく。

「な、なんだと? 私の、この日本を救うという大義名分が――」

「大義名分で、農民の腹は膨れません。彼らに明日必要なのは、美しい演説ではなく、今日を生き抜くための『米』と『融資カネ』です。近衛公爵、あなたのその壮大な計画の『財源』は、一体どこから出るのですか?」

「そ、それは……これから大衆の寄付を募り、あるいは国債を発行して……っ」

 口ごもる近衛。

 輝夜は小さくため息をついた。義正という「本物の資本主義のバケモノ」の隣で、血反吐を吐くようなリアルな算盤を見てきた彼女からすれば、近衛の言うことはあまりにも現実味のない『おままごと』に過ぎなかった。

「話にならないな。ただの空っぽの『御輿みこし』じゃないか」

 その時。

 サロンの壁際で、一人退屈そうに赤マルの煙を吐き出していた男が、ゆっくりと歩み出てきた。

 義正だ。

 上質なスーツを着崩し、野獣のような鋭い気配を纏う男の登場に、周囲の貴族たちが顔をしかめる。

「き、貴様は……輝夜くんの『出資者パトロン』の力武とやらだな! 商人風情が、公爵である私に気安く口を利くな!」

 近衛が声を荒げた。

「商人のカネなど、本来なら汚くて触りたくもない! だが、輝夜くんの崇高な理想のために、私という『高貴な存在』がそのカネをロンダリング(浄化)してやろうと言っているのだ!」

 近衛のその傲慢な言葉に、義正はふっと口角を上げた。

 怒りではない。見下すような、冷酷な捕食者の笑み。

「カネを汚いと言う奴に限って、他人のカネで飯を食おうとする。……典型的な、無責任なポピュリストだ」

 義正は、輝夜の肩を抱き寄せた。

 近衛の顔が屈辱で赤く染まる。

「輝夜の理想(夢)は、俺の『算盤』に乗っている。お前みたいな中身のない張りボテに、一円たりとも投資する気はないね」

「き、きさまぁ……! 不敬だぞ! 私の背後には、財界の重鎮たちや有力なメディアがついているのだ! 貴様ごとき成り上がり、私が本気になれば帝都から一瞬で消し去れるのだぞ!」

 近衛の負け惜しみを聞き流し、義正は懐から黄金糖あめだまを取り出した。

 ――ガリッ。

 甘い塊を奥歯で噛み砕く音が、華やかなサロンに不気味に響き渡る。

「……面白い。やってみろよ、貴族サマ。お前のその後ろスポンサーとやらが、明日になっても残っているならな」

 義正は輝夜を連れて、そのまま踵を返した。

 後に残された近衛は、悔しさで拳を震わせながら、義正の背中を睨みつけていた。

 だが、この時の近衛はまだ理解していなかった。

 自分が喧嘩を売った相手が、数日前に巨大財閥を消し飛ばし、帝国軍の心臓を素手で握り潰した『歩く世界恐慌』であることを。

 馬車に乗り込んだ義正は、電信の受話器を手に取り、冷たく言い放った。

「……ジェームズ。ターゲットの変更だ。近衛文麿を支援している企業、新聞社、スポンサーの全てをリストアップしろ。……ああ、そうだ。今夜中に、全て『買い叩け』。あいつを、ただの金のない見世物ピエロに引きずり下ろす」

 武力、権力に続き。

 大衆を扇動する「政治的カリスマ」すらも、圧倒的な『資本(算盤)』によって容赦なくすり潰す。

 帝国最後の大掃除が、ついに始まった。

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