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EP 5

裏帳簿の監査(カミソリの首輪)

 陸軍省、東條英機の執務室。

 先程までの冷徹な自信は完全に消え失せ、東條は手元の受話器を握りしめたまま、信じられないというように顔を強張らせていた。

「……内閣と外務省が、直接動いただと? 特高の差し押さえを、総理の権限で白紙撤回させただと!?」

 受話器の向こうの部下からの報告に、東條はギリリと歯軋りをした。

 政治の根回しには自信があった。だが、相手の初動はカミソリと呼ばれる東條の予測を遥かに超える速度だった。

 まるで、霞が関の暗部を知り尽くした『熟練の政治家』が、ピンポイントで軍の弱点を突いてきたかのような、完璧な防衛陣。

「ええい、構わん! ならば別の法案をでっち上げてでも、奴の資金源となっている外資系銀行を叩け! 軍の息のかかった『帝都興業銀行』に圧力をかけさせろ!」

 東條が怒鳴り散らした、まさにその瞬間だった。

 ――ジリリリリリリッ!

 デスクの上の直通電話が、悲鳴のようなベルの音を上げた。

 東條が苛立たしげに受話器を取る。

『と、東條少佐ッ! 帝都興業銀行の頭取です! た、大変です!』

「なんだ騒々しい。今から貴様の銀行を使って、あの不逞の輩の資金を――」

『違います! 当行が……たった今、謎の外国資本によって、株式の過半数を強引に取得されました! 事実上の乗っ取り(買収)です!』

「……は?」

 東條の思考が、一瞬停止した。

 帝都興業銀行。それは、陸軍が機密費のプールや、違法な裏金のロンダリング(資金洗浄)に使っている、絶対に表に出せない「軍の闇金庫」だった。

『新しい筆頭株主の代理人が、今そちらに……っ!』

 ガチャリ、と。

 頭取の悲鳴を遮るように、執務室の重厚な扉が開かれた。

「ノックくらいしろと言いたいところだが。まあ、お前らの会社の『新オーナー』の視察だ。大目に見てやる」

 現れたのは、三つ揃えのスーツを着こなした義正だった。

 その後ろには、静かに付き従う輝夜の姿がある。

「き、貴様……力武義正! 軍の中枢にノコノコと現れるとは、死にたいのか!」

 東條が腰の軍刀に手をかけようとしたが、義正は全く動じず、小脇に抱えていた分厚い革張りの『帳簿』を、東條のデスクの上にドサリと放り投げた。

「俺を斬る前に、その数字のズレを説明してみろ」

「なっ……これは」

 東條の顔から、一瞬にして血の気が引いた。

 それは、帝都興業銀行の最深部に隠されていたはずの、陸軍の『裏帳簿』だった。

「満州のダミー会社を経由した、武器調達費の水増し請求。……それに、軍馬の購入費を偽装して、お前ら官僚派の政治工作資金に回した形跡。ズレた金額の合計は、ざっと三百万ハジキ(約三十億円)ってところか」

 義正は、東條の顔にタバコの煙を吹きかけた。

「お粗末だな、東條。昭和の資金洗浄ロンダリングの手口なんて、俺がいた商社の新入社員ペーペーでも一日で暴けるぞ。俺の算盤を舐めるな」

「で、でっち上げだ! こんな出処不明の書類など――」

「本物か偽物かは、メディアと世間が判断する」

 義正は、スッと目を細めた。

「この裏帳簿のコピー。俺の相棒(輝夜)のルートを使って、海軍のトップと、お前の政敵である陸軍の皇道派、それから全国の大手新聞社に『いつでも送れる』状態にしてある」

 カミソリ東條の手から、ポロリと万年筆がこぼれ落ちた。

 完全に、詰んでいる。

 もしこの裏帳簿が公になれば、東條の軍歴が終わるどころではない。軍法会議にかけられ、最悪の場合は銃殺刑だ。

「……貴様、何が目的だ。カネか? 権力か?」

 震える声で絞り出した東條に、義正は冷酷な笑みを浮かべた。

「カネなら腐るほどある。俺が欲しいのは、お前の『首輪』だ」

 義正はデスクに身を乗り出し、東條の目を真っ直ぐに射抜いた。

「お前は官僚だ。数字とルールで軍を動かすのが得意なんだろう? だったら、今日から俺の算盤ルールの中で動け。俺と輝夜の邪魔をする馬鹿な軍人が出ないように、お前が『予算』を使って抑え込め」

「私に……軍を裏切れと言うのか!」

「裏切るんじゃない。『飼い主』が変わるだけだ」

 義正は、東條の胸ぐらを軽く小突いた。

「カミソリってのは便利な道具だが、握る人間を間違えれば自分を切る。……俺が、正しい使い方を教えてやるよ。逆らえば、お前は社会的に死ぬ。選べ」

 沈黙が、執務室を支配した。

 東條の額から、じっとりと冷や汗が流れ落ちる。

 暴力(牟田口)でも勝てず、法律(東條)でも勝てない。この得体の知れない資本主義の怪物は、軍という巨大な組織の急所を、いとも容易く『経済』で握り潰してしまったのだ。

「……わかっ、た。貴様の、指示に従う……」

 ギリリと血が滲むほど唇を噛み締めながら、未来の首相となる男は、一介の商人の前で深く頭を垂れた。

 完全なる敗北宣言だった。

交渉成立ディール・ダンだ。精々、優秀な番犬として働いてくれよ」

 義正は踵を返し、輝夜と共に執務室を後にした。

 廊下に出ると、輝夜が小さく安堵の吐息を漏らす。

「見事な連携だったぞ、輝夜。お前が政治で時間を稼いでくれたおかげで、銀行の買収が間に合った」

「義正さんの『算盤』こそ、恐ろしいですよ。……これで、軍部の武闘派も官僚派も、私たちに手出しできなくなりましたね」

 武力の牟田口、法と予算の東條。

 帝国軍の暴走の芽を、現代の「経済力と政治力」のコンボで完全に摘み取った二人のバディ。

「ああ。だが、軍人を黙らせても、まだ『口うるさい御輿』が残っている」

 義正は、廊下の窓から帝都の中心――政治の中枢である国会議事堂の方角を見据えた。

 次の標的は、大義名分だけで国民を煽る、金庫の空っぽなポピュリスト。

 若き貴族、近衛文麿の「甘い罠」が、二人に迫りつつあった。

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